袁術が、兵糧輸送の職務を怠っている。そう考えているから、孫権は怒っているのだ。
荷車が本陣から出ていく様子を、曹操は何度も見かけている。恐らく、孫堅以外の諸将の陣には、食料はまともに届けられているのだろう。
どのような方法で兵糧を闇に葬っているのかについては、興味は湧かなかった。詮索しても、袁術は知らぬ存ぜぬで通すつもりでいるに決まっているからだ。それは、実際に指揮をしているであろう張勳も、同じことだ。
気に入らないことへの、意趣返し。子供じみた行いではあるが、与えた傷は小さくはなかった。
「孫権殿の怒りは、もっともなものだ。あとのことは、こちらに任せてはもらえないだろうか。貴殿らは、しばらくわが陣で休んでいかれるとよい」
「そんな、休んでなどいられませぬ。曹操殿、われらにもなにか作業の手伝いを」
「よい、と言っているのだよ、孫権殿。貴殿も麾下の者も、疲弊しきっていることは明白だ。これから戦場に戻るというのであれば、休めるときに休んでおくことが、なにより必要だと俺は思うのだがな。周瑜殿、孫権殿を頼んだぞ」
「はっ。お心遣い感謝いたします、曹操殿」
母やその配下が、前線で耐え忍んでいる。
それだけに、自分だけが楽をするわけにはいかない、と孫権は考えているのだろう。噛み締められた唇。孫策や孫尚香よりも、強い責任感を持っているのが、孫権なのかもしれない。
それ自体は、決して悪いことではないのだ。しかし、張り詰め続けた弦は、いずれ弾け切れるしかなくなるのである。
周瑜には、意図していることが伝わったようだった。纏っていた棘のような雰囲気が、少しだけ穏やかに変わっている。
「孫権さま。ここは、曹操殿のご厚意に甘えましょう。連れてきた兵たちにも、休息が必要です。戦は、まだまだこれからなのですから」
「周瑜、あなたまでそんなことを。そう、わかったわ。軍師にそこまで奨められては、従うほかないのかもしれないな。曹操殿、世話をかけるが」
「気になさるな。こちらも、一両日中に出動するつもりでいたのだ。闘いに行くのだから、いくらか多めに食料を持って出ても、袁術たちには文句は言われまい」
荀彧を呼び、孫堅軍の事情を伝えた。駆け回る従者たち。曹操の命に従って、応対の準備が整えられていく。
軽い食事と、温かい
困っている者を、放っておくことなどできない。ちょっとした正義感に、公孫賛は燃えているようだった。公孫賛自慢の騎馬隊を使えば、孫堅の陣に兵糧をいち早く届けることができるはずだ。
郭嘉を伴い、曹操は袁術のところへ向かっていた。
兵糧を持ち出す旨の承諾を得るためであるが、どのくらいの量を、と言うつもりはなかった。
積めるだけ、積んでいく。そうでなくては、今度は自分たちの分まで危うくなりかねないのである。孫堅の援護を行った後には、虎牢関での闘いが控えているのだ。
それに、袁術の機嫌の取り方くらいは心得ている。
「しかし、困ったものですね。兵站を担っている袁術殿がこの体たらくでは、戦になりません」
「実際に指示を出しているのは、張勲なのだと思う。あれは、その手の奸智に長けた女だ」
「一刀殿は、内情をよくご存知のようですね。それでは、首謀者の隠蔽についても、抜かりはないということでしょうか。末端の者をいくら処断しようが、意味のないことですし」
「ああ、兵糧の行き先は、追うだけ無駄だろう。才はあるのだが、張勲はそれを真っ当なことに使おうとはしないのだよ。ひねくれている、とでも言えばいいのか。袁術に対する忠誠心だけは、ひと一倍強いのだがな」
張勲をその気にさせられるのは、袁術くらいなのだと思う。しかし、それは期待するだけ無駄なことでもあるのだ。
その時その時を、袁術と面白おかしく過ごせればいい。張勲は、生涯をそのくらいにしか考えていないのではないか。我欲に忠実な生き方。それを否定することなど、曹操にはできなかった。
「それでなのだが、袁術と話をつけている間、
「ご冗談を。ですが、役目については承知いたしました。よい機会でもありますし、袁家の軍勢を見て回りたいと思います」
「そうしてくれるか。とはいえ、今更見るべき部分もないとは思うがな。稟にとっては、退屈しのぎにもならないだろう」
相好を崩す郭嘉。基本的には鋭いが、柔らかな表情も似合う女だと思った。正式に麾下となれば、こうした機会も増えるのだろう。それは、楽しみなことだった。
