長安。ずっと寂れていた
ここには、洛陽から移されてきた、多くの人々がいる。
多数の人間が集えば、そこには生活による流れが生まれていく。どれだけ移住に不満を抱いていようが、現実を受け入れるべき時が必ずやってくるのである。それに、物の流れさえ出来てしまえば、暮らしもある程度落ち着いてくる。なにより、この長安の宮殿には、漢の帝がいるのだ。帝がそこに鎮座してさえいれば、民衆たちの中には安堵感が拡がっていく。それは、普遍的なものだった。
実質的な力が衰えていようと、残っているものがある。長きに渡って培ってきた権威というのは、そう簡単に消えるようなものではないのである。
董卓の考えていたように、長安は都としての体を成すようになっていた。あとは、反抗的な諸将を抑えつけるだけなのだ。漢を再び、まとめ上げるための道筋。朧気にではあったが、それは見えかけてきているように思われていた。
董卓による政権。それは、盤石なものになっていくと、長安の民の誰もが考えていた。帝という、権威の象徴が手許にある。袁紹を中心とした連合軍も、結果を出すことなく瓦解するに至っているのだ。
しかし現実に、漢という国は一つにまとまることなく、乱世に突入しようとしていた。中原では、割れた連合軍の諸将が、勢力拡大に腐心しているのである。それに、太平道の撒いた乱の種もまた、急速に芽生えつつあった。
呂布の屋敷。洛陽時代よりも大きくなった敷地には、多くの動物たちが暮らしていた。
戦乱の世は、いくつもの孤独を生み出していく。誰かが何かを得ただけ、その代わりに失う者が現れるのである。それは、人も動物も同じだった。
孤独による辛さ。どこにも、助けなどはない。生き抜くために、荒々しいだけだった武芸を、呂布は磨きに磨いていった。孤独。呂布が知っているのは、それだけではなかった。ひとの心の温かさ。苦渋を味わった分だけ、温もりを強く感じたのかもしれない。その気持は、自分だけのものにしておくべきではない。だから呂布は、心の赴くままに手を差し伸べる。
身体を照らす陽光。目を覚ました呂布は、大きな欠伸をした。背中に、少し痛みがある。昨晩は、赤兎の世話をしていて、そのまま厩で眠ってしまったのである。胸元では、犬のセキトが身体を丸めて眠っていた。そのおかげで、寒さだけは感じないで済んでいる。
セキトの頭を撫でながら、呂布は董卓のことを考えていた。
このところ、董卓の体調があまり優れないようだった。夜になってもよく眠れず、食事を戻してしまう時まであると呂布は聞いている。
胸のあたりが、締め付けられるように痛んだ。
連合軍との戦が終わって、張り詰めていた身体に反動が来ているのかとも思う。自分や張遼であれば、ただ得物を振るっていればいいだけなのである。政治的な会話などに、呂布は興味を示したことがなかった。自分は、ただ
セキト。呂布の顔を見て、小さく吠えている。心に、靄がかかっているようだった。赤兎に乗ってひと駆けすれば、それも晴れるはずなのである。馬体を軽く叩いてやると、赤兎は身体を起こす。従順で、賢い馬なのである。呂布が微笑みを見せると、赤兎は控えめにいなないた。
「呂布将軍」
「ん……、華佗」
男が、屋敷を出たばかりの呂布に手を振っている。
華佗。気さくで、表裏のない男だった。気分屋のセキトが、懐いているくらいなのである。それからは、呂布も時々話をするようになっている。
若いが腕のいい医者らしく、噂を聞いた賈駆が、董卓のために呼び寄せたのである。華佗は、いまも診療に行ってきたのだろうか。手には、道具をつめているであろう箱が握られている。
「
「はははっ。相変わらず優しいな、呂布将軍は。太師は、ひとまず落ち着かれている。一度鍼を打てば、数日の間は元気でいられるはずだ。問題は、その後なのだが」
長安に移ってから、董卓は太師と呼ばれるようになっていた。
帝に次ぐ地位にある人物。太師というのはつまりそういうことだ、と呂布は陳宮から教わっている。
「数日……。たった、それだけ? 月には、ずっと元気でいてほしい。華佗、なんとかならない……?」
「当然、そうなるように努力はするさ。しかし、これは案外難しい問題なのかもしれないんだ。一般的な病魔であれば、俺は鍼でいくらでも打ち倒すことができる。それが、
「んっ。ごと……べいどー?」
「違う! いつも言っているが、
「心……。月は、そのせいで苦しんでる」
「国の舵取り役という重責が、太師の負担となっているのは間違いないだろう。といって、俺に口を出す権限などはない。会うまでは、どんな恐ろしいお方かと思っていたが、鍼を打っている途中に昔ばなしを聞くことがあってな。呂布将軍が慕うのも、最近になってわかる気がしてきたよ」
華佗が、自らの指先を見つめている。医術の技だけではどうすることもできないのが、悔しいのかもしれない。
心の病。戦があると、たまに兵がおかしな状態になってしまう場合がある。どうにかして治そう、などと考えたことはなかった。闘えなくなった兵ならば、放逐してしまえばいいだけだった。董卓には、代わりなどいるはずがない。呂布は、赤兎に身体を寄りかけながら頭を悩ませていた。
自分は、董卓のためになにができるのか。よく眠り、よく食べる。そうすれば、すぐに元気になると思っていたのだ。
以前のように涼州で暮らしていれば、董卓が今のような苦しみを得ることもなかったのだと思う。けれども、望んでしまったのである。朝廷内に蔓延る腐敗を取り除き、漢をもう一度ひとつにする。董卓の願いは、いつ叶えられるのだろうか、と呂布はふと考えた。周辺には、敵が多すぎる。董卓が締め上げを緩めれば、長安内部でも不穏分子が活動を強めるはずである。
ひょっとすると、この苦しみはいつまでも続いてしまうのかもしれない。息苦しさを感じて、呂布は胸のあたりをさすった。嫌な考えを取り去りたくて、頭を左右に大きく振ってみる。すると、今度は華佗が心配そうに呂布のことを見つめてきた。
「平気か、呂布将軍? 調子が悪ければ、いつでも言ってくれていいんだぞ。そのために、俺の鍼はあるのだからな」
「……ありがとう、華佗。だけど、
「そうか。太師の心を癒せるのは、将軍のような身近にいる人間だけなのかもしれないな。そのためにも、自分の体調には注意を払っておくんだぞ?」
「ん……、わかった。セキトも、行こ」
声をかけると、セキトが器用に飛び乗ってくる。小柄な身体を抱きかかえると、呂布は腿を使って馬体を締め付けた。それで、赤兎に思いが伝わっていく。駆け出すと、華佗の姿がすぐに小さくなっていった。
長安城外。原野を駆けていると、さわやかな風だけを感じることができた。呂布は、一心に前だけを向いている。乗り手の心中を察しているのか、赤兎は速度を上げていく。その足取りは軽やかであり、まるで跳ねているようだった。