孫堅軍が汜水関を囲み始めてから、七日が経っている。
緒戦は、想定通りに進んでいた。関外に一万ほどの董卓軍が布陣していたようだが、孫堅はそれらを一息に蹴散らしてしまったのである。
手際に狂いはなかった。後は陣を堅め、汜水関をじっくりと締め上げていくだけだった。
麾下の軍勢が調練に励んでいる様子を、曹操は少し離れた場所から見分していた。
夏侯惇、夏侯淵、趙雲。その三将に部隊を組織させ、副将として曹純らを割り振ってある。
三人には、兵の選別を特に厳しくやるように伝えてあった。少数の強みを活かすためにも、とにかく精鋭で軍を構成する必要があるのだ。
随伴している荀彧が、足を止めた。視線の先。夏侯惇の部隊が、調練を中断していた。曹操の周囲は、十人ほどの兵が固めている。その指揮を委ねてあるのは、楽進である。
「なにか気になったのか、
「いいえ、別に気になるってほどのことじゃないわよ。ただ、今後はもっと、募兵にも気を使うべきだと思っただけ。今回はしている余裕なんてなかったけど、あと何段階か検査を増やすべきね。
「そうだな。中には、前線に向かない兵もいるのだろう。そうした者でも、荷駄の輸送などであれば、力を発揮する場合もある。選別の手間を省くためにも、募兵の段階で手を打っておくべきか」
「要望があるんだったら、一応訊いてあげないこともないわよ? 合間を見て
「わかった。考えておくことにしよう」
戦場においては、やはり夏侯惇の存在は頭一つ抜けている。しかし、軍の運営に関してとなると話は別なのである。
夏侯淵に話を通しておけば、夏侯惇が駄々をこねることもない。そうした実情を踏まえた上で、荀彧は語っているのだ。
曹操の姿に気がついたのか、夏侯惇が頭を下げている。そのすぐそばには、地面に膝をつかされている兵が五人いた。恐らく、処罰を加えるために集めてあるのだろう。
その五人を、曹仁が悲痛な面持ちで見つめている。
「この者らは調練中、明らかに手を抜いて臨んでいた。その処罰をどうすればよいかわかるか、
「えっと、ちゃんと反省してもらうっす。次からは、絶対同じことをしないように」
「反省か。それでまた、今日のような動きを繰り返した時にはどうする」
「しっかり話せば、きっとわかってくれるはずっす。そしたら……」
傍目から見ても、夏侯惇が苛立っているのは明白だった。
本当であれば、自身の大剣で五人の首を刎ね飛ばしてしまいたいはずなのである。それでも我慢しているのは、曹仁を鍛えたいという一心があるからなのだろう。
五人は俯いたままで、顔を上げようともしなかった。
「そのような甘さで、曹操軍の将が務まると思うのか、お前は。弱兵は、敵以上に厄介な存在にもなりかねんのだぞ。戦場で、勝手に死ぬのであれば、まだよいほうだ。だが、こ奴らのような不届き者は、必ずや軍を乱す。運が悪ければ、そのせいで率いる将まで命を落とすことにもなるのだ。殿が、一刀がそのような討たれ方をしても、納得できるというのか、華侖」
「そ、そんなの、いいわけないっす! 一刀っちが死んでいいだなんて、あたしは……」
「ならば、この五人をここで斬れ。やさしさとは、甘さのことを言うわけではないのだぞ、華侖。よいか、戦場では甘さを捨てろ。曹家一門として、殿はお前に期待をかけられているのだ。その期待に、見事応えてみせろ」
曹仁は、夏侯惇にとっても妹のようなものだ。それだけに、奮起してもらいたいという思いが人一倍強いのである。
なにも、やさしさが不要だと言っているわけではないのだ。曹仁の明るさとやさしさは、兵たちの心の支えにもなるだろう。ただし、そこに余計なものが介在していてはいけない、というだけなのである。
夏侯惇の言葉に何度か頷きをみせたあと、曹仁はこちらを見つめてきた。不安は、まだ消えていないに決まっている。しかし、その手は剣を強く握っていた。
いい感覚を、持ってはいるのである。それを開かせることができるかどうかは、曹仁次第だった。
