東郡の地を得られたのは、幸運なことだった。
前任の太守が曹操の到着まで持ちこたえていれば、領主が交代することはなかったのである。賊の軍勢は、多く見積もって十万といったところだろうか。ひとまず追い返すことに成功したものの、南方から曹操軍の出方を窺っているという状況なのである。
河水(黄河)の北、東武陽を曹操は拠点としていた。
軍勢を整えるのと同時に、行っていることがある。賊に土地を荒らされ、東郡の民は苦しんでいた。その慰撫をするために、崩れた民政を立て直そうとしているのである。
現状では、曹操自身が各地を巡察している余裕はなかった。
淫祠邪教に、腐った役人。忌み嫌うものの二つに上げるほどのものではあったが、曹操の手許には優れた内政官がいるのである。荀彧も、初めからそのつもりをしていたのだろう。使えそうな文官を何人か選ぶと、護衛の軍勢を編成して出立してしまったのである。
荀彧が組織した巡察団には、郭嘉と程昱も参加している。
新参の二人が、どの程度の能力を備えているのか。あの荀彧のことだから、直接確かめずにはいられなかったのだと曹操は思っている。
報告は、数日に一度届けられていた。曹操の指示を遵守し、荀彧は各地の役所を徹底的に洗い直していっているのだ。その成果もあって、東郡は落ち着きを取り戻しつつあった。あとは、自分が賊軍を駆逐できるかどうかにかかっている。さらに大きな戦の匂いも、東方から漂ってきているのである。できれば、次の闘いで東郡への脅威を完全に除いてしまいたい、と曹操は考えていた。
居室を、曹純が訪ってきている。書簡を机に置き、曹操は軽く肩を回した。
「お疲れのようですね、兄さん。ところで、用件というのはなんでしょうか」
「
「まあ、兄さんも? わたしは、それでも構いませんよ。兄さんが来てくだされば、兵の士気も上がるでしょうし」
「ならば、そうさせてもらうとしよう。居室にずっといると、外の空気が恋しくなってしまってな。それに、俺が健在であることを、たまには周囲に示しておかなければならん」
「うふふっ。誰も、兄さんが臥せっているなどと考えてはいませんよ。そうだ。調練には、姉さんも参加することになっているんです。せっかくですし、昼餉をここでご一緒させていただいてもよろしいですか?」
「好きにしてくれていい。俺は、もう少し報告に目を通している」
「ありがとうございます。姉さんにも、伝えておきますね」
新たに徴発した兵の練度も、向上してきてはいる。荀彧に同行している夏侯淵は東武陽を空けているが、夏侯惇がその分奮起して連日調練に臨んでいるのである。新たに加わった徐晃も、既存の将に遅れることなく能力を発揮している。軍勢の構えは、充実しつつあった。
前後左右、四方を騎兵に囲まれている。百騎ほどの集団ではあったが、どの兵も選びぬかれた精鋭なのである。
すでに楽進や典韋が旗本兵を組織しているが、その主体は歩兵だった。呂布軍による見事な動きを見せられて、手足のごとく扱える騎馬隊が欲しいと曹操は思うようになっていた。この百騎は、その第一歩ともいえる者たちなのである。
馬を駆けさせながら、曹仁が言った。
「ねえねえ、柳琳」
「なあに、姉さん?」
「一刀っちのこと、柳琳ずっと真名で呼んでたのに、どうして急に変えたんっすか? 前から気になってたんすけど、なかなか聞ける時がなくって」
「え、ええっと、それはね。んんっ、どうしましょう、兄さん……?」
困ったような口調。わずかに顔を赤らめた曹純が、振り向いて問いかけてきている。
ずっと見ていられるくらい、可愛らしい仕草だった。とはいえ、曹仁からしてみれば、これまでずっと抱えてきた疑問なのである。最も親しい妹のことなのだから、気になってしまうのも当然ではあるのだ。
