総勢で、二十五万は下らないはずである。まさしく、壮観だった。自由にできる兵が、今これだけ手元にあれば。孫堅ですら、不意にそう思ってしまうほどの陣容だった。
袁紹のいる営舎には、各軍を率いる将軍たちが参集していた。ほとんどが、太守より上の地位を持っている。その範疇だけで考えれば、曹操などは吹けば飛ぶ程度の存在でしかなかった。
あれから袁紹は、曹操と無事語らうことができたのだろうか。自身の席に着きながら、孫堅はそんなことを考えていた。
実のところ、あまり上手くいかなかったのではないか、と孫堅は思う。曹操は、軍議の場を取り仕切ってはいるものの、その動きは傍目から見て淡白そのものだった。反対に、袁紹は満足気に笑みすら浮かべているのだ。
名門の生まれゆえに、他者の心の機微に疎いのかもしれない。将軍位を与えたのは曹操の気を引くためなのだろうが、それがはっきりと裏目に出てしまっているのだ。
競おうとしている相手から施しを受けたところで、いい気などするはずがない。気持ちの駆け引きの部分で、袁紹は弱みを露呈していた。
話しをしている間、曹操が袁紹のほうを向くことはほとんどなかった。むしろ、避けているのではないか。孫堅には、そう見えるくらいだったのである。
両人の思い。一致していないのは、明らかだった。
それでも、軍議は進んでいく。盟主である袁紹の意向を受け、役割が決まっていった。
全軍の兵糧の管理は、袁術がすることになった。酸棗まで渋々連れて来られたようなものだから、それなりの役目を与えてやる必要があったのだろう。薄い胸を精一杯張り、袁術は誇らしげに諸侯に対し言葉を述べている。
一抹の不安はあるが、決まったからにはこれでいくしかない。側近である張勳がしっかりと取り仕切れば、問題はないはずだった。
曹操の目を、孫堅は見ていた。闘う意志。そういうものを、宿している目だった。曹操が見ているのは、自分の戦なのだろう。望んでいるのは、乱世なのだ。
「戦の段取りを、決めようと思う。洛陽を攻めるのであれば、間にある二つの関が邪魔になる。まずは、そちらの攻略から掛かるべきだろう」
「距離でいえば、汜水関の方が酸棗からも近いか。曹操殿、陣立ての案はあるのか?」
「まずは各々方の考えを聞くつもりでいたから、まだなにも。やると言われるのであれば、公孫賛殿に先陣をお任せしてもよいのだが」
「せ、先陣をわたしにか? しかし、困ったな。こちらの軍は、騎馬兵が主体なんだよ。関を攻めるとなると、上手く力を発揮できるかどうか」
言われて、公孫賛は戸惑いを見せている。今ひとつ自信がないのか、あまり乗り気ではなさそうだ。
幽州の地では、名の通った将軍だった。飛び抜けた能力こそないものの、騎馬の用兵については光るものがある。それにこのところ、公孫賛の軍が力を増しているとの報告を孫堅は受けていた。
麾下ではないが、旗色を同じくして闘っている者がいる。その者らが、いい働きをしているというのだ。
劉備。袁紹から見て、最も離れた位置に座していた。連れてきたのが公孫賛のようなお人好しでなければ、営舎にも入れていなかったはずなのである。
流浪の将だが、兵はよく鍛えられていた。少し物見をしただけでも、それがわかったのである。関羽と張飛。その二人が、厳しく調練をやっている。
劉備の名を覚えておいて、今後損をすることはないはずだ。孫堅の勘が、そう告げていた。
「曹操、それに袁紹も聞け」
立ち上がる。諸将の視線。自分に集まっているのが、よくわかった。
「汜水関攻めの先陣、この孫堅が請け負おう。ハッ……、異見があるのであれば、今のうちだぞ? 後になって一番槍を譲ってくれなどと言われても、オレは聞く耳など持たぬ」
「そうか。孫堅殿であれば、間違いないな。俺は任せていいと思うが、どう思う袁紹」
「ええ、それでよくってよ。孫堅さん、連合軍の初戦を華々しく飾るためにも、しかと励まれることですわね」
曹操の言葉に、袁紹は優美に頷いて見せた。
決まりである。董卓軍の強さを今ひとつ掴めていないせいか、諸将は様子見をしているようなのだ。こういう時に戦功を上げることができれば、自分の名声は高まっていく。
汜水関の守りが堅いことは、承知していた。守兵の数は、三万から四万といったところか。自軍の兵は二万だから、力ずくで攻略にかかると損害が大きすぎる。だから緒戦で関外の敵兵を叩き、あとは持久戦に持ち込むつもりだった。攻囲している間に、別の部隊がもう一つの関である虎牢関を囲む。それで、汜水関は孤立することになる。