「ふっ、それでよい。五人には、お前を殺すことができれば、助命すると伝えてある。やれるな、華侖?」
「んっ……、やるっす。だから見ててほしいっす、春姉。それに、一刀っちも」
曹仁の顔。鋭さが増してきている。
荀彧にも、そのことがわかったのだろう。見守る姿は、真剣そのものなのである。曹仁に期待しているのは、なにも自分だけではないのだ。
五人に武器が渡される。脱走を図ったところで、夏侯惇に斬り殺される未来が待っているだけなのである。曹仁を斬る。生き残りたいのであれば、それ以外に道はなかった。
窮地となって、五人にも連携しようという気持ちが生じたのだろう。輪になって左右前後から囲み、討ち取ってしまおうという魂胆なのである。
勇みすぎたひとりが、先に一歩踏み出した。剣を振るう。曹仁はそれをかわし、兵の腕を斬り飛ばした。鮮血。堰を切ったように溢れている。
決心の中に、まだどこか甘さがある。夏侯惇は、闘いを黙って見ているだけだった。曹仁の内側に眠るけもの。その目覚めを、じっと待っているようでもある。
残った四人が、一斉に斬りかかる。全方位から攻め立てれば、なんとかなると考えているのだろう。
曹仁が、繰り出される剣を弾いていく。一つ、二つ、三つ。四つめは、完全に防ぎ切ることができなかった。むき出しになった左腕。そこから、血が一筋流れ出ている。
生への希望。しかし、それは一瞬にして消えていく。
剣。柄を両手で持ち、曹仁は力任せに振り下ろした。
ひとりが、うめき声すら上げられぬまま死んでいく。続けざまに、もうひとり。今度は、低い体勢から腹を横に薙ぎ払った。上下に分断された身体が、地面に落ちて転がっている。荒々しい、剣筋だった。
血飛沫を浴び、曹仁の身体が赤く染まっている。業火。赤い血が、燃えているようなのである。
叫びながら、曹仁が剣を振るう。
残された兵たちは、次々に血溜まりに沈んだ。最後、腕を斬り飛ばした兵にとどめを刺すと、曹仁は深々と腰を折った。散っていった命。それに敬意を払う行為を、誰が咎められようか。
「少しはいい顔をするようになったな、華侖。今後もさらに励めよ」
「はいっす、春姉。あたし、がんばるっす。んっ……、そんでいつか、春姉みたいな強い将軍に、なってみせるっす!」
「ふっ、そうか。その言葉、忘れるなよ」
夏侯惇が、曹仁の顔についた血を拭ってやっている。自身のようにと言われたのが嬉しかったのか、ちょっと口もとが緩んでいるようにも見えた。
声をかけずに、曹操はその場を後にした。話せば、きっと甘やかしてしまうと思ったからだ。曹仁の成長。それを願うのであれば、今は夏侯惇に任せておけばいい。
荀彧。小走りに、追ってくる。合わさる手のひら。その温かさが、じんわりと胸に染みた。
†
八日目の朝。曹操軍の営舎を、人が訪ねてきていた。公孫賛。伴っているのは、戯志才だった。
戯志才というのは、旅の戯れにつけただけの名だそうだ。本当の名は、郭嘉である。
興味深そうな瞳が、眼鏡越しにこちらを見つめている。隣に座っている荀彧のことを、意識しているせいなのかもしれない。
程昱の言っていたように、郭嘉も連合軍にいる間は、公孫賛の客将をするつもりでいるようだった。
郭嘉たちが自軍に来れば、残るは劉備率いる一団だけとなる。その行方が、どうなるか。ある意味、見ものといえるのではないかと思う。
吸収されるようなかたちで公孫賛の麾下となるのか、それとも独立を貫くのか。全ては、劉備の意志の強さにかかっている。
「まさか、地元の有名人と、このような場所で会うことになるとは思いませんでした。荀彧殿の名は、以前から存じておりましたので」
「あら、そう? でも、あなたも無名ってわけではないはずでしょう? 潁川にいた頃に、わたしも郭奉孝の名を訊いたことがあるもの」
郭嘉はその名を、公孫賛にも知らせていなかったようだ。少し撫で気味の肩が、さらにがっくりと下がっている。それでも怒りを露わにしないところが、公孫賛の人柄の良さを表している。
