陣内に、活気が生まれつつあった。
曹操軍の兵士は、さすがによく鍛えられている。全体から闘気を感じられるようになっているが、浮足立った様子はどこにもなかった。将軍たちによる抑えが、しっかりと効いているのだろう。戦場につくまえに、全てを出し切ってしまっては意味がないのである。冷やさず、されども熱しすぎず。部隊ごとにまとまった軍団が、出陣のときを待っていた。
武装した将兵。その間を、乗馬した曹操が通り抜けていく。颯爽としており、伸びた背からは風格すら感じさせられた。
あの夜のように、典韋が護衛をつとめている。そのあとから、楽進に率いられた旗本が続々とやってくる。曹操が馬を止めると、全員の視線が集まった。普段軽口を叩いている趙雲も、さすがに表情を引き締めていた。肌を刺すような空気感。馬超は、出陣前に訪れるこの瞬間が、嫌いではなかった。
いまごろ、対岸にいる敵軍は慌てて軍議でもしているのではないか。具足を身に着けながら、曹操が話していたことだった。
夏侯淵率いる別働隊が、河内郡にある敵城を囲っている。
城兵は少数であり、数日あれば陥落させてみせる、と言ってきているようだった。自分のような客分に語るのだから、実際にそうなのだろう。敵軍は、自分たちが攻めることばかり考えて動いている。加えて、後方の本拠地が極めて不安定な状況になっているのだ。
渡渉に移るのであれば、いまだった。行動が遅れれば、五万の軍勢をそのまま逃がすことにもつながりかねない。敵陣に虚実の情報を与えながら、曹操は攻撃に転じる機会を待ち構えていたのである。
「
下知を終えた曹操が、馬を寄せてきた。
真名を預けたのは、先日のことである。そちらの名で呼び合うようになっていたのは、曹操だけではなかった。軍師には変わり者が多く感じられたが、気質の合う将軍たちとはすでに打ち解けることができている。
一度鑓を合わせれば、相手の性分がよく見えてくるのだ。卓抜した武人同士だからこそ、できるやり方だった。夏侯惇はわかりやすすぎるくらいだったが、趙雲も奥底に熱いものを秘めている。それだけわかれば、十分なのだった。
戦は、すぐにでもはじまるのだろう。この軍勢のなかに飛び込んで、自分も存分に鑓を振るってみたい。そんな思いを持ちながら、駆け出していく軍勢を馬超は見送っていた。中原までやってきたのは、涼州の外での戦を知るためでもあるのだ。
曹操は、大きな野心を抱いている。遥か遠い場所にある夢といってもよかった。
この国の覇者となり、乱れた秩序を復活させる。それをやるのは、董卓でも、袁家の誰かでもない。
馬超のまえで、曹操はそう言い切ってみせたのである。
血が湧き立った。戦場でなくとも、こんな気持になることがあるのか、と考えさせられた。馬超にとって、それは初めて経験することだったのである。
自分は何者で、なにを成すことができるのか。闘い続けていれば、それが見えてくることがあるのかもしれない、と曹操は話していた。迷いを持っているわけではないのだろう。曹操は、ただ純粋に疑問の先にたどり着きたい、と考えているようだった。
「戦にでてみる気はないか、翠。こちらの準備ならば、整っている」
「えっ? いいのか、一刀殿? あたしのようなよそ者が混じれば、歩調が乱れるかもしれないぞ」
言葉こそ消極的だったが、馬超の右手は早くも鑓を握っている。その姿を見て、曹操は嬉しそうに笑った。
「ははっ。おまえひとりが入って乱れるような軍勢など、俺は作り上げてきたつもりはないぞ。闘う気があるのならば、
「調練だったら、何回か見させてもらっているよ。良馬さえそろえば、この軍の騎馬隊はもっと強くなるはずだ」
「そう見えたか? ならば、今度軍馬の選定にでも付き合ってもらうとしようか。翠の目利きがあれば、心強いかぎりだ」
「ああ、いいぜ。なんなら、一刀殿の乗馬も見繕ってあげようか?」
「ほう、それは楽しみだな。商人には、よい馬を連れてくるよう言い聞かせておこう」
曹操が、冗談めかして笑っている。その気になっていく自分を、馬超は抑えきれずにいた。
