諸葛亮を保護してから、数日が経過していた。
東武陽を拠点と定めているが、曹操は屋敷を持とうとはしなかった。役所の一角。そこに改修を加え、曹操は自らの私空間としてしまったのである。役所で居を置いていれば、必要な判断をすぐに下すことができる。いまは、軍勢を強化すると同時に、民政の地盤を硬める時期でもあるのだ。
それに、屋敷を持たない理由は他にもあった。曹操は、この地にいつまでも、根付いているつもりがなかったのである。
北方には、袁紹がいる。南には袁術。それに、孫堅も領土の拡大を求めて牙を研いでいることだろう。機を逸すれば、何もかもを失うことになる。そんな危機感が、常に頭の片隅にこびりついているのである。
東郡を足がかりとし、ゆくゆくは
曹操の考えを、配下の将軍たちもよく理解していた。夏侯惇を筆頭に、武官のほとんどが城外の営舎で起居しているのだ。それだけに、軍勢に緩みはなかった。全体が、まだほんの緒戦に勝利しただけだ、という気持ちで日々の調練を重ねているのである。
夜半。曹操は、居室の寝台の上にいた。眠っている途中で、目が覚めてしまったのである。起きてはいるが、意識はまどろんでいる。そのような、状態だった。
すぐ隣には、夏侯惇が眠っている。毎日ではないものの、報告を兼ねて誰かがこうして泊まっていく。昨晩も、寝台に潜り込んできた夏侯惇を、何度も可愛がったばかりなのだ。
燃えるような情欲を、余さず受け止めてくれる女体だった。どれだけ苛烈に責められようと、夏侯姉妹ならば甘受してくれる。そういった安心感を、自分は持ってしまっているのかもしれない。それは、幼少期からの付き合いがなせるものなのだろう。夏侯惇と夏侯淵。曹嵩を例外とするのであれば、肉親に近しい感情を抱いたのは、二人が初めてだったように思う。
養父は、息災にしているのだろうか。ふと、曹操はそんなことを考えていた。
長じてからは、父と度々反目するようになっていった。疎遠になって久しいが、それでも曹嵩は自分を育て上げてくれた父親なのである。そのやり方には賛同こそできなかったが、父なりに家をもり立てようとした結果なのだとは感じている。
実際、曹操もその人脈に救われている部分があるのだ。だから、曹嵩のしてきたことの全てを、無下に否定することはできなかった。
いずれまた、道が交わる瞬間が来るのだろうか。父を迎える自分は、その時どのような顔をするのだろうか。考えは、尽きなかった。可愛らしい寝息。それによって、意識が引っ張り戻されていく。夏侯惇の頬に手をやり、曹操はかすかに微笑んだ。
夏侯惇の着物をまさぐった。豊かな乳房。手のひらを当ててみると、温かさが拡がっていく。甘えるような吐息。首筋を、何度も撫でていった。
夢の中であっても、夏侯惇は自分の手のひらを感じているのだろうか。しかし、このまま愛撫をし続けてしまえば、間違いなく朝方まで眠れなくなってしまうのである。
情欲を逃がそうとして、曹操は眼を閉じた。乳房。その柔らかさだけを感じていたくて、ゆるやかに指を動かしてみる。すると考えに反して、夏侯惇の吐息に色っぽさが加わっていった。擦れる内股。脚が、絡め取られてしまっている。
あとは、なるようになればいい。そんな風に考えている間に、曹操の意識は再び溶けていった。つぎに目を覚ました頃には、窓から朝陽が差し込んでいた。
「おはようございます、お兄さま。もう、起きていらっしゃいますか?」
声が聞こえてくる。どうやら、曹洪が来ているようだった。
身体を起こすのが面倒で、横になったまま入ってくるように言った。夏侯惇に、一晩中抱きつかれていたせいなのだろう。その重みで、少し右腕がしびれている。
「ななっ、
入ってくるなり、曹洪が奇声を上げた。
それが煩わしかったのか、身体を起こした夏侯惇が、眠たげにまぶたを擦っている。乱れたままの寝間着。肩の下まで、ずり落ちてしまっている。はだけた胸元。そこから、両方の乳房があらわになっていた。
「ううん……。朝っぱらから騒々しいではないか、
「ち、違います! ほら、お兄さまも春蘭さんに、着物を直すように言ってあげてくださいませ」
曹洪が、頭を懸命に振ってみせた。
関係はいくらか進んでいる。機を見て、閨に誘ってみてもいいのかもしれない。今より深い付き合い方を、曹洪もそろそろ知るべきなのだろう。
拒まれることはないはずだ、と曹操は思っていた。あとは、曹洪の覚悟が決まるかどうかなのである。
着衣を整え、冷たい水で顔を洗った。引き締まるのは、肌だけではない。気持ちが、じわりと奮い立っていく。
「朝餉に、諸葛亮さんも招待しようと思っていますの。それで構いませんか、お兄さま?」
「そうしてやれ。口には出さないが、知らない土地で心細くしていることだろう」
諸葛亮は、これまで友人と旅をしていたのだという。はぐれてしまったのは、賊に囚われる少し前のことのようだ。連絡を取る手段がないから、動き回るのは得策ではなかった。だから、なにか手がかりが見つかるまで駐留することを、諸葛亮は選んでいる。
