一 心を覆う雲
湿気を含んだ風が、通り過ぎていく。
土を耕していた手を休め、少女は空を眺めてみた。灰色の雲。それが、堂々と横たわっている。この空の色は、まるで自分の心を映しているようではないか。少女は、そんな風に感じていたのだ。
兗州の山中で暮らすようになってから、数年が経過していた。ここに居着くようになってから、人と接するということがほとんどなくなってしまっている。それでも、時折世間の様相が聞こえてくるのである。
諸将による権力争い。その結果、洛陽が焼け落ちたと知ったときには、さすがに衝撃を受けた。太平道の残党だけでなく、各地には諸々の勢力が闊歩しているという状況が続いていた。そして青州では、大規模な叛乱がまたしても起きようとしているとも聞いている。
現在まで続く、叛乱の嚆矢。その一端を担ったのは、他ならぬ自分だった。当初は、そんな大それたことをするつもりなどなかったのだ。けれども、数多く集うほどに、ひとの願いは思いもよらぬ方向に行ってしまうことがある。
あの頃は、どこか感覚が麻痺していたのかもしれない、と思うことがある。
どうすれば、自分たちの人気をより高められるのか。どうすれば、邪魔をされずに公演を開くことができるのか。取り巻きは、巨大になるにつれて収集がつかなくなっていった。本当であれば手遅れになる前に、自分が二人の姉を説得して組織の暴走を制止するべきだったのである。
とどまることなく膨らみ続けた集団は、やがて太平道などという、打倒漢を掲げる大仰な組織へと変化していった。
思えば、その時から自分たちは、単なる御輿に成り下がっていたのだろう。そこには、民衆たちが純粋に、感情の受け皿を欲していたという事情もあったのかもしれない。
活動最初期から追いかけてくれていた熱心な信徒が、いないわけではなかった。しかし、太平道の上層部は、それ以外の武力を持つ者たちで固められていったのである。力のない自分たちでは、統制を効かせることなど、到底無理な話だった。だが、それでもなにか道はなかったのか、と少女は思うのである。
「あー。だめだよ
声の主の方へと、人和と呼ばれた少女は顔を向けた。人和は真名であり、元々の名を張梁といったが、そちらの名はとうに捨てていた。
張角、張宝、張梁。この三つの名は、太平道の首魁として知れ渡りすぎているのだ。静かな暮らしを得るためには、あまりにも不要なものだったのである。
山を駆け回って、獲物を取ってきたのだろうか。人和を呼んだ少女の肩には、大きな猪が担がれている。まだ年端も行かないような少女だったが、人並み外れた膂力を備えていた。その明るい性格にも、人和は今まで何度も助けられている。
「ごめんなさい、
季衣というのが、その少女の真名だった。名を、許緒という。
この許緒と偶然出会っていなければ、自分はどこかで野垂れ死んでいたのではないか、と人和は思っている。
最後になって、人和たちは太平道を捨てることを選んだのである。逃亡を手伝ってくれた信徒は、生き残ることができたのだろうか。今となっては、何もかもがわからなくなってしまっている。それは、姉たちの消息についても同じだった。
「もう、謝らなくてもいいってば。それよりさ、いのしし捕まえてきたから、ご飯にしよ? へへっ。今日は、お鍋がいいかな」
「ふふっ、それがいいかもね。焼いて食べるのも嫌いじゃないけど、そればかりだと飽きてしまうもの」
「ふふん、でしょでしょ? そうだ。ご飯食べたら、ちょっと歌ってもらいたいな。人和ちゃんの歌、この頃ちゃんと聴けてないし」
「歌を? そうね、少し考えておくわ」
許緒は、自分の歌声を気に入ってくれていた。下心もなにもない、純粋な気持ちなのである。いまの許緒と同様に、一心に応援してくれる人たちを、もっと大切にするべきだった。今更悔やんでも仕方のないことだったが、人和はそう思わずにはいられなかったのである。
薄暗い空。そこから、雫が一滴落ちてくる。濡れる地表。雨による独特な匂いが、周囲に拡がっていく。
「うわわっ。雨、降ってきちゃったね。濡れちゃう前に中に入ろうよ、人和ちゃん!」
「ええ……」
雨。冷たい感触を身に受けていると、蘇ってくる記憶があった。あの日の雨も、今のような降り方をしていた気がするのである。
半分、自暴自棄になっていたのだ。築き上げた地位も、大切な肉親も、気づけばどこかへ行ってしまっていた。全てを失った虚しさから、人和は罰を与えられることを欲していたのかもしれない。
かつて、外で身体を濡らしていた人和を、屋根の下に引っ張り込んだ男がいた。
どうしていいかわからずじっと黙っていたところを、強く抱きしめられたのである。それからあったことは、よく覚えていなかった。けれども、嫌な熱さではなかったように思う。男に与えられた感覚。それを身体が強く覚えてしまっているのか、時折腹の奥が無性に熱くなってしまうことがあるのだった。
欲していたのは、罰だった。それなのに、むしろ自分は生の証を刻み込まれてしまったようにすら思えている。浅ましい話ではあるが、あれで少し気が晴れたのも確かだった。男は、自分のもつ後ろめたさに気づいていたのだろうか。そんな風に、人和は思うのだった。
名前すら知らない男だった。結局いたたまれなくて、抱きとめられていた腕の中から、逃げ出してしまったのである。
許緒が知れば、乱暴なことをする男だ、と怒るのだろう。だが、そればかりではないことを、人和は知ってしまっているのだった。
「人和ちゃん、もしかして泣いてるの?」