袁紹の下には、顔良、文醜といった名うての武人たちがいる。一方で、その二名に匹敵するような部将を、袁術は配下に置くことができていなかった。
兵を鍛えられる将がいて初めて、軍は力を出すことができるのである。金だけは十二分にあるから立派な装備をしているが、袁術軍はただそれだけの軍勢だった。
烏合の衆。端的に言い表すのであれば、そういうことになる。
「しばらくしたら、
「御意。張勳殿のことはお任せください、一刀殿」
郭嘉に目配せをしながら、袁術軍の陣所に足を踏み入れた。
あいも変わらず、弛緩している軍である。のんびりとした衛兵の動きを観察しながら、曹操は密かに嘆息していた。
†
進行する曹操の軍。目指しているのは、汜水関手前に敷かれた孫堅軍の陣である。
何度か奇襲を受けたせいもあって、孫堅は陣を十里(約四キロ)ほど下げているのだという。士気が旺盛であれば跳ね返していたのだろうが、腹を空かせている現状ではそうもいかなかった。
持てるだけの兵糧を持たせて、孫権は先に帰陣させていた。少数だから、敵に捉えられることもないはずである。それに、そのあたりのことは、周瑜が上手くやるのだと思う。
馬を駆けさせながら、曹操は夏侯淵を呼んだ。荀彧は、ずっと後方で荷駄の指揮をとっている。呼び寄せて話をするには、時間がかかりすぎるのである。
「干上がった敵軍が、補給を受けようとしている。
「ふふっ、まさか。殿がご命じになると思って、すでに偵察用の人数を放ってあります。伏兵を見つけ次第、攻撃に移られますか?」
「むっ……。そのつもりだが、秋蘭にはすべてお見通しだったようだな。それともう一つ、公孫賛のところへ伝令を送っておけ。呂布との闘いの前に、関羽たちの実力を見ておきたいのだよ。劉備軍であれば、小回りもきく。董卓軍の伏兵を攻めるには、うってつけだろう」
「劉備軍。殿が入れ込まれるほどの女なのですか、その関羽とやらは」
「そんな風に見えるのか? ただまあ、かなりの美人ではあるかな。欲しいと感じているのは、確かなのだと思う」
惹かれる理由。
それが今ひとつはっきりしていない分、余計気になってしまうのかもしれない。気分の妙な浮つき。関羽というのは、そういったものを感じさせる女なのだ。
「姉者が知れば、これでもかというくらい、嫉妬の炎を燃やすのではありませんか?
「ふっ。肝心の秋蘭は、妬いてくれないのか? だとすれば、寂しいものだが」
「さて、どうでしょうな。殿がそう望まれるのであれば、少女のような振る舞いをしてみせるのも、一興ではありましょうが」
「いじけるなよ、秋蘭。話を戻すが、斥候が帰ってきたら、すぐに知らせるのだ。敵の規模にもよるが、一千ほどの兵で撹乱するだけに留めようと思う。退かせることさえできれば、それでいいのでな。騎馬隊には、いつでも出られるよう、準備させておけ」
荷駄が多い分、通常よりも行軍はゆったりとしたものとなっている。
本格的な戦になりすぎると、動きの重いこちらが不利になる可能性があるのだ。今は、とにかく孫堅の陣に兵糧を無事に届けることだった。
夏侯淵が人を呼び、言伝を与えている。
公孫賛から付けられた兵を含めても、劉備軍は二千にも達していないはずである。郭嘉や程昱の話によれば、それが戦となると、数倍する兵力にも匹敵する力を発揮するのだという。関羽と張飛。そして二人を束ねる劉備という存在。無視しておくことなど、曹操にはできなかった。
偵察に行っていた部隊から報告が上がってきた。
敵軍は約五千。思っていたように、孫堅軍との合流阻止を狙っているらしい。
夜明け前。軽騎兵を五百だけ選抜し、曹操は密かに隊列から離れた。いななきを抑えるために、馬には
後方で『劉』の旗が動いているのも、見て取れた。劉備も全軍で来るようなことはせずに、精鋭だけを引き連れて来ているようだ。
劉備軍の先頭には、関羽が立っている。曹操軍と同じく、騎馬で編成された部隊だった。
董卓の軍は、数里先にある森に潜んでいた。そこから、奇襲の時期を見計らっていたのだろう。なるべく迂回するように移動してきたから、まだ接近には気づかれていないはずである。
「仕掛けるぞ。
「わかりました、殿。貴様ら、腹に力を入れろよ。気迫で敵を呑み込んでやれ。行くぞっ!」
一斉に鬨の声が上がる。
前方。騎馬隊の姿に気づいた董卓軍の兵士が、慌てて武器を手にしている姿が見える。
構わず、馬を突っ込ませていく。
叫び声。そこかしこで、響き渡っている。夏侯惇の大剣が振られる度に、敵兵の身体が宙に舞い上がる。曹操も剣を抜き、すれ違いざまにひとりを突き殺した。