人を探すのであれば、この辺りではもっとも大きな東武陽に来るに違いない。それが、共通している見解だった。衛兵たちには、すでに諸葛亮の友人の特徴を伝達してある。その名を、鳳統といった。
朝餉の粥を口に運ぶ。優しい味付けで、起きがけの身体でも自然に受け付けることができる。このところ、曹操の食事を担当しているのは典韋だった。側で護衛を務めていることからも、都合がよかったのである。夏侯惇たちも、食事の出来には満足そうだった。
曹洪が、諸葛亮の世話を甲斐甲斐しく焼いている。それは、曹操も承知していることだった。
自分好みの少女が、ひとり放浪する憂き目にあってしまっているのだ。構いたくなるのは、仕方のないことだった。
「こちらでの暮らしはどうですか、諸葛亮さん?」
「はい。おかげさまで、不自由なく過ごせています。みなさん、よくしてくださいますから」
「困ったことがあれば、なんでも言ってくださいまし。それと、もし……もしですわよ? 人肌恋しければ、その……わたくしが添い寝をしてあげるなんていうのも……」
予想外の提案だったのだろう。さすがに、諸葛亮は困惑しているようだった。
曹洪の瞳の奥にある、妙な輝き。その正体を、東武陽に来たばかりの諸葛亮が、知るはずもなかったのである。
粥の器を置いて、夏侯惇が言った。
「なんだ栄華。殿と朝寝はしたくないと言ったばかりだというのに、諸葛亮とはそうしたいのか?」
「ええっ? べ、別にわたくしは、お兄さまと一緒に寝たくないなんて一言も……。ねっ、お兄さまは、わかってくださいますわよね?」
男女のことに、興味があるのだろうか。諸葛亮が聞き耳を立てているように、曹操には思えていた。
「そうなのか? 俺は、てっきり栄華に嫌がられてしまったのだと思って、先程から密かに落胆していたのだが」
「お、お兄さま!? そんな、それは誤解です。わたくし、どうすればいいんですの……」
自分以上に困っている曹洪の姿が、おかしかったのだろうか。諸葛亮が、口もとを隠して笑っている。
招いた当初は硬さばかりが目立ったが、多少は馴染むことができているのだろうか。それを自分が微笑ましいと感じていることが、曹操には不思議だった。
「はははっ。栄華、そのようなこともわからんのか? ならば、わたしが手本を見せてやろうではないか」
夏侯惇が、自信満々といったように胸を叩いている。曹洪にとっては、まさしく渡りに船なのだろう。その動きを、黙って注視しようとしているようだった。
粥をすくった匙。それが、口の前に差し出されてくる。夏侯惇のしようとしていることを理解して、曹操は口を開けた。夏侯淵ほどではないが、手慣れた動作である。一口分の粥を味わってから、曹操は夏侯惇の黒髪を撫でた。
「ふふん、どうだ栄華。やり方はわかったのだろう? ほら、お前もやってみるがいい」
「わ、わかりましたわ。お兄さま、どうかわたくしのお粥も、召し上がってくださいませ」
緊張しているのか、匙を握った手が震えてしまっている。そのせいで、量の加減が上手くいかなかったのだろう。粥の山が、匙の上でこんもりと膨れていた。
それもまた、可愛らしいものだ。曹洪に対して続けるように目配せをすると、曹操は再び口を開いた。軽く咥えるようにして、匙をつかまえてしまう。なんとなく、零れてしまいそうな危うさがあったからだ。
粥を咀嚼している自分を、曹洪が心配そうに見つめていた。諸葛亮も、わずかに前のめりになっている。
「ど、どうでしょうか、お兄さま?」
「流琉が作ったものなのだから、うまいのは当たり前だな。だが、栄華がくれた気持ちの分、味に上乗せがされているのではないかな。もう一度、してくれるか?」
「あっ……。はい、喜んで! さっ、どうぞお兄さま」
曹洪の表情が、ぱっと明るくなっていく。経験したことで自信がついたのか、手の震えはなくなっていた。
自分が兄であれば、夏侯惇は姉のようなものだった。抜けているところはあるが、ここぞという時には頼りになる。従妹たちが信頼を寄せるのも、当然だった。
「えへへ。上手くいってよかったですね、曹洪さま」
「ええ。お兄さまに喜んでいただけて、わたくし安心いたしましたわ」
「みなさん、仲がよろしいんですね。見ていて、ちょっと羨ましく思えてしまうくらいです」
「あら、そうですの? でしたら、諸葛亮さんにもして差し上げましょうか。わたくしも、ちょっとは上手くなったところですし」
「はわっ!? え、えっと、それは……」
後ずさりする諸葛亮を、曹洪が追い詰めていくような格好になっている。
曹操にしている時とは、明らかに違う動力が働いているのだ。持ち前の聡さから、諸葛亮はそのことに気づいてしまったのかもしれない。
「あの、曹操さま……?」
諸葛亮の、助けを求めているような視線。あえて知らないふりをしたまま、曹操は夏侯惇による奉仕を受けていた。