曹純は、上手い言い訳が浮かんでこないようだった。情交に及んだ勢いからそうなったなどとは、さすがに言いにくいはずである。助け舟を、出してやるべきかどうか。考え込むふりをしながら、曹操は曹純の表情をうかがっている。
「そ、そうだ、姉さん。
「んー? それは、昔からそうっすね。あっ……!? 柳琳、もしかしてほんとは、お兄ちゃんが欲しかったんすか!? それなら、納得っす!」
「ええっ!? それはなんというか、当たっているようでちょっと違うのかも……。兄さんを頼りに思っているのは、小さな頃から変わっていませんから。姉さんだって、それは同じでしょう?」
「ほえ、あたし? うん、確かにそれはそうっすね。一刀っちは、あたしたちみんなの、お兄ちゃんみたいなもんっすから。あっ。だったら、あたしも柳琳や栄華みたいに、お兄ちゃんって呼んだほうがいいんすかね。一刀っちは、どう思うっす?」
曹仁の疑問が、次は自分のほうへと向いている。少しほっとしたのか、曹純は胸を撫で下ろしているようだった。
「
「あうっ……。なんだか、あたしちょっと照れくさいっす」
「ふふっ。姉さん、顔が赤くなってしまっているわよ?」
小さくなってしまった姉を見ながら、曹純が楽しげに笑みを浮かべている。
妹として、女として。愛しいと思う感情には、少しも違うところはないのである。曹仁にも、いずれそのことがわかる日が来るのかもしれない。そして、それはそう遠くないうちに訪れるのではないか、と曹操は思っていた。
「やっぱり、一刀っちは一刀っちのままでいいっす! ねっ、一刀っち?」
「ああ、それでいい。ふっ……。丸く収まってよかったな、柳琳」
「に、兄さん。あまり、いじわるしないでください……」
曹純のかすれるような声。地面を蹴る騎馬の足音に、かき消されていった。
しばらく、馬を駆けさせ続けていた。まとまり、別れ、再び一個の集団になるという動きを繰り返していく。
曹仁と曹純。実の姉妹だというだけあって、随所で息があっている。曹純が、いつになく厳しい檄を飛ばしている。夏侯惇について鍛錬をしている曹仁に、負けていられないという思いもあるのだろう。二人の競争は良い相乗効果を生んでいる、と曹操は見ていた。
南西の方角から、一騎が駆け寄ってくる。
「殿に、報告がございます。十里(約四キロ)ほど先の地点に、はぐれた賊が屯している様子。見たところ、数百程度の軍勢のようです」
頷き、曹操は命をくだした。
百騎が、移動に適した隊形を形作っていく。自分の眼の届く範囲に、賊がいる。全て斬り捨てるつもりで、曹操は手綱を握っていた。
賊軍の姿が見える。簡素な陣。どこかの村でも、襲撃するつもりなのかもしれない。曹操が声を張る。曹仁と曹純は、馬を操ったまま聞き耳を立てている。
「隊を三つに分ける。華侖と柳琳は左右から突撃し、敵陣を揉み上げてやれ」
言い終わるのと同時に、百騎が三つの筋を描いて分岐していく。
土煙が立ち上る。賊はそれで曹操軍の攻撃に気づいたようだったが、全てが遅かった。
雄叫びと共に、曹操麾下の精鋭たちが斬り込んでいった。陣外の柵は、縄をかけられ引き倒されていった。賊軍が矢を射掛けようとするが、騎兵はそれを物ともせずに突っ込んでいく。
左右から交差するように、曹仁と曹純は敵陣内を一度駆け抜けていった。それで、勝敗ほとんど決まったようなものである。
賊軍が、防衛隊形を取ろうとしている。しかし、練度が低くあまりにもまとまりに欠けている。慌てふためいているところに、曹操が追撃をかけた。
「よいか。誰ひとりとして、逃がすでないぞ」
騎馬が肉迫する。突撃で吹き飛ばされ、斬り捨てられていく敵兵。曹操自身も剣の抜き、陣内を駆け回った。
