前のめりになって、馬を駆けさせ続けていた。心だけが無性に沸き立っていて、身体がついて来られていない。そんな気すら、曹操はしていた。
軍の左右は、夏侯姉妹の率いる部隊が固めている。出陣に反対する者は、出てこなかった。時々、自分のやり方に反発することがある曹洪も、ついて来てくれたのである。
曹操が、一段と強く馬腹を蹴った。風の中に、少し嫌な匂いが混じっているのである。言葉にはしなかったが、洛陽がどうなっているのか、想像はついていた。
董卓は、先ごろ洛陽を後にしたようだった。ここで食らいついたところで、なにができるのか。本陣に残った諸将たちの中には、そう考えている者もいるのかもしれない。だからといって、黙って見ていればいいというものでもないのだ。
街道を進んでいると、やがてうっすらと黒煙が見えてきた。洛陽が、燃えている。帝の、おわすはずの場所。今では抜け殻となり、全ての意味を失っている。民さえいなくなり、消えゆくのみの地と成り果てているのだ。
「見えてきたようですな、董卓軍の尻の尾が」
「
曹操が、趙雲に笑いかけている。
五千ばかりの軍勢で、ぶつかろうとしているのだ。炎に浮かされた羽虫が、鬱陶しく飛び回っている。董卓からしてみれば、恐らくその程度のことなのだろう。
それでも、闘う。闘ってみせなければ、自分に生きる価値などない、と曹操は意を決した。
「滅相もございませぬ。曹操殿のお側にいるのが、わたしは楽しくなってきているのですよ。それに、男たるもの、時には無茶をなされるのもよいと存じます。理に縛られただけの人生ほど、つまらないものはございますまい。まあ、これは惚れた女の弱みなのかもしれませぬが」
「ふっ、そんなものか? だが、惚れているのは俺も同じだ。お前の鑓さばきにも、可愛げのあるところにもな」
「くくっ。そのような甘きお言葉を、どれほどの
軍旗が見えてくる。
記されているのは、「張」の一字だった。色は紺碧である。董卓軍の最後方を護っているのは、あの張遼なのだろう。
「私が参ります。張遼の動きを、鈍らせなくては」
突出する趙雲。気迫が、軍全体を包んでいく。右手に握った剣を差し上げて、曹操は声を張りあげた。
「死ぬると思ったとき、人は死ぬのだ。俺には、まだ生きてやるべきことがある。だから、決してここで斃れることはない。みなも、そう思え」
張遼の騎馬隊が、転進をしている。
自軍が来ていることなど、とうに知れていたはずなのである。なのに、ここまで伏兵による襲撃がなかったのは、正面からのぶつかり合いで充分に対処できると判断されたからなのか。
剣。切っ先を、張遼の部隊へと向けた。麾下の兵らが、雄叫びをあげている。真っ先に駆け出したのは、曹操の馬だった。
趙雲がなにか言っていたが、構わず突っ込んでいた。騎兵。向かってくる。ひとりを斬り殺し、曹操は返り血を浴びた。周囲では、乱戦が始まっている。
わかってはいたが、張遼の部隊は手強かった。全体の数で押されている上に、騎馬の割合が圧倒的に高いのである。
纏まって闘っていた曹操軍だったが、次第に断ち割られ、散り散りにされていった。激戦の中で、趙雲の姿も見失ってしまっている。まともに伝令によるやり取りができていないのは、両翼も同じだった。夏侯惇らが容易く討たれることはないにしても、どこも支えきるだけで手一杯、という状況なのである。曹操自身も、浅手をいくつか負っていた。
ひとり、またひとりと、張遼の騎兵に突き倒されていく。
別の方角から鯨波が聞こえてきたのは、その時だった。深紅の呂旗。赤い騎馬隊が、曹操軍にとどめを刺しに来たのだ。敵の攻勢が、明らかに強まっていく。兵たちにも、動揺が強く拡がっていた。
またしても、俺は引き退がることを余儀なくされてしまうのか。葛藤の中で、曹操はもがいていた。
「こちらにいらしたのですね、お兄さま」
「何用だ、
曹洪。
肩で息をしているが、気力はまだ残っているようだった。
「潮時です。これ以上闘えば、いくらお兄さまでも」
「逃げろというのか。俺はな、栄華」
「言い争いをしている時間なんてありませんわ。いまや曹家は、お兄さまあっての曹家なのです。一門として、そんな御方をみすみす死なせるわけにはいきませんの。それに、わたくしだってお兄さまのことを」
言葉が、風にかき消されていく。
乗馬が、いきなり駆け出していた。曹洪が、そうなるように剣で突いたのだろう。
引き返すことを考えたが、出来なかった。自分を生かそうとして、曹洪は動いたのである。その想いは、裏切るべきではない。大人しくなりかけている馬を操りながら、曹操は唇を噛んでいた。
ある程度引いたところで、散っていた兵たちが曹操を見つけて集まってきた。楽進に典韋。それに、旗本の兵が二十ほどである。
「ご無事でしたか、一刀さま」