同僚、あるいは麾下としてであれば、これ以上ない性格をしているのだ。
乱世となれば、公孫賛にも行く末を考えるべき時がやって来るのかもしれない。そしてそれは、決して他人事ではないのである。
綺麗な朱色の毛髪が、左右に揺れている。腕組みをしながら、公孫賛は口を開いた。
「しっかしまあ、曹操殿には驚かされたよ。程昱と徐晃だけじゃなく、戯志才……もとい郭嘉までとはなあ」
「先に目をつけていた、俺の勝ちというわけだな。こればかりは、譲ってやれないことだ」
「にしても、わたしはそんなに信用がなかったのか、郭嘉? 別に、名前くらい教えてくれたっていいだろうに」
「まさか。信用していないお方の戦に、力を貸すはずなどありません。戯志才で通していたのは、なんといいますか、その……」
郭嘉の目が、こちらを向いている。
結ばれた両手。その中で、指がしどろもどろしている様子が見えた。偶然交わした唇の感触。朧気なものになりかけていたそれを、曹操は想起していた。
あの時から、道標はできていたのだろう。誘いの言葉に、郭嘉は即答してみせたのである。
荀彧には、なにかしら感じるものがあったのかもしれない。翡翠色の瞳。それが、刃のように冷たくなっている。
「はあぁあああ……。もう、そんなのなんだっていいわよ。それより、虎牢関のことを相談しに来たんじゃないの?」
「おっと、そうだったな。じゃあ、どこから話そうか」
出された
虎牢関には、すでに軍勢が差し向けられている。完全に崩されているわけではないが、押されているようだった。呂布が出陣しているとの情報も、曹操の耳に入っている。
「呂布の騎馬隊に、味方は苦戦しているようだな。俺も一度ぶつかってみたいと考えているが、公孫賛殿はどう考えている」
「平地での闘いなら、やってやれないことはないはずだ。わたしも馬にはそれなりの自信があるし、劉備たちだっているからな」
「かなりの使い手だぞ、呂布は。あの関羽と張飛であれば、抑えられそうか?」
「討ち取れなくとも、互角にやり合うくらいならいけるはずだ。それに、曹操殿の麾下にも、腕力自慢はいるんだろ?」
「無論だ。であれば、われらの軍で騎馬隊を防ぎ止め、呂布を孤立させる。作戦の大枠は、それで如何かな」
ふたりの軍師の顔を見る。荀彧と郭嘉には、異論はないようだった。
噂には訊いていても、呂布の騎馬隊の強さを直接知っているわけではないのだ。それだけに、恐れすぎてはいけないという思いがあった。
戦場では、結局勇気がものをいう。突き進むだけが道ではないが、時にはそうすることが必要となってくる。手勢の力試しをしてみるのにも、いい機会だった。
呂布を気にしているのは、郭嘉も同じだった。
「一刀殿は、董卓が入ってからも、洛陽に滞在されていたとお聞きしております。その折に、呂布とはお会いになられたのですか?」
「呂布か。会ったぞ、何度かな。一度目は、雨の中だった。闘っていれば、たぶん斬られていたのだと思う。ははっ、よもやその呂布に、肉まんを食わせてやることになるとは、俺も思いはしなかった。人生とは、まことに不思議なものだ」
「はっ……、肉まんを、ですか? それはまた、奇特な経験をされたようですね」
「ふんっ。おおかた呂布にねだられて、そのまま流されたんじゃないの? ちょっと可愛い女にねだられたら、ころっと態度を変えてしまうのがこの男の特徴なのよ。郭嘉、あなたも気をつけることね。この色情魔の見境のなさは、筋金入りなんだから」
「わ、わたしですか? んうっ……。い、いけません、一刀殿。そのように熱い視線を、こんな公の場で向けられては……。はあっ、はあっ……。そ、それにわたしは、まだ公孫賛殿の客将をしている身なのです。で、でも、一刀殿はきっと強引にわたしの唇を奪って、あんなことやこんなことを……!? うあっ、だめっ、これ以上はっ……!?」
「ちょっ……。ど、どうしたっていうのよ、郭嘉。一刀、原因をつくったのはアンタなんだから、どうにかしなさいよね」
