陽が落ちかけている。
河水(黄河)は、静かな水面をたたえている。于毒らが率いる賊軍は、陣に閉じこもったままだった。
曹操軍は、油断なく守りをかためていた。これまで抜いてきた守軍とは、なにかが違っている。そうしたことに、敵軍は気づきはじめているのかもしれなかった。
陣には、滞ることなく兵糧が届けられていた。どこを経由し、一度にどの程度の量を運ぶのか。あくまでも、自分たちは自領の守備をしているに過ぎないのである。そのことを踏まえて、荀彧は無理のない輸送体系を作り上げていた。少量を日に何度か運び入れ、それをいまは三箇所の拠点に分けて保管している。現状闘っている相手だけを見れば、慎重すぎるくらいのやり方だった。
荀彧が見ているのは、眼の前の相手だけではないのだろう。調練でやっていることを、実戦の緊張感のなかで兵たちにやらせている。これは後々のことを見据えた実地訓練なのだと、曹操は理解していた。
「ほんっと、変なところでマメなんだから。別に、アンタ自身が出ていくこともないと思うんだけど?
陣を出ようとする曹操を前に、荀彧がぽつりともらした。
時刻でいえば、もうすぐのはずだった。おかしな音は、陽が落ちるころ鳴りはじめ、途切れることなく夜半まで続く。鈍く、辺りに響き渡るような音。なんでも、大きな木に剣を打ち付けているというのだ。朝になってから確認しに行ってみると、まず斬れないであろう太さの幹に、無数の太刀筋がついているのだという。その音が陣にまで響いて、兵たちを恐れさせていたのだ。調査にあたっていた間者は、さらに深く探りを入れようとしたようだった。けれども、遠巻きに見ているしかなかったのだという。
うかつに近づけば、斬られてしまう。そのくらいの恐怖を、感じさせられたのかもしれない。敵陣を探るよう命じられたのであれば、間者も意を決して懐に飛び込んだに違いないのである。ある意味、自分の気まぐれから与えた任務なのだ。だから曹操も、間者を必要以上に責めようとはしなかった。
他者を恐れさせるような武威。それほどの器量を持った人物が、幸運にも近くにいるのである。誰かにまかせるのではなく、自らの眼で確かめてみたい。心が湧き立っているせいか、曹操の足取りは軽かった。
護衛としてついてきているのは、典韋と趙雲だけである。典韋は兵の同行を提案してきたが、曹操は断った。物々しい出で立ちで赴けば、無為に警戒心を抱かせてしまうかもしれない。それに、気にしなければいけない相手は、対岸にもいるのである。だから、出来得る限り少数で動くことが、いまは望ましかった。
篝火の光。先頭を歩く典韋が、周囲を照らしている。
大きな木が見える。近寄ると、曹操は木肌の感触を手で確かめはじめた。いくつもの傷。斧などではなく、剣による傷跡なのだろう。窪みに残るささくれからは、荒々しさすら感じられるようだった。
趙雲が、小さく声を発した。横にいる典韋もうなずいている。件の音。それが、林のなかに響いていた。
†
白刃が、妖艶な光を放っている。
普段であれば、全身を呑まれるような闇が拡がっている時間帯なのである。ひとりの女が、空を見上げていた。丸い月。輝いている。強すぎない光が、大地を優しく照らしていた。
女が剣を構え、深く息を吸い込んだ。眼は、木の幹だけを見つめていた。立ちはだかるように佇んでいる木。物静かで、超然としているようだった。脚に力をいれ、女は直線的に斬り込んでいく。馬の尾にも似た髪が、ゆらゆらと揺れている。
馬超。それが、女の名だった。
故郷である涼州をでたのは、ふた月ほど前のことだった。暮らしに不満があったわけではない。涼州での生き方が、馬超は好きだった。来る日も馬とたわむれ、なにかに縛られることなく生きていく。以前はもっと争いのある土地だったようだが、馬超が幼い頃の話であり、よく覚えていなかった。
それでも、涼州が完全に平和になったわけではなかった。涼州は、外敵の脅威にさらされている地でもあるのだ。共存している羌族も多いが、時折叛乱を起こしたり、外から軍勢を侵入させてくることがある。そんなとき、馬超は常に先頭を切って闘っていた。戦をすれば、血が湧き立つ。闘いは、嫌いではなかった。
母である馬騰。戦に明け暮れ、涼州を分断したことのあるような人物だった。それが、いまでは涼州の民たちから慕われるようになっている。口には出さないが、馬超はそんな母のことを誇りに思っていた。