「栄華に、死ぬなと言われてな。お前たちも、まだ動けるか」
「やれます。
「もちろんです。きっと、他の方々もどこかで応戦されているはずです。
「あれは、俺を置いて死ぬような女ではないさ。退くぞ。俺たちは、存分に闘った。闘えば、負けることもある。ただ、それだけのことだ」
ほとんど、自分に言い聞かせているようなものだ。
それでも、前を向く。前を向かなければならないと、思ったのである。
「行きましょう。日が落ちれば、追手からも見つかりにくくなるはずです。
「承知した、流琉」
少数ながらも陣形を組み、曹操たちは進んだ。
こうして典韋といると、どうしても以前のことを思い起こしてしまう。縁というのは。どこで繋がるかわからないものだ。あの逃避行がなければ、典韋と懇意になることはなかったのだろう。楽進にしても、そうだった。
「流琉には、こんな苦労をさせてばかりいるな」
「いいんです。それに、秋蘭さまからもお願いされていますから。一刀さまを、何に変えてもお護りするようにと」
「そうか。秋蘭との約束を反故にさせないためにも、俺は生きねばな」
典韋が、かすかに笑みを覗かせている。
自分は一度、董卓から逃げ切ったことがあるではないか。あの折は、護衛の兵すらいなかった。それを思えば、今回は随分と恵まれているのだ。
「凪。戻ったら、傷の手当をさせてくれないか。俺にできることなど、そのくらいだ」
「じ、自分のことなど、お捨ておきください。怪我をされているのは、一刀さまも同じなんですから」
提案を受け、楽進は勢いよく
赤い陽が、大地を照らしている。丘を越え、雑木林の間を駆け抜けた。そこまで来ると、あたりはかなり暗くなっていた。
張遼と呂布も、死にもの狂いで捜索をしているわけではないのである。これならば、逃げ切れる。曹操は、そう確信しかけていた。
「そんな、あれは」
楽進が、息を呑んでいる。
林を抜けた曹操たちの目の前に、いくつもの黒い影が立ちはだかっていた。赤く染まった、呂布の旗。暗がりであっても、見て取れる色をしている。
突き抜ける。それしか、道はないと思った。相手の人数のことなど、考えている暇はなかったのである。後方についていた典韋が飛び出し、呂布の兵と斬り結ぶ。楽進も、旗本を連れて応戦に向かっていた。
ここまでか、とは思いたくなかった。それでも、着実に死は近づいてきているのである。剣を握りしめ、曹操は敵兵と対峙した。呂布直属の麾下というだけあって、雑兵とはわけが違う。緊張からか、首筋に汗が流れた。
「苦しいな、これでは」
包囲の輪。それが、じわじわと小さくなっていく。
輪が完全に縮まりきったとき、俺は死ぬのだろう。けれども、せめてそれまでは抗い続けよう、と曹操は腹をくくっていた。
「一刀さま」
「心配はいらん。俺はまだ、闘える」
具足の左肩の部分に、矢が刺さっている。痛みはあるが、動けないほどではない。剣を振るい、曹操は弓兵を斬り倒した。
赤い影。果敢に立ち向かった典韋が、弾き飛ばされる。顔を見るまでもなく、呂布だとわかった。
「はははっ。どうしてかな、呂布。不思議と、俺とお前には縁があるようだ。そうでなくては、こうして何度も
静かに、ゆっくりと、呂布が集団の中から姿を現した。呂布が出てくると、その意を汲んだかのごとく麾下たちが静止した。それだけ、調練がされているという証拠でもある。赤い軍団は、やはり特別なのだろう。
呂布の手には、方天画戟が握られている。どこかで兵を斬ってきたのか、刃は血に濡れていた。
「……ん。曹操、やっぱり変なやつ。でも、
破顔する曹操。その様子を、呂布は首をかしげて見つめている。命乞いをして、どうにかなるような相手ではないのだ。こうして面と向かいあったことで、むしろ心中は穏やかになっていた。
武器が、地面に突き立てられる。呂布はなにをしようというのか。曹操は、その動きを眼で追っていた。
「行っていい。一回だけなら、見逃してやる」
「見逃すだと? 俺に情けをかけるというのか、呂布」
「情け、っていうのはよくわからない。けど、恋は曹操に返さないといけないものがある。恋が困ってたときに、曹操はご飯を食べさせてくれた。そのお礼は、いつか返そうと思ってた。なにかしてもらったら、ちゃんとお礼をしないといけない。
「ふふっ、困るときたか。俺などより、お前のほうが余程変わっているのではないか、呂布よ」
予想外の返答に、曹操は再び大きく口を開けて笑った。
しかし、呂布の語調は、いたって真面目なのである。飯を食わせてもらったという事実が、それほど重大なことだったのだろう。
楽進と典韋は、呂布の言った意味がわからず、困惑の色を浮かべている。
「行くぞ、凪、流琉。呂布。お前とは、いつかまた出会うような気がしている」
「……んっ。肉まん、おいしかった。でも、今度は恋も容赦しない。月の敵は、殺すだけ」