「どうしてかしら。自分でも、よくわからないのよ」
溢れる涙。それが、降り注ぐ雨によって洗い流されていく。
揺れ動く感情。その波は、しばらく収まりそうにもなかった。会いたい。その想いは、だれに対するものなのか。その答えを、人和はまだもってはいなかった。
†
長安に帝を移した董卓は、そこを中心とした防衛線を構築していた。
宮殿を建築したことはもとより、楽に十年は闘えるほどの兵糧を備蓄しているのだという。だが、万全な体勢を敷いたように見える董卓にも、失ったものがあったのである。長安は、洛陽に比べると、ずっと西に寄った地だった。董卓の勢力圏が遠ざかったことにより、中原の諸将は独自の動きを取りやすくなったのである。
連合軍解散後、冀州に入った袁紹は、そこで影響力を増していった。袁家に近しい韓馥は弱腰であり、州牧同然の振る舞いを許しているのだという。
動きを見せているのは、曹操も同様だった。兗州内部で賊を追っていた曹操は、逃亡した以前の太守と入れ替わるような形で、現在は東郡を治めるに至っている。戦乱の火種は、そこら中に転がっているような状況だった。
長沙に帰った孫堅は、休むことなく調練を続けていた。
袁紹の増長を、袁術が苦々しく感じているのである。連合軍では対立することもあったが、孫堅にとって袁術は同盟相手のようなものだった。
荊州を治めている劉表には、袁紹の息がかかっている。その排除が、孫家の目下の課題となってくるのだろう。荊州の地を取ることができれば、袁術にも負けない力を蓄えられるはずなのである。調練に熱が入るのも、当然だった。
「あら、
「馬鹿を言うな、
「はいはい、わかってるってば。それで、軍師さまの眼から見て、うちの兵たちの動きはどうだったのよ」
孫策の冗談に眉をひそめながらも、周瑜は感想を述べていく。
「
「ちぇっ、なによそれー。冥琳ってば、母さまを贔屓目に見すぎなんじゃないの」
「ふっ、別にそんなことはないように思うが? あとは、そうだな」
孫家の顔ぶれの中に、近頃加わった者がいた。
汜水関で闘った華雄を、孫堅は生け捕りにしていたのである。普通であれば討ち取ってしまうものだが、見どころがあると感じさせる何かがあったのだろう。
勢力拡大のためには、新たな力が必要となってくるはずだ。だから、長沙に戻ってからは、こうして軍勢を与えて調練に加わらせているのである。
実直でぶっきらぼうな性格が、功を奏しているのかもしれない。孫家古参の将軍たちとも、案外早く打ち解けてしまったと周瑜は聞いていた。
「華雄の動きも、悪くはない。一本調子な攻めだが、磨けば力になるだろう」
「むむっ。わたしにだけ妙に厳しいんじゃないの、冥琳? あっ、噂をすれば。おーい、華雄」
孫策が手を振り、華雄を呼び寄せている。かなり激しい調練をやってきたのか、華雄は汗に塗れていた。
「なんだ孫策。剣の相手でも、探しているのか」
「違うってば。華雄のことを周瑜が褒めてたから、声をかけてあげたのよ」
孫堅に仕えるようになってから、華雄はひたすら武を磨き続けている。来る日も、将軍の誰かをつかまえては、仕合いを申し込んでいるのだという。
詳しいことは知らなかったが、戦場で負かされたのがよほど悔しかったのだろう。
「周瑜が? しかし、まだまだこんなものでは、孫堅には遠く及ぶまい」
「それはそうかもしれないが、闘う相手だけは間違えてくれるなよ、華雄? 殿は、孫家の将とするために、お前を拾い上げたのだ。その期待には、応えてもらわなくてはならん」
「ふん。そんなこと、言われなくともわかっているさ。わたしが今ここにいられるのは、孫堅のおかげなのだ。そのあたりにいる野良犬でも、恩の返し方くらい知っているからな」
「ならば、よいのだが」
華雄の言葉には、偽りはないようである。
それに、もしなにかあったとしても、普段鍛錬をしていることの多い孫策が気づくはずである。
「ねえ冥琳。わたし、闘ってお腹が空いちゃった。せっかくここまで来たんだし、一緒にご飯を食べていかないかしら?」
「ふむ。まあ、それは構わないが」
「よし、それじゃあ決まりね。それと華雄、あなたもついて来なさい。調練が終わったら、どうせすることなんてないんでしょう」
まさか誘われるとは思っていなかったのだろう。華雄の表情に、ちょっと驚きが見えている。
誰とでも親しくなってしまえるのは、孫策の持つある種の才能だった。原野を吹き抜けていく、からりとした風。そんな清々しさを、孫策は備えているのだ。
「それはいいが、飯の前に少々こちらに付き合ってもらおうか。調練だけでは、身体を動かし足りなくてな」
「あははっ、なによそれ? でも、いいわよ。冥琳に、わたしのかっこいいところを見せてあげようじゃないの」
「言っていろ。余裕ぶっていられるのも、今のうちだ」
「へえ。そっちこそ、言ってくれるじゃないの。それじゃあ、いくわよ」
孫策の語気に、鋭さが宿っていく。
抜き放たれる剣。すかさず華雄も、得物である戦斧を構えている。
兵を率いての戦さよりも、孫策は一対一の闘いを好む。戦場では、もう少し自分の身を顧みてくれないものだろうか。そう思う一方で、孫策の勇壮な姿に惹かれている部分が、周瑜にはあるのだ。
剣と戦斧。ぶつかり合い、火花を散らしている。密かにため息をつきながら、周瑜は数歩下がっていく。
「まったく。怪我をしない程度に頼むぞ」
聞こえているはずもないか、と周瑜は自嘲する。表情こそ困っているように見えたが、その口もとはかすかに緩んでいた。