その馬騰の様子が、近頃変わってきているのである。なにかにつけて、帝を話題に上げようとする。はじめは、そんなこともあるのだろう、と馬超は思っていた。
漢の端にある涼州にとって、帝は遠い存在だった。中央からやってくる役人は、統治の方法がなっていないことが多かった。中原でのやり方を、涼州に当てはめようとする。それではだめだということを、理解できないのである。
涼州は、涼州だけで生きていけばいい。馬超は、そう考えるときがあった。
これまでも、ほとんどそうしてきたようなものなのである。外敵が攻めてくれば、打ち払う。そのための力は、持っているのだ。
涼州全土が結束すれば、二十万の軍勢にはなるだろう。戦力としては、それだけあれば十分すぎるくらいなのだ。それに、西域との交流を盛んにすれば、暮らしをもっと豊かにすることもできるはずだった。しかし、中央の
帝を、お守りしなければ。馬騰の、口癖のようになっている言葉だった。心境の変化が訪れたのは、いつ頃だったのか。思えば、一度帝が主催する茶会に招かれたことがある。辺境の地に暮らしているだけに、声がかかるとは思っていなかったのだろう。拝謁できたことに、母はいたく感激していたように思う。それに、歳を重ねなければ、見えてこないものがあると聞いたことがある。そうした経験が絡み合って、母は帝を守れと口うるさく言っているのか。
馬超の妹たちは、馬騰の発言を大して気にしていなかった。帝はいま、長安にいる。長安は、洛陽と比べて涼州に近い場所にあるのだ。だから、そうした気分になっているだけなのだろう。ときが経ち、気持ちが冷めれば、またもとの馬騰に戻るはずである。そのくらいにしか、考えていなかった。
「ふっ」
剣を振る。
考えがまとまらなくなったとき、馬超は剣を握るようにしていた。切っ先が迷えば、斬れるはずのものすら、斬れなくなってしまう。剣は、自分の写し鏡のようなものだった。
若い頃、馬騰は木こりをして生計を立てていたのだという。だから、いまになっても、どんな木であろうと見事に斬ってみせるのだ。自分はまだ、その領域に到達することができていない。母だって、迷えば切っ先が鈍るはずだった。そう思って、馬超は大木に向かい続けていた。
自分は、知らないことが多すぎる。涼州での暮らしは捨てがたかったが、気がつけば飛び出していた。昔から、考え込むのは苦手だったのである。涼州だけでなく、中原のことをもっと知らなければ。決意した馬超は、ただ東へ駆けていた。
董卓。自分と同じ、涼州を故郷とする人物だった。
都を焼く。言葉にするのは簡単だが、よほどの気持ちがなければ出来ないことだ、と馬超は思っていた。涼州にいるときの董卓を、何度か見かけたことがある。優しげな風貌で、とても乱世に打って出られるようには見えなかった。それがいまでは漢の太師であり、政治を思うがままに操っているのだ。戦乱の世は、ひとを変えてしまう。それとも、生き抜くためには、変わらなければならないのか。
切っ先が揺れる。硬い芯に、刃が弾き返されたようだった。
どのくらい、剣を振り続けていたのか。無数の傷跡。それでも、木は静かな構えを崩してはいない。
「誰だ」
木々のなか。声が、吸い込まれていった。乾きのせいで、少々かすれている。けれども、見えない誰かには、はっきりと聞こえているはずである。
篝火を先頭に、人影が三つ出てくる。男がひとりに、女がふたりだった。明らかに、近くに住んでいる農民ではなかった。鑓をたずさえた女は、油断のならない気を放っている。
「誰だ、アンタたち。あたしに、なにか用でもあるのか」
剣を構え直す。土地勘がないから、囲まれればそこまでだった。しかし、周囲に軍勢のような気配はない。多分、三人のほかには誰もいないのだろう。
前に出ようとする女を、男のほうが止めている。剣を向けられても、慌てるような素振りはない。むしろ、笑っているように馬超には見えていた。
「嗅ぎ回るような真似をして、すまなかった。俺は曹操。太守として、この辺りを治めている者だ」
「はあ? その太守さまが、どうしてこんな場所にいるんだよ。それに、曹操殿ならば、いまは戦をしている最中のはずだろうが。つまらない嘘なんて、あたしは聞きたくないぞ」
「ははっ。そうか、嘘と申すか。しかし、困ったものだな。星よ、俺はどうすればいい?」