「出陣の準備があるから、オレは先に帰らせてもらうぞ。袁術、兵糧は任せてよいのだな?」
「ひいっ!? な、なんじゃその目は。この妾が、信用できぬとでも申したいのか、孫堅」
「誰もそんなことは言っておらぬが、自覚でもあるのか? まあ、戦が恐ろしくて漏らさぬように、頑張ることだな」
「ぐぬぬっ……。そんなこと、あるわけがなかろう……!」
袁術が、怒りで声を震わせている。
その様子を見かねてか、張勳が器にいれた飲み物を差し出している。蜂蜜水。甘ったるいものが、袁術の好物のようだった。戦場であっても、手放せない物らしい。
営舎を出ると、孫堅は大きく息を吸った。ああいった空気は、やはり好きになれそうにない。
†
孫堅が名乗り出てくれたおかげで、想像していたよりも早く軍議を終えることができた。
しばらく陣営内を歩きながら、曹操は各軍の視察を行っていた。どの軍も、軽く万を越える兵力を動員している。その中で、五千しか連れてくることのできなかった自分が、いかにももどかしかった。
平たい岩に、少女が座っている。瑞々しい肌。陽光に照らされ、汗が光を放っていた。側に置かれた巨大な斧を、得物としているのだろうか。
無心で、空を見上げているようだった。こちらの接近には、気づいていないらしい。回り込む。ぼんやりとした瞳の中に、輝きが見えた。景色が変わったことで、ようやく気づいてもらえたのだろう。小さな口が、ぽかりと開いている。
「あれ……、空が見えなくなった。おかしな、お兄ちゃん」
「ははっ、お兄ちゃんか。好きなのか、空が?」
小動物のような愛らしさがあった。
見上げてくる視線。曹洪であれば、感極まっているところかもしれない。突き抜けた趣味があるのは、悪いことではないと思う。
「うん。ずっと見てても、空は飽きないよ。なににも縛られずに空を飛んでる鳥を見てると、色んなことが思い浮かんでくる。あそこに行ってみたいなーとか、飛ぶのは気持ちいいんだろうなー、とか。だから、シャンも飛んでみたいと思った。いつか、空を自由に飛ぶのが、シャンの夢」
「それはいいな。人にも翼があれば、どれだけ便利なものか」
「お兄ちゃんは、笑わない? 友達には、そんなの無理だよって、よく言われるから」
紫がかった瞳が、こちらを捉えて離さない。のんびりとした口調の中にも、力を感じている。
「空というより、俺は天というものに興味があってな。あの雲の先にはなにがあって、どんな景色が存在しているのか。そういうことを、たまに考える時がある」
「天……? 空よりずっと向こう側の、天?」
「お前のように、考えたことがなかった。飛べるのであれば、俺も飛んでみたいと思う。そうすれば、いつか天の先を見ることができるのかな」
赤の他人に、話すようなことではなかった。それでも、言葉は止まらない。
天下を統べれば、そこに少しでも近づくことができるのか。それも、わからないことだ。少女の口もと。確かに、笑っている。しかし、嘲笑などではない。瞳の輝きは、先ほどよりもずっと増している。
「うん。きっと行けるよ、お兄ちゃん。……シャンも、天の向こう側を見てみたいな。空よりもっと広い、天の向こう側を。そこまで行けたら、鳥にも羨ましがられるかも? それにね、飛んでる鳥を上から眺めたら、どんな気分になるんだろう、ってシャンは思うんだ。でも、そしたら落っこちないように気をつけないと。空より高い場所から落ちたら、さすがに死んじゃうと思うから」
「ふっ。そのようなこと、今から心配しても仕方がないだろう。だが、そうだな」
二人して、空を見上げている。心の視界までも、拡がっていくようだった。名も知らない少女の、明るい声。心の底から、想像を楽しんでいる。
見えているつもりで、見えていないものは案外多いものだ。空を優雅に舞う鳥たちには、人の戦はどのように映っているのだろうか。普段ならしないような考えも、そうやって浮かんでくる。
「あれっ? 徐晃ちゃん、なにしてるの?」
「んっ……、劉備。えーっと……、このお兄ちゃんとお話しながら、空を見てただけ」
「お兄ちゃん? あれ、あなたって確か……」
不思議な雰囲気を持つ少女は、名を徐晃というらしい。劉備とも、知り合いのようだ。
劉備を見ていると、頭の片隅に何かが過りそうになる。引っかかっている、とでもいうべきか。軍議の時は、なるべく気にしないようにしていたのである。もどかしいような感覚。それがまた、頭をもたげている。
先程まで軍議を取りまとめていたような男が、こんなところでなにをしているのか。劉備は、恐らくそう言いたいに違いない。自分でも、よくわからないのだ。気づけば、徐晃に引き寄せられていた。