一撃目では、圧倒できている。まともな応戦など、当分の間することができないはずだ。董卓軍は、どの程度の規模の軍勢に襲われたのかすら、把握できていないのである。
混乱のさなか、野営から火の手が上がった。囲んでいた焚き火から、燃え広がったのだろう。おののく敵兵。その全身が、火によってぼんやりと照らし出されている。森が、火と血で赤く染まっていった。
劉備軍の騎馬が、駆け抜けては突撃するという動きを繰り返している。
統率はとれており、乱れはなかった。関羽と張飛が空けた穴を、続く劉備が広げていく。いい連携をしている、と曹操は思っていた。味方の兵は、まだほとんど倒されてはいない。被害としては、数人といったところか。
蹂躙されていた董卓軍だったが、時が経つとまとまって陣を形成するようになっていた。どうやら、この部隊を率いている将は、それなりの力量を備えているようだった。
散り散りになっていた軍勢。それが、数個の円陣を組んでいるのだ。連動して守られると面倒なことになる、と曹操は檄を飛ばした。反撃の態勢が整いきっていない今が、自分たちにとっての攻め時なのである。
狙うのであれば、敵将を徹底的に狙うべきだと思った。将が敗れたと知れば、兵は逃げることを選ぶはずである。そうなれば、後は崩れていくだけなのだ。
「ご覧ください、殿。劉備の麾下にも、気骨のある武人がいるようです」
「ン……。あれが関羽だ、春蘭。一気に、敵の守りを突き破ってしまうつもりなのだろう。俺たちも続くぞ」
劉備の軍勢から、関羽が飛び出していく。周囲には、五十騎ほどが付き従っていた。
敵将が指揮していると思わしき円陣を、関羽は果敢に攻め立てている。勢いは凄まじく、止まる気配はなかった。董卓軍は、よく持ちこたえているというべきなのかもしれない。
援護をしようと、曹操は自軍を集結させた。夏侯惇は、自分も斬り込みに行きたそうにしている。
外壁を剥がしていくように、細かい突撃を数回行った。自分たちに気が向けば、それだけ関羽を防ぐのが難しくなるのだ。
敵将が、戦斧を振り回しながら部下を叱咤している。立て直したとはいえ、士気ではこちらが圧倒しているのである。勝負は、決まりつつあった。
円陣が崩れたのは、五度目の突撃が終わったあとだった。逃散していく敵兵。それを討てるだけ討って、関羽は悠然と引き返してきた。全体を通して、三百程度は削ることができたのだろうか。戦果としては、充分すぎるくらいなのである。
「ご助力感謝いたします、曹操殿。敵将を逃してしまったのは、口惜しいことですが。確か、配下からは華雄と呼ばれておりました」
「華雄か。だが、これでよい。勝ちすぎれば、敵に余計な必死さを与えてしまうだけだ。それに、われらに痛めつけられたことを、汜水関の者たちは当分の間忘れられないだろう。負かされた将が躍起になって出てくれば、孫堅殿が優位に闘えるようになるのだ。無理に討ち取ろうとするよりも、利用してやるくらいで丁度いいのだよ」
「ふむ……。なるほど、曹操殿の仰る通りなのかもしれません。今回の勝利で、こちらの軍には勢いがつきます。虎牢関での闘いに向けての、弾みともなりましょう」
「そうだな。俺としては、関羽殿の戦ぶりを見ることができて、嬉しく思っている。そのように重そうな得物を軽々と振るうのだから、大したものだ」
「そ、そうでしょうか? ですが、そうやって褒められてしまうと、どのように返せばよいのかと迷ってしまいます。義妹の張飛であれば、素直に喜ぶのでしょうが」
武器の長い柄を抱きながら、関羽はそっぽを向いてしまう。
凛々しさと、可愛らしさ。相反する、二つの要素が混在している横顔だった。正面切って褒められるのは、あまり得意ではないのかもしれない。生真面目そうな眉が、時折うかがうような動きを見せている。
劉備が、馬を寄せてきた。張飛も、そちらと一緒だったようである。
「曹操さん」
「劉備殿か。見ての通り、敵軍は尻尾を巻いて逃げ帰ってしまったぞ。これで、孫堅殿の陣に兵糧を確実に届けることができよう」
「はい、そうみたいですね。追撃の必要はなさそうですから、すぐに本隊と合流しましょうか。先に帰った孫権さんたちを、待たせるわけにもいきませんし」
「あのくらい、すぐに食い尽くしてしまうはずだ。急ごう、劉備殿」
劉備が頷く。
手勢をまとめ、曹操は森を出た。朝焼けによる光の中、土煙が美しく輝いている。