一体なにが、郭嘉の琴線に触れてしまったのだろうか。
妄想の世界。そこに飛び込んでしまった郭嘉の姿に、荀彧も若干表情を引きつらせてしまっている。先程見せていた苛立ちなど、すっかり忘れてしまっているようだ。
「おーい郭嘉、戻ってこい。また血を噴いてぶっ倒れても、わたしは知らないからなー?」
「うへへっ、んうぅ……。はっ!? も、申し訳ありません。ですが、一刀殿の視線が、想像していた以上に熱くてつい……」
「お、おう……? なんだかよくわからないが、郭嘉がこうなってしまったのは、曹操殿のせいみたいだな」
「ちょっと、わたしにまで変な視線を向けないでよね、変態。軍議中にまで孕ませようとしてくるだなんて、最っ低な男なんだから」
見に覚えのない罪状が、積み上げられていく。
罠にはめられた罪人の気分とは、こういうものなのだろうな、と曹操は客観的に自分の置かれた状況を見つめていた。
「は、孕ませる? そんな、やはり一刀殿はっ……!」
「落ち着かないか、稟。いくら俺でも、客人の前でそのような粗相をするものか。それにしても桂花、斯様なことを言い出すとは、まさか欲求が溜まっているのではなかろうな?」
「ち、ちがっ……、そんなわけないでしょ!? だいたい、この前だってあんなに無茶苦茶にされたばかりで……、ってなに言わせんのよアンタは!」
荀彧の絶叫。営舎内に、響き渡っている。
またおかしな想像を膨らませているのか、郭嘉はどこか上の空である。この郭嘉に加えて程昱の相手までしていたのだから、公孫賛は案外大きな器を備えているのではないか、と曹操は思い始めていた。
自分でその器を過小評価しているのであれば、かなり損をしていることにもなる。
「曹操殿、曹操殿はご在陣か」
営舎の外で、誰かが自分を呼んでいるようだった。声色から察するに、かなり逼迫した状況なのだろう。
出てみると、そこには知らない女がふたり立っていた。明るい髪色に、褐色の肌。わかりやすい特徴のおかげで、ひとりの出自はすぐに判断がついた。年頃から推測するに、孫策の妹である孫権なのだろう。
孫権は、全身に戦場の空気を纏っていた。息は荒く、昂揚したままでいるのだ。それに、肌や衣服が返り血で汚れている。
孫堅の軍で、なにかがあった。そうでなければ、娘をわざわざ本営に向かわせたりはしないはずだ。
もうひとりは、軍師然とした風貌をしていた。知性的な瞳には落ち着きがあり、孫権とは対照的ですらある。娘だけでは心許ないと考えて、孫堅がつけたのだろうと曹操は思った。
「曹操だ。察するに、貴殿は孫策殿の妹御か」
「その通りだ。我が名は孫権、こちらは周瑜と申す者だ」
「周瑜。そういえば、孫策殿からその名を訊いたような気がするな。それで、どうしたというのだ。見たところ、戦をしてきたようだが」
なにか言い出そうとした孫権を遮り、周瑜が前へ出た。
見事と言っていいほどの肉体の線が、惜しげもなく晒されている。一見過激とも取れるような格好をするのが、孫家での流行りなのかと勘ぐってしまうくらいだった。
「我が軍は、飢えに苦しんでいるのです、曹操殿。袁紹殿や袁術殿とやり取りをしていたのでは、埒が明きません。それで殿は、曹操殿に兵糧の輸送を訴えてくるようにと命ぜられたのです。このこと、なにとぞお聞き届けいただきたい」
落ち着いているように見えてはいるが、その実周瑜も完全に感情を制御できているわけではないのだろう。言葉では懇願しつつも、視線は睨みつけるようでもあるのだ。
二人から妙なくらい鋭利な気迫を感じるのは、恐らく飢えのせいだ。いま目の前に立っているのが自分ではなく袁術だったら、孫権は剣を抜いているのだと思う。
「もし否と言われるのであれば、わたしは衛兵を斬り殺してでも兵糧を運ぶつもりだ、曹操殿。そのくらい、われらは今回のことを腹に据えかねている」
孫策を彷彿とさせる、孫権の碧眼。それが、怒りに打ち震えていた。