「曹操だ、劉備殿。直接言葉を交わすのは、初めてだな」
「あはっ、やっぱり曹操さんですよね。でも、驚きました。袁紹さんから軍議の進行役を任されるくらいですから、とっても厳しいお方なのかなーって」
「劉備殿には、そんな風に見えてしまっていたのか。厳粛なばかりでは、息が詰まる。そのくらいは、俺も心得ているつもりだ」
申し訳なさそうに、劉備は苦笑している。感情が、表に出やすい
公孫賛とは、以前から付き合いがあったのだという。どちらも人が良さそうなのは、同じ盧植門下だからなのか。頼れば、公孫賛には厚く遇されていたはずである。それでも劉備は、客将という地位を貫いているのだ。
目の前に鎮座している、大きな胸。そこには、なにが秘められているのか。視線が気になったのか、劉備は少し横を向いてしまう。追うことは、さすがに控えた。
「劉備殿は、どうして連合軍に参加しようと思われたのだ?」
「中山靖王の血を引く者として、国の乱れをどうにかしなければ。そう考えたからと言えば、格好はつくんですけど。えへへっ、信じられませんよね?」
「漢王朝は、これだけ長く続いているのだ。劉備殿が血縁者であっても、別段不思議ではないな」
「……実際のところは、わたしもよく知らないんです。ただ、母からそう聞かされたというだけで。だけど、なにかしなきゃって思ったのは、本当ですよ? わたしの故郷も、随分と荒れました」
話しながら。劉備はほほえんでいる。
他者を、包み込んでしまえるような魅力。意識せずとも、そうしたものを発揮してしまえるのかもしれないと、曹操は思っていた。徐晃は、一人でまた空を眺めている。
「まだ、なにも見えていないわたしに、期待してくれている人たちがいる。だから、わたしは闘い続けることができるんです。あっ、噂をすれば……!」
「お戻りになられていたのですね、
「そんなことより、このお兄ちゃんは誰なのだ、お姉ちゃん?」
二人の少女。現れるなり、劉備の両隣を囲ってしまう。この少女たちが劉備の闘いを支えているのだろうな、と曹操は直感していた。
艶のある、長い黒髪。漠然としていた心が、強い衝動に突き動かされていく。不審げに見つめてくる大きな瞳。構わず、曹操は腕を伸ばしていた。
「ン……、同じなのか。かつて夢で見た、あの黒髪と」
「な、なにをする貴様っ!? いきなり無礼ではないか、面識のない女の髪に触れるなどと」
振り払われる。女に打たれた手のひらが、じんと熱を持っている。考える前に、身体が動いていたのだ。感触は、あの時と同じだったように思う。夢でのことで確証などないのだが、そうとしか思えない自分がいる。
夢で逢った女が、目の前で怒りをあらわにしている。自分でも、妙な感じだった。
実は、今見ている景色さえも夢なのである。そう言われても、納得してしまえるような気がしている。
全てを、記憶しているわけではなかった。だから、劉備を見ただけでは思い出せなかったのである。髪のさわり心地。やはり、鮮烈だった。自分の内側にまで、訴えかけてくるようなものがあるのだ。それがなにを意味しているのか。そこまでは、曹操もわからなかった。
「非礼は詫びさせてもらおう。どこかで、貴殿を知っているように思えてしまったのだよ。すまない、俺も少し混乱しているようだ」
「は、はあ……。わたしは、貴方のことを存じ上げてはおりません。きっと、誰かの空似なのでしょう」
「そう、なのかな。まあいい、俺は曹操という。貴殿の名を、教えてはもらえないだろうか」
「曹操殿、ですか。わたしは、関羽と申します。こちらの張飛共々、劉備さまの下で部将をしています」
そう言って、関羽は丁寧に会釈をしてみせる。どんな場合であっても、礼節は欠かさないのだろう。
「ねえねえお兄ちゃん、そんなに姉者のことが気になるのかー?」
「気にはなるが、しばらく忘れようと思う。戦場には、不要なことだ」
背伸びをしながら、張飛が聞いてくる。満月のように丸い目が、可愛らしく揺れている。
関羽が姉ならば、劉備はさらに上の長姉なのかもしれない。末っ子という表現が、張飛にはよく似合う。
「ホントにいきなりだったから、びっくりしちゃいました。手、平気ですか?」
「劉備殿は、やさしいのだな。無礼を働いた俺のことを、心配してくれるとは」
「あんなに真剣な顔つきをされていたんですから、心配もしちゃいます。愛紗ちゃんには、わたしからも言っておきますから」
常に笑顔を振りまけるのが、劉備の強みなのかもしれない。棘というものを、少しも感じさせないのである。
