どうしてだ、と曹操は思わなかった。
連合軍の諸将の多くは、腰が引けている。孫堅の他にも威勢のいいのが何人かいたが、それも呂布と当たる前の話に過ぎないのである。
虎牢関から引き上げてくると、袁紹からの呼び出しの使者が何度もやって来た。陣払いに際して、曹操軍は殿軍を務めている。幸いにして、呂布が追撃を仕掛けてくることはなかった。退き方があからさますぎたせいで、こちらが誘引策をとっているのではないか、という疑念を董卓軍は抱いたのだろう。
攻め立てられていれば、立て直すことは困難だったはずだ。酸棗近くまで戻った時、公孫賛は肝が冷えたと肩を落としながら言っていた。
自分は、その殿軍をやった後始末に手を取られている。使者が来る度に、曹操はそう言って追い返していた。
今は、袁紹に会いたい気分ではなかったのだ。それに、会えば何かが弾けてしまう、と曹操は思っていた。麾下たちは、袁紹の判断に不満を募らせている。平静でいようとは思うが、自分にも苛立ちがないわけではないのである。
このような形で虎牢関攻めを終えた自分たちは、世に何かを示すことができたのだろうか。そんな考えが頭の片隅に生まれていたが、考えるのはやめにした。次に、考えなくてはならないこと。それは、自分たちの動きを受けた董卓が、どう動くかなのである。
「お久しゅうございます、殿」
「よく戻った。洛陽で、動きがあったのか?」
紅波が、小さく頷いた。
今回の戦を機に、紅波は配下を持つようになっていた。以前から、いずれはそうしようと考えていたのである。腕の立つ者を、まずは五人。それ以上は、今の紅波の手には余ると曹操は思っていた。
戦場が大きくなるほど、間者同士の連携が重要になってくる。紅波に付けた五人が、やがて同じように自身の配下を持つようになる。国全体を覆えるくらいの諜報網。それを作り上げることが、曹操の狙いなのである。
配下たちは従軍していたが、紅波自体は洛陽に潜り込んでいた。着替えている暇がなかったのか、平時のような服装が陣中でやや浮いてしまっている。
「董卓が、洛陽の民を移動させています。帝も、すでにその列の中に。向かっている先は、長安ではないかと」
「長安に? 確かに、洛陽よりかは防衛もしやすくなるだろうが」
「抵抗を見せた商人が何人かいましたが、全て財を没収されています。首を刎ねられた者も、少なくありません」
「急かせ方を心得ているようだな、董卓は。しかし、帝と民をな。紅波、洛陽に残っている軍勢がどのくらいか、わかるか」
肌に、粟立つような感覚を受けていた。
遷都以上の何かを、董卓は起こす気でいるのではないのか。焦燥感。予感めいたものが過るのと同時に、急激にふくらんでいく。
「はっ。軍勢であれば、十万ほどではないかと。拙者がいた時点では、董卓も呂布もまだ洛陽内に滞在していたはずです。それに加えて、董卓の兵が、洛陽各地の墓を暴いておりました。少しの財すらも、奴らは残さぬつもりなのでしょうか」
「そうか。全てを奪うつもりなのだな、董卓は。再起する力さえも、洛陽から消え去っていく。人も、財も」
もぬけの殻になり果てていく都。それを、曹操は想像していた。
董卓は、それで満足なのか。そこで留まることが、できるのか。冷え冷えとするような感覚が、また全身を駆け抜けていく。
「いいや、違うな。奪うだけでは、残ってしまうものがある。洛陽そのものが、まだ残る」
「なんと。殿は、董卓がそこまでするつもりだと、お考えなのですか」
「洛陽が消失してしまえば、連合軍は体面を保っていられなくなるのだよ。袁紹に会ってくる。会って、どうにかなるものであればいいがな」
袁紹のいる営舎まで、曹操は駆けた。
すれ違ったとき、顔良は眼を丸くしていた。呼び出しを無視していた自分がいきなり会いに来たのだから、驚くのも仕方がない。営舎内に飛び込むと、袁紹はそこにいた。
「曹操さん。わたくし、ようやく安心することができましたわ。様子を見に行きたいのは山々でしたけれど、盟主として迂闊に動くのはどうかと……」
「そんなことを、言っている場合ではないのだ。伝えたいことがあって来た、袁紹」
「わたくしに? ええっと、それはもしや……」
袁紹が、妙にしおらしくなっている。どういう風の吹き回しかわからないまま、曹操は言葉を続けた。
「このままでは、恐らく洛陽は焼き払われてしまう。徹底的に今の都を破壊するつもりなのだろう、董卓は」
「仰っていることの、意味がわかりませんわ。洛陽は、この漢国の象徴なのです。その洛陽を、誰が焼くことなど」
「まだわからないのか。董卓には、それができるのだよ。洛陽からは、毎日ひとがいなくなっている。全軍を動かすのであれば、今しかないのだ、袁紹」
董卓は、こちらの結束力の衰えを見越して動いているはずだ。それを覆すためには、袁紹の動座が必要不可欠だった。
遊んでいる兵が、一兵もいてはいけない状況になりつつある。その危機感を、袁紹と共有することができるのか。