曹仁と曹純の二隊。反転し、駆け戻ってくる。あとは、徹底的に掃討をしていくだけだった。
死の匂いが、あたりに漂っている。逃げた賊を追い討ちに討ち、曹操は陣であった場所に戻って来た。
百騎は、全て無事なようである。馬を傷つけられた兵が何人かいただけで、損害はなかったといってもいい。
曹純が話しかけてくる。どうやら、報告するべきことがあるようだった。
「こちらに来ていただけますか、兄さん」
「なにか見つけたのか、柳琳。大した賊ではなかったから、財宝などの類ではなさそうだが」
曹純についていく。
行った先では、曹仁がしゃがみこんで待っていた。その隣。荷物を抱えた少女が、力なく肩を落としている。その身体は、かすかに震えていた。不運なことに、賊に捕らえられてしまったのだろうか。見たところ、怪我などはしていないようである。
身体こそ小さいが、秀麗な容貌をしている少女なのである。自分たちが来るのが遅ければ、賊の慰みものにされていても不思議ではなかったはずである。
「ほら、元気だしてっす。賊はあたしらが全部やっつけたから、もう怖くないっすよ」
「は、はいっ……」
戦場というものを、よく知らなかったのだと思う。恐ろしい賊といえども、それが情けもなにもなく殺されていったのだ。
一歩間違えれば、少女自身も巻き込まれて命を失っていたことになる。上手く隠れていたのか、それとも悪運が勝ったのか。ともあれ、生き残ったこと自体に変わりはなかった。
血。少女の頬についたそれを指で拭い、曹操は膝を折った。輝きは弱々しいものの、利発そうな瞳がこちらを見つめている。荀彧とは違うなにか。そういったものを感じさせる、瞳だった。
「深く息を吸って、ゆっくりと吐いてみろ。それで、多少は気分も落ち着くはずだ」
「はい……。んっ……」
死の匂い。息を吸うと、それで身体が満たされていく。だが、それは生を実感させるものでもあるのだ。
少々顔を青くしながらも、少女は懸命に揺れる気持ちを抑え込もうとしている。曹操は、それを好ましく見据えていた。
「俺は曹操、字を孟徳という。この東郡一帯を、太守として治めている者だ」
「はわわっ!? あなたが、曹操さま……?」
「ン……。俺の名も、ちょっとは知れるようになったということか。それで、おまえは名をなんというのだ」
「ひゃいっ。わ、わたしは、諸葛亮。字を、孔明と申しましゅ! あうっ……」
最後に噛んでしまったことを、情けなく感じているのだろうか。諸葛亮と名乗った少女はまたしても身体を小さくし、顔を伏せてしまっている。
「諸葛亮か。まあよい、ひとまず東武陽で休んでいけ。華侖、柳琳、引き上げるぞ」
散らばっていた騎兵が、集まってくる。
諸葛亮の軽い身体を持ち上げると、曹操は自分の馬へと乗せてやった。
戸惑っている様子ではあったが、他に行く宛もないのだろう。諸葛亮は、大人しく従っていた。
「あ、あの、曹操さま」
「なんだ。馬は、苦手だったか?」
「いえっ、そうではありません。ただ、まだお礼を申し上げていなかったな、と思ったんです。本当に、ありがとうございました」
「ははっ、気にする必要はないぞ。俺は、俺のするべきことをしただけに過ぎん。そこに諸葛亮、たまたまおまえが囚われていただけなのだよ」
「はい、曹操さま。んっ……。安心したせいか、なんだか眠気が……」
「帰りは、そう急ぐこともない。だから、眠ってしまっても、多分振り落とされるようなことはないと思うぞ。それに、もし落ちそうになってもつかまえてやる」
「ふわ……。んんっ、ふぁい……」
諸葛亮の発していた言葉。それが、段々と意味を持たなくなっていった。
噛み殺していた欠伸が、やがて寝息へと変わっていく。闘いで乱れていた心を、穏やかにしてくれる温もり。それを胸に抱きながら、曹操は帰途についた。