愛馬と戯れながら、藁束で身体を擦っていく。従者を連れてはいるが、馬の世話だけは自分でやった。董卓がくれた馬だから、というのもある。だが、それだけではないのだ。この馬のことを、呂布はいたく気に入っていた。
大きな馬体を、丹念に擦っていく。
没頭していると、やがて腹が空いてくる。厩で飯を食い、そのまま眠ることもあった。穏やかな時の流れ。そういったものが、嫌いではないのだ。
擦られるのが良かったのか、馬が全身を揺さぶっている。それを見て、呂布も小さく笑った。
「
声をかけ、作業を続けていく。
赤兎。それが、呂布の馬の名前だった。知性を感じさせる瞳が、じっと見つめてくる。どこまで言葉を解しているのかはわからないが、通じ合える部分があるのだ。人馬一体。相性がいいのだろう、と董卓は言っていた。
確かに、何かを感じさせる馬だった。抜身の剣。そのくらいの孤高さを、赤兎は持って生まれているのかもしれない。自分も、孤独に過ごしていたことがある。通じ合えると感じているのは、そのためなのか。強すぎる力。それは、ときに忌み嫌われる。
故郷を出て、呂布は幾日も原野をさまよい歩いた。助けてくれる者など、どこにもいない。頼りになるのは、自分の腕だけだった。
水を追い、動物の足跡を追う。毎日が、その繰り返しだった。生きるための闘い。ずっと前から、呂布の闘いは始まっていたのだ。
なにか、目指しているものがあるわけではなかった。それでも、ただ東へ足を動かし続けた。人が住んでいる土地へ行けば、食料が手に入ると思ったからだ。
董卓に出会ったのは、多分その頃だったように思う。家族。その温かみを初めて教えてくれたのも、董卓だった。
「こんなとこにおったんか、
「……ん、忘れてた。でも、大丈夫。戦が始まれば、恋は闘う。結局、敵を倒せばそれで勝ち。ねっ、赤兎」
「って、そこで馬に同意を求めんなや! まっ、そういうことにしといたるか。細かいこと訊きたかったら、ねねにお願いしてみればいいわ。にしても、恋はほんまに赤兎が好きやなあ。その気持は、わからんでもないけど」
虎牢関の守備。それが、呂布に与えられた任務だった。
訛り言葉を操る張遼は、騎馬隊の扱いに長けている。呂布も、その力は認めていた。
ねねというのは、呂布の従者である陳宮のことである。経験が浅いため戦闘はさせられないが、頭はよく働く少女だった。
どことなく、自分に似ていると思ったのかもしれない。陳宮も、ひとりだった。ひとりでいるのは、寂しいものである。そのことを、呂布はよく知っていたのだ。
呂布が差し伸べた手を、陳宮は強く握り返した。従者として付き従うようになったのは、それからなのである。
軍議。確かに、陳宮がそんなことを言っていた。今日も、虎牢関の防御について張遼と議論していたのだろう。
深く考えるのは、得意ではなかった。感じたままに動く。自分には、それが合っているのだ。
「赤兎は、
「つうか恋、屋敷で飼ってる犬の名前も、赤兎とちがうんか? それって、どう考えてもややこしいと思うんやけど」
「あっちは、セキト。馬のほうは、赤兎馬って名前がある。間違えたら、
「わかるかい! しかも赤兎馬っていうけど、結局いつも略して呼んでしもうてるし……」
張遼の苦言を意に介さず、呂布は赤兎の首筋を撫でている。やさしげな手つき。こうして撫でてやっている時、赤兎はいつも静かに受け入れてくれていた。静寂を漂わせている赤兎も、戦場では暴風に変わる。
燃えるような赤い体毛。美しく、どこか気高さすら漂わせているのだ。汗血馬。西域では、そう呼ぶようだった。
「くくっ。そのうち、わんこのほうが拗ねてしまうかもしれへんで?」
「……家に帰ったら、ちゃんと遊んであげるようにする。ああ見えて、セキトは結構かしこい。恋が帰るのを、いつも待っててくれる」
屋敷に帰ったとき、一番最初に飛び込んでくるのはセキトだった。ほかにも動物を養ってはいるが、やはり特別な存在なのである。
愛らしく尻尾を振る姿。戦場で尖った心を、なだらかにしてくれているようでもあった。
そのせいもあって、呂布は馬にもセキトという名を付けたいと言い出したのである。董卓も、初めは別の名前にすることを提案してきた。それでも、呂布の心は変わらなかったのである。
赤兎馬。馬の名をどうしてもセキトにしたいといったら、董卓が字を考えてくれたのだ。
駆ける時、赤兎は跳ねるように地面を蹴り進む。どこまでも、駆けてしまえるのではないか。そう思えてしまうくらい、足は軽やかなのである。いい名前を貰った、と呂布は喜んだ。セキトと赤兎。どちらも、呂布にとって欠かすことのできない家族になっている。
「恋殿、それに霞もここでしたか」
「ねね、どうかした?」
小さな体躯。それを懸命に駆けさせて、陳宮がやって来た。
よほど急いで走ってきたのか、額には汗が浮いている。よほど暑いのか、帽子は取って小脇に抱えていた。
「その様子だと、連合軍が動いたようやな。いよいよ、か」
「はい、霞の言う通りなのです。出てきたのは孫堅、兵力は約二万といったところでしょうか。狙っているのは、恐らく汜水関ではないかと」
「汜水関か。華雄のやつが、変に勇まんかったらええんやけど。救援に行けんこともないけど、こっちの留守襲われたら元も子もないしなあ」
汜水関には、華雄が入っていた。
融通は利かないが、剛毅ではある。それに、董卓軍の中では、呂布、張遼に続く武器の使い手でもあった。
涼州から付いてきた将軍たちは、勇敢だが野心を持っているきらいがあった。掛け値なしに信用していいのは、張遼と華雄、それに董卓の側に仕えている賈駆くらいなのである。
だから、激しくぶつかり合うことが予想される汜水関と虎牢関には、呂布たちを派遣するしかなかったともいえる。董卓は洛陽にいて、常に周囲に睨みを効かせておく必要があるのだ。
「恋の仕事は、虎牢関を守ること。ここに恋たちがいれば、敵も簡単には動けない。そしたら、華雄も助かる」
「うーん、せやなあ。ねね、一応汜水関に使者飛ばして、華雄に釘刺しとき。下手に打って出て、火傷させられんようにってな」
「了解ですぞ。じきに、虎牢関にも敵が攻め込んでくることになるはずです。防備を、さらに万全にしておかなければ」
「よろしく、ねね。恋は、ちょっと見て回ってくる。いこう、赤兎」
手綱を曳き、赤兎と共に空の下にでた。
虎牢関の守備兵は、まだ落ち着きを見せている。近くでは直属の部下たちが、それぞれの馬の世話を行っていた。
騎馬隊の力を活かすには、野戦をするしかない。敵が来れば、まず関の外で一戦交えるつもりだった。始めから籠もるばかりでは、士気が下がっていく一方だからという理由もある。
方天画戟を手に、呂布は馬上の人となった。特に命令をしてやらなくとも、赤兎はゆっくりと歩きだしてくれる。
いつか、赤兎と旅に出てみたいと思うことがあった。
穏やかな青空。そのもとで陽光を受けながら、原野をただ駆け抜けてみたい。そこには、闘いもなにもないのだ。
赤兎と自分。あるのは、それだけだった。