ずっと話していたのでは、趙雲の部隊に追いつくことができなくなってしまう。対岸への渡渉は、浮かべた船に足場を並べて行うと郭嘉が言っていた。本隊を渡すための陽動を、先行した曹純がやっている。
「一刀殿。それじゃ、お言葉に甘えて行ってくる」
「存分に暴れてくるのだな、翠。向こう岸で、落ち合おう」
馬超が、馬に飛び乗った。涼州から連れてきた愛馬なのである。気合を入れて駆けさせれば、中原の馬を置き去りにするくらいの力があった。
趙雲に率いられた部隊は、すぐに見えてきた。
†
馬超と入れ替わるようにして、程昱がやってきた。こちらが話し終わるのを、待っていたのかもしれない。他人の事情など考慮していないように見えて、その実動きをしっかりと観察している。それが、程昱だといっていい。
曹操率いる部隊は、今回後詰のような役割を受け持っていた。渡渉を取り仕切っている郭嘉は前線にでていっているが、それ以外の軍師はまだ本陣に残っていた。
「おうおう兄ちゃん。アンタも、なかなかのワルだねえ。あんな
「こら
にやける程昱から顔を背けると、たまたま近くにいた荀彧と眼があった。機嫌がよくないのは、明白なのである。口を動かしているわけでもないのに、小言が聞こえてくるようだった。
「しばらくの間、翠には客分として働いてもらうつもりだ。これからは、とにかく将が入り用になってくる。いずれは、麾下として迎えたいとは思っているが」
「ですねー。あの星ちゃんと互角にやり合えるんですから、ぜひとも残っていただきたいものです。さて、翠ちゃんに関しては、ご主君さまにおまかせするとして」
「本題があるようだな、
「ふふふー。さすがはご主君さま、風の本心など、とっくにお見通しというわけですねえ」
程昱が、飴で口もとを隠しながら表情をほころばせている。それに合わせて、頭に乗った宝譿も仕草を変化させているが、原理はよくわかっていなかった。李典が分解させてくれとせがむのも、当たり前といえばそうなのかもしれない。
なにかあったとすれば、長安、あるいは荊州あたりなのだろうか。青州を拠点とする黄巾賊の集団も、気がかりといえばそうだった。暴威はやがて渦を巻き、いずこかの土地に襲いかかると見て間違いない。
「長沙にいる孫堅さんが、
「劉表では、あの孫堅軍の相手はまず務まらんだろうな。荊州を奪れば、孫堅の力はかなり大きくなる」
孫堅が、徴発した兵士を激しく鍛え上げている。それは、前々から耳にしていたことだった。
つけ入る隙きを、劉表軍が見せたということなのだろう。孫堅のもとには、優秀な軍人がそろっている。長女である孫策も、連合軍では目立った存在だった。それに、孫堅を救援したときに遭遇した華雄という将軍が、いまではその麾下となっているのだ。今後も、孫堅軍については、動向を詳しく追わせるつもりだった。
腕組みをしたまま、荀彧が歩み寄ってくる。どうやら、話したくないというわけではないらしい。荀彧の様子を見て、程昱がおかしそうに声をもらしている。
「荊州をとったら、そのつぎにどこを狙うのかしらね、孫堅は。わたしだったら、うるさい袁術を始末しようとするのかも」
「
「ふうん。ちょっと前まで女にかまけていたにしては、まっとうな意見が言えるんじゃないの。安心したわ。その頭につまっているのは、あの汚らしい汁だけではなさそうね」
荀彧が、小さく鼻を鳴らした。いまは、眼だけがこちらを向いている。少しは、機嫌を直してくれたのかもしれない。
「とまあ、おなかを空かせた野犬でも、素通りしてしまいそうな桂花ちゃんの嫉妬心は、どこかに置いておくとしてー。ご主君さま、旗本さんたちが、さきほどから出陣を待っておられるようですけどー?」
「そろそろ頃合いか。桂花、風。本陣を、十里ほど前に出すぞ」
陣形を組み、兵士たちが駆け足で進んでいく。不満に彩られた荀彧の声は、その雑踏のなかに消えていった。
雲がなく、晴れ渡った空である。それを見上げた曹操が、ちょっと目を細めてしまう。孫堅の、けもののような雄叫び。耳をすませば、それが聞こえてくるようだった。