「ふっ、そうか。だが、それでよい。さらばだ、呂布」
剣を鞘に納め、曹操は堂々と歩きだした。呂布が手を出さないと決めているから、麾下たちもじっとしたままだ。
一日駆け通して、自陣までたどり着いた。満身創痍だったが、顔だけは上げていようと思った。夏侯惇たちは、先に帰還していたらしい。
呼ぼうとしたが、すぐには声が出なかった。夏侯惇が、走り寄ってくる。夏侯淵も一緒だった。朝陽が、少し眩しく感じられている。
「わたしの言った通りだったろう、姉者。一刀が、そう簡単に討たれたりするものか」
「ああ、秋蘭。だが、本当に心配したのだぞ。一刀、傷は痛むか?」
「無闇に触れられると、余計に痛む。しかし、春蘭たちも、よく無事でいてくれた」
「うあっ!? す、すまん、一刀」
夏侯惇が、慌てて飛び退いた。
戻ることのできた兵は、半数ほどなのだろうか。しばらくすれば正確なこともわかってくるが、大半の者が傷ついていた。
「出てこなくともよいのか、
「なっ……。秋蘭、余計なことは言わなくたっていいでしょう!?」
「ふふっ。それが嫌なのであれば、初めから素直に殿を迎えていればよいのだ。それと、礼を言うぞ流琉。勝手がわからぬ中だというのに、よくやってくれた。凪も、手当が必要なのではないか。まさか治療を受けぬとは、言うまいな?」
陣屋の影から、荀彧が頭だけを覗かせている。前回譙県に帰った時とは、夏侯惇と立場が逆になっている。
夏侯淵に連れられて、典韋と楽進が屋内に入っていく。陣内では、元気のある者が負傷した味方の救護にあたっていた。
「一刀、アンタも傷の手当を……」
「俺は、まだこのままでいい。戻ってくる者たちを、出迎えてやらなければ」
「そっ。好きにすればいいけど、そのままふらふらとどこかに行ったりなんてしないでよね。春蘭、この男のことを、しっかりと見張っておいてちょうだい。わたしは、あっちで取ってくるものがあるの。すぐに戻るから、気を抜くんじゃないわよ」
荀彧は、自分の表情をあまり見られたくないようだった。
目許が、少し赤く腫れている。うつむきながら言いたいことを伝えると、すぐにどこかへ行ってしまった。
「殿。なにか、座れるものを持って来させましょうか? かなり、お疲れでしょうに」
「よいのだ、春蘭。それよりも、水が欲しい。ずっと駆けていたせいで、喉が乾いている」
「わかりました。それでしたら、すぐに御用意いたします」
帰ってくる兵全員を、労ってやりたかった。それまでは、休むわけにはいかない。曹操は、そう決めていた。
しばらく立ち尽くしていると、趙雲が戻ってきた。全身に、返り血を浴びている。張遼と最後まで闘って、兵を逃してくれていたらしい。
出陣していた部将の中でまだ姿が見えていないのは、曹洪だけなのである。他の従妹たちは、なんとか帰陣してくれていた。
曹純が言った。
「もうすぐ、日が暮れてしまいますね。栄華ちゃん、大丈夫かしら……」
「そんな顔したらダメっす、
不安そうな曹純を、曹仁が励ましている。いくらか、逞しくなったと感じさせる部分がある。思うようにいかないことが多い戦だったが、得たものも確かにあったのである。
「……ン。みな、あれを見ろ」
曹操が、前方を指差している。受けた矢傷は、荀彧が世話をしてくれたおかげで多少は楽になっていた。
脚が、自然と前に出る。ふらつきかけた半身を、夏侯惇が支えてくれていた。
「ああっ。ご無事でしたのね、お兄さま」
「こうしていられるのは、全てお前のおかげだ。栄華、よく……」
言葉は、そこで遮られてしまった。
乾いた唇。それが作法もなにもなく、ただ押し当てられているのだ。
激情が宿っている、と曹操は感じていた。慈しんでやりたくて、何度も曹洪の唇をついばんだ。誰かの涙ぐんでいるような声が、かすかに聞こえている。
「ちょ、ちょっと栄華!?」
「いまは好きにさせてやるのだな、桂花よ。おぬしにも、栄華の気持ちはわかるはずだが」
「なによ秋蘭、その思わせぶりな言い方は。だけど、そうかもね……」
右腕を使って、曹洪の身体を抱き寄せる。それで、震えは収まっていった。
ここまで、ずっと不安だったのだろう。案じる気持ちは、互いに同じだったということか。息継ぎをするために、曹洪が唇を離した。見上げる瞳が、しっとりと潤んでいる。
「お兄さま。んっ……。わたくし、もうお兄さまに会えないものかと」
「俺は、ここにいる。お前も、そうだ」
「ええ、そうですわね。もっと、もっとしてくださいませんか。お兄さまの熱を、感じていたいのです」
そう言って、曹洪はおずおずと目蓋を閉じた。唇だけが、可愛らしくつんと突き出されている。
強張っていた心。それが、面白いように解けていく。それは、曹洪も感じていることなのだと思う。湿り気を帯び始めた唇。その表面を舌でなぞりながら、曹操は右腕に力を込めた。