兵たちに慕われるわけだ、と曹操は頷いた。規律を保持していられるのは、関羽たちのおかげなのだろう。
「桃香さま。わたしはもう気にしていませんから、大丈夫です。驚いたからとはいえ、申し訳ありませんでした、曹操殿」
「そう畏まらないでくれ、関羽殿。しかし、おかしな奴だとは思わないでいてくれよ?」
「ふふっ。それは……、善処するといたしましょう」
はにかんだ横顔も、美しかった。いつまでも見ていたくなる。そんな秀麗さを、関羽は備えているのだ。
もっと早く出会えていれば、と思わずにはいられなかった。あるいは、別の関係性が生まれていたのかもしれないのである。一目惚れ。それに近しい感情だった。
「これはこれは。なにやら騒がしいと思って来てみれば、いつかのお兄さんではありませんか。名前はたしか……、かずべえ?」
「べえ? べえってなんなのだ?」
「程昱の言うことだ。話半分に聞いておいたほうが身のためだぞ、
「んんー、それはちょっと聞き捨てなりませんねえ。関羽ちゃんがそんな態度を取られるのであれば、
「むむっ……。あるのかないのか、はっきりしたらどうなのだ。それにしても程昱、おぬしは曹操殿のことを知っているようだが、面識があったのか?」
地面につきそうなくらい長い金髪。独特の間隔のある話し方も、忘れられるはずがなかった。
以前会ったときは、程立と名乗っていたはずである。現在は、程昱というようだった。眠たげな目。それをかすかに開いて、程昱はこちらを窺っている。
「それはもう。聞くも涙、語るも涙な出逢いの物語があるのですよ。あっでも、詳しいことは省略させてもらいますけどねー」
「な、なんだかすごく複雑そうだね。ということは、戯志才さんとも?」
「はい。稟ちゃんとは特に色々とあったのですけど、本人もいないことですし、それはちょっと横に置いておきましょうか。あんまり喋ると、後でどんな目に遭わされるかわかりませんので」
姿の見えない戯志才は、どこかで仕事でもしているのだろう、と曹操は思った。
劉備と気さくに話す程昱。そこから程昱と戯志才も、公孫賛に同行して酸棗まで来たのだということが理解できる。
公孫賛が、それまで苦戦していた賊軍を次々に討ち破っている。そんな報告を、この数ヶ月でよく耳にしていたのだ。部隊の動きがよくなったのは、程昱たちが参謀として入ったからなのだろう。公孫賛は、随分といい拾いものをしていたようである。拾いものを己の力にできるかどうかは、また別の話だった。
「しばらくぶりだな、程立殿。今は、程昱というのか」
「はい、程昱なのですよ。お久しぶりです、一刀さん。いえ、曹操さんとお呼びするべきなのでしょうかー?」
「今更、そう呼ぶ必要もないと思うが。公孫賛殿のところでは、客将を?」
「くふふ、さすがのご慧眼ですねえ。公孫賛さんに仕えるのも悪くはないのですけど、なんと言いますか……あの方はちょっと物足りないですね。自ら、器の限界を決めてしまっているような気がします」
劉備が、表情を強張らせている。友人のために怒らないのには、理由があるはずだ。どこかで、程昱と同じように感じている節があるのかもしれない。口をつぐんでいるのは、関羽も同様だった。
普通であれば肝の冷えそうなことを、程昱は簡単に言ってのけるのである。望んでいるのは、地方領主の一家臣ではない、ということか。
「歯に衣着せぬ物言いも、相変わらずだな。そうしていつも、劉備殿たちを困らせているのではないか?」
「はてさて、風にはそんなつもりはないのですが。そうそうお兄さん、再会ついでに風の真名はいりませんかー? 今なら、お安くしておきますけど」
程昱なりの、誘い方なのだと思う。
もしくは、横着な態度で、繊細な部分を隠そうとしているのかもしれない。だから、こうした誘いには全力で乗ってやるべきなのだ。優れた文官は、これからいくらでも入り用になってくる。地方領主で一生を終える気など、曹操にはさらさらなかった。
「程昱殿の真名であれば、言い値で買うぞ。働きには、期待してもいいのだろう? であれば、惜しむ理由など、どこにもないはずだ」
「おおっ、ほうほう……。でしたら、一生かかっても食べ切れないくらいの飴を所望してもー? 種類もたくさんあると、風はもっと喜ぶと思いますが」
「そのくらい、お安い御用だな。可愛らしいわがままであれば、いくらでも聞いてやるつもりだ」
「ふむふむ。それでは、商談成立ですねえ。風の真名、これよりご自由にお呼びくださいませ、一刀さん」
「では、おまえのことは風と呼ばせてもらうぞ。それで、これからどうするつもりをしているのだ、風?