男が、後ろ控えた女に笑いかけている。
曹操。その名は、馬超も記憶していた。洛陽が焼かれたとき、真っ先に出ていったのが曹操なのだ。董卓擁する大軍に、小勢でありながら果敢に立ち向かったのだと聞いている。
洛陽を通り過ぎるかたわら、馬超はどこへ向かうべきか考えていた。やはり、袁家による統治を見に向かうべきなのか。荊州にいる孫堅も勇名を馳せており、馬超にとって気になる存在だった。それとも、別の誰かか。浮かんできたのは、曹操の名だった。
迷った場合は、直感に従ってみるほかない。涼州を出たときも、そうしてきたのである。数日経ったとき、馬超は
「面倒そうな女ですな。主よ、ここはわたしの腕を頼ってくださいませぬか。一度打ちのめせば、容易に連れて行くこともできましょうし」
「せ、星さん。いくらなんでも、それは乱暴すぎますってば」
女が、挑発的な視線を向けてくる。腹は立ったが、自分のことを試しているようでもあった。ここは、我慢して堪えるべきだ。馬超は、平静を保とうとしていた。
自ら曹操と名乗った男。素直に信じることなどできなかったが、でまかせを言っているようには思えなくなってきていた。立ち居振る舞いは落ち着いているが、視線だけは決して外そうとしないのである。その眼には、力強さが宿っていた。母とはまた違う、強さを持った眼なのである。
「名を、聞かせてはもらえないだろうか」
曹操だと名乗った男が、柔らかく笑んでいる。名前くらいなら聞かせてやってもいいだろう。馬超は、なんとなくそんな気持ちになってきていた。
「馬超だ。生まれは、涼州」
「ほう、涼州の馬超か。その馬超が、はるばる
「武者修行、のようなものかな。あたしには、知らないことが多すぎる。だから、いつまでも涼州に閉じこもってちゃいけないって、そう思ったんだ。戦にしたって、あたしは涼州でのやり方しか知らなくってさ。曹操殿が戦をやるって聞いて、ここまで見に来たんだ」
曹操の眼が、輝きを増している。意識せずに、馬超は剣を下ろしてしまっていた。きっと、この男は嘘をついていない。本能が、そう感じ取っているのだ。
言葉が、いくらでも湧いてでるようだった。涼州を離れてから、あまりひとと接してこなかったせいなのかもしれない。曹操は、優しげに笑ったままだった。
「見ているだけで満足なのか、馬超?」
「そりゃあ、できれば戦にもでてみたいけどさ。あたしは、ひとりっきりなんだ。家をでるときだって、黙って抜け出したようなものなんだよ」
「ひとりか。ひとりは、つまらぬものだ。はじめはいいが、時々思い出したように辛くなるときがある」
「ははっ、なんだよそれ。でも、そうなのかもな。ずっと母さまや妹とたちと過ごしてきたから、いまは静かすぎるくらいでさ」
いまの自分と同じような経験が、曹操にもあるのだろうか。
書き置きだけは、居室に残してきていた。それを読んだところで、連れ戻そうなどと考える母ではなかった。
「あの、馬超さん。お腹は、空いていませんか?」
「へっ? ああ、確かにそう言われると……。最近、まともに食えてなかったからなあ」
「よかった。だったら、わたしたちの陣に、ご飯だけでも食べにきてください。ありもので作ることにはなりますけど、きっと満足させてみせますので」
「ほ、ほんとにいいのか? えっと、曹操……殿?」
ひとは、空腹には抗えない。剣を振っていたせいで、余計に腹が減っているのだ。いつもならば、寝て忘れてしまうところだった。
「ふっ。ようやく、信じる気になったのか?」
「なんだか、不思議な気分だよ。最初はそんなわけないって思っていたのに、あんたが嘘を言ってないって思えるようになってきたんだ。……ほんとに曹操殿、なんだよな?」
「ははっ。まだ疑いが残っているではないか、馬超。よい、陣までくれば、すぐにわかることだ」
曹操の明るい声が、暗闇に拡がっていく。
剣を鞘に収めると、馬超は立て掛けておいた鑓を手に持った。本来、得意としているのはそちらのほうなのである。
「馬超よ。先ほどは冗談で言っただけだが、おぬしの腕前を見てみたいという気持ちは本当だ。我が名は趙雲。あとで、手合わせを願おうか」
「おう、いいぜ。剣のほうはまだまだ修行中だけど、鑓ならあたしにも自信がある。楽しみにしているよ、趙雲殿」
満月が、ひときわ強く大地を照らしている。
思いがけない出会いだった。感覚を信じて動いていなければ、こうして曹操に