「馬鹿なことをおっしゃらないで。連合軍は、わたくしの命で戦線を下げたばかりですのよ。それに、わたくしはあなたに傷ついて欲しくなど……」
「それがお前の答えなのか、袁紹。ならば、ここにもう俺の居場所はない」
「はっ……? ちょっと、それはどういう意味なんですの」
「闘う気概すら示せないで、なにが連合軍だ。そんなもの、さっさと解散してしまうべきではないのか。さらばだ袁紹。おまえはここで、曹操孟徳の戦を眺めているがいい。」
「どうしてですの、曹操さん。ねえ、お待ちになって!」
言ったのと同時に、曹操は再び駆け出していた。袁紹に引き止められそうになったが、振り返ることはしなかった。未練など、連合軍にはもうありはしないはずなのである。
入り口で、誰かと肩がぶつかった。田豊の声が、かすかに聞こえている。悲鳴にも似た、声だった。
自陣。待っていたのは、荀彧だった。
「連合軍として闘うのは、ここまでだ。俺は、俺の戦をするぞ、
「はあ。まったく、そうなるんじゃないかと思っていたわよ。どうしても、やるのね?」
「洛陽が、焼かれようとしているのだ。黙ってみていることなど、出来るはずがあるまい。他の誰が抗わずとも、俺はやる」
「止めてみたところで、止まるはずなんてないか。だったら、行きなさいよ。ただし、死んでも骨なんて拾ってやらないんだから」
「ははっ、心得ておくとしよう。出陣は、出られる者から順次させていく。
「春蘭なら、アンタの帰りを首を長くして待っていたわよ。きっと、すぐに闘うことになるってね」
荀彧が笑みをこぼす。
考えがあっての、戦ではないのである。それでもやるべきだと、本能が叫びを上げているのだ。ここで闘わなくては、自分は自分でなくなってしまう。そんな思いが、身体を衝き動かしている。
「一刀」
荀彧の声。
釣られて横を向くと、温かな感触が唇に生まれた。本当に、一瞬のことだったように思う。
「んっ……。続きは、お預けよ。だから、だからっ」
「ふっ。心得ておくと、言ったばかりだろう? 桂花。待っている間、お前はこの先のことでも思案していろ。連合軍が割れれば、世の情勢は目まぐるしく変わるぞ」
「ぐっ……! アンタに言われなくたって、そんなこと」
「ああ、その調子だ。それではな、桂花」
ここで終われない理由など、いくらでもあるのだ。荀彧の肩を軽く叩くと、曹操はその場をあとにした。
†
乗馬したところで、曹操は呼び止められた。声をかけてきたのは、曹洪である。
「お兄さま。こちらの可愛らしいお方が、お兄さまにご用があるのだと。一体、どちらで知り合われたのですの?」
「お前は、典韋ではないか。前に話したことがあっただろう、
「なるほど、あの折の。ですが、その典韋さんがどうしてこちらに?」
視線を向けると、典韋はかしこまって礼をした。粗野なところがない典韋は、間違いなく曹洪の好みなのだと思う。
「たまたま、陣に戻られる途中の、曹操さまのお姿が見えたんです。その姿がどうしても気になって、ここまで来てしまいました。ひとまずご挨拶をと思ったのですけど、陣内がとても物々しくて。これは、やはり?」
「お前の感じている通りだ、典韋。俺たちは、董卓との戦をやりにいく。半分、意地のようなものかもしれんがな」
「ふふっ。深く存じているわけではありませんが、曹操さまはご自分に素直なお方なのですね。お願いがあります。その戦列の端に、わたしを加えてはいただけないでしょうか」
「よいのか。まだ、張邈のところで働いているのだろう?」
「平気です。兵卒の誰かがいなくなることなんて、戦場ではよくある話ですから。許していただけるでしょうか、曹操さま」
どうやら、典韋は本気のようである。だとすれば、曹操には迷う余地など皆無だった。
「わかった。お前が頼りになることを、俺はよく知っている。旗本として戦に加わってくれるか、典韋」
「えへへ、そうでしょうか? ですが、承知いたしました。曹操さま、わたしの真名は
「あら、よろしいんですの? わたくしの真名は、栄華です。流琉さん、よろしくお願いしますわね」
曹洪が嬉しそうに、典韋を真名で呼んでみせた。
戦をするにおいて、悲壮感などもっとも不要なものの一つだと曹操は思った。下を向いていては、見えるはずのものすら、見えなくなってしまうのである。前を向き続けていれば、逆に何かが見えてくる場合だってあるのだろう。自分の取るべき姿勢は、そちらのはずなのである。
「俺の真名は一刀だ、流琉。そうだ、流琉が来てくれたと知れば、夏侯淵も喜ぶと思うぞ。出陣の前に、顔を見せてやってくれないか」
「はい。よろしくお願いします、一刀さま、栄華さま。わたしも、夏侯淵さまとはまたお会いしたいと思っていたんです。ええっと、今はどちらに」
「わたくしが、案内いたしましょう。流琉さん、どうぞこちらですわ」
「ありがとうございます、栄華さま。一刀さま、それではまた後ほど」
曹洪と典韋が、小走りに駆けていく。頷きで返すと、曹操は視線を前方に戻した。