「ふふっ、せっかちなお兄さんですねえ。お世話になった義理もありますから、この闘いが終わるまでは、公孫賛さんに協力しようと思っているのですよ。
飴。どこからともなく取り出したそれを、程昱は旨そうに咥えている。
義理立てしたくなる程度には、公孫賛に世話になっているのだろう。悪人でないことは、間違いないのである。公孫賛にもう少し厳しさのようなものがあれば、客将たちの行き着く先も変わっていたのかもしれない。
「お兄ちゃん。シャンも、お兄ちゃんに着いていってもいい? これでも、闘いは得意なんだ。多分、役に立てると思うんだ」
「おや? 風の知らない間に、
いつ、空を見るのを止めたのだろう。気づいた時には、曹操は徐晃にそばで見上げられていた。
「……ねっ、お兄ちゃん。シャンのこと、香風って真名で呼んでみてほしいな。……もしかして、だめ?」
香風。それが、徐晃の真名だった。訴えかけてくるような視線。自分だけに聞こえるくらいの小さな声で、真名を呼ぶように願われてしまう。断ることなど、するはずがなかった。
「口説いた、というわけではない。ただ、香風とは気が合ったというだけなのだよ。そうだろう、香風」
「そうだねー。お兄ちゃんとなら、シャンの夢も叶えられそうな気がするんだ。風も、そうなんでしょ?」
「ふふふー、それはどうでしょう。ここは香風ちゃんのご想像に、お任せしましょうか」
程昱の夢。それがどういったものなのか、すぐには想像がつきそうになかった。
徐晃の質問を、程昱は飴を舐めることではぐらかしてしまう。夢の語りかたなど、人それぞれだ。程昱には、程昱なりに目指しているものがあるのだろう。たまさか、同じ方向を向いている。同道する理由など、そのくらい単純で構わないと曹操は思った。
「程昱たちは、新たな拠り所を見つけたようですね。公孫賛殿からしてみれば、至極残念なことでしょうが」
「うーん、わたしもちょっぴり残念なのかも? できれば、程昱さんや戯志才さんみたいな軍師が欲しかったなあ、なんてね」
「む……。桃香さまには、桃香さまだけの出逢いがあるのではないでしょうか。わたしには、そう思えるのです」
「そうなのかなあ? でも、
劉備と関羽。ほとんど、野次馬のようなものである。
場所を移して、程昱たちと話しをしたいと思った。それに、戯志才とも言葉を交わしておきたかった。程昱の話を訊く限り、ついてくる意志はあるのだろう。以前のように期間を設けるべき時は、すでに終わっている。
観察をしていたが、劉備と関羽の繋がりは強固そうだった。本当の姉妹か、それ以上の絆。張飛も含めて、そのようなものが出来上がっているのだろう。関羽は欲しいが、今は他に目を向けるべきだった。
「もう少し、諸将の陣内を見て回ろうと思う。ついて来るか、二人とも」
「はい、ぜひともお供をさせてください。ご主君さまとなられるお方の考えに触れておかなくては、今後仕事になりませんから」
「シャンもいくよ、お兄ちゃん。護衛は……いらないかもしれないけど」
こちらの着物の袖を握りながら、程昱は軽く口角を上げて見せた。
飄々としているようで、抑えるべきところは抑えているのだ。そうでなくては、劉備も残念がりはしないはずだった。
「劉備殿」
「はい、曹操さん」
「また来る。今度は、酒でも持参しようか」
「わっ、いいんですか? だったらお返しに、食べるものでも用意しておかないといけないのかな……?」
「はにゃっ!? そ、それはよしたほうがいいと思うのだ、お姉ちゃん!」
劉備の提案を、張飛が縋り付くようにして制止している。涙ぐんだ表情。よほど、劉備の手料理に嫌な思い出でもあるのか。
孫堅の陣。それが置かれた方角から、喧騒なような音が聞こえている。汜水関での戦に備えて、陣替えを行っているのだろう。
乾いた風が、吹き抜けていく。風に吹かれて、関羽の美麗な黒髪が、先からふわりと舞い上がった。戦の兆候を、知らせている。そんな風だと、曹操は感じていた。