杯を満たしていた酒を、一度にあおる。少し肌寒さを感じるくらいの夜だった。篝火の弾ける音。陣屋のなかで、それだけが聞こえている。
濡れた唇。ゆったりとした動作で指でぬぐうと、孫堅は閉じていた眼を開けた。
日が昇っているうちは、調練に調練を重ねていた。城には、しばらく帰ってはいない。陣営の場所も、数日に一度変えている。すべては、戦のためだった。
黄蓋を筆頭に、将軍たちは意欲をもって調練にあたっていた。
連合軍に参加したとき、兵力は二万程度だった。あれから民政を充実させ、長沙一帯は完全に安定しつつある。統治の成果によって、兵力は三万をこえてきているのである。じきに、四万にも到達するはずだった。
自分が城に戻らないのを、張昭は苦々しく思っていることだろう。しかし、いまは新兵を鍛え上げることが先決だった。それに、張昭が眼を光らせているかぎり、民政が揺れることなどまずありえないのだ。次女である孫権も、そちらの方面で力を発揮しつつあった。視野が広く、他者の意見をよく聞くことができる。孫権に期待をかけているのは、張昭も同様なのである。いずれ孫権には、文官たちの長として、孫家の中枢を担ってもらいたい。張昭は、そう考えていると見て間違いなかった。
戦の才にかけては、孫策が頭一つ以上抜けていた。感覚だけで物事を見てしまうきらいがあったが、経験を積めばそれも変わっていくことだろう。なにより、孫策には、周瑜という切れ者の友人がついている。
杯を手に持ったまま、孫堅が口を開いた。卓の向かいにいる周瑜が、ちょっと姿勢を正している。
「
「はっ。冀州では、袁紹が州牧の座についたようです。版図の拡大を狙っているのでしょうが、どちらに兵を向けることになるのか、まだ見当がつきません。袁紹は、気分屋なのだと思います。あの御仁の考えひとつで、行き先は変わっていくことでしょう」
「袁紹がどのような方策をとろうが、ぶつかることになれば叩き潰すだけだ。袁家の女と、オレはどうにも馬が合わなくてな」
「
周瑜がかすかに笑う。
南陽にいる袁術とは、同盟関係が続いている。自分の北進に合わせて袁術が襄陽をつけば、それで劉表は身動きがとれなくなってしまう。袁術は、袁紹の躍進を阻みたいと考えているはずだ。そのためには、国の南部を抑えてしまう必要があるのだ。
しかし、袁術に堂々と軍を興すような勇壮さがないことを、孫堅は知っていた。それを如実に示す内容の文も、数度届いている。袁術が、襄陽攻めを催促してきているのである。
まず、孫堅軍を劉表軍と闘わせ、弱ったところに大軍を押し出して荊州の制圧を狙う。そうすれば、袁術軍の被害は最小限で済むのである。袁術の懐刀である張勳が、考えそうなことだった。
ならば、その狙いに乗ってやるまでだった。袁術の思惑通りに劉表を攻め、襄陽を素早く奪い取る。劉表さえ斬ってしまえば、荊州は自然と自分に従うことになるだろう。そのとき、袁術にもいくらか甘い汁を吸わせてやればいい。
袁術には、しばらく北の盾となってもらうつもりだった。その間に揚州に勢力を伸ばし、地盤を確たるものにする。揚州を押さえれば、徐州への道が開けてくるのだ。そうなれば、北への進軍路がいくつか見えてくる。袁術との決着など、そうなってから着ければいい。孫堅は、獰猛そうに歯をのぞかせた。
「袁術よりも、いま気にしなければならんのは劉表のほうだ。陸遜はどうしている、冥琳」
「連日、郡境で調練を盛んにやっているようです。ご心配には及びません。あれはのんびりとしているように見えますが、仕事はしっかりとこなしますよ」
周瑜が、自分の杯に口をつけた。以前よりも、余裕がでてきたように思う。孫策の存在が、周瑜によい影響を与えているのだろうか。
孫家の飛躍。そのためにも、若手将校を育成していく必要があった。陸遜には、劉表軍に遠慮することなく、調練をやってくるように伝えてある。それだけ言っておけば十分だと、周瑜から聞かされていたのである。孫堅は、戦の口実を欲していた。そう考えていたときに、周瑜が陸遜を使うよう進言してきたのだ。
のんびりとしている陸遜よりも、ほかに適任者がいるのではないか。そんな意見も当初あがってきたが、周瑜が選定したことだからと孫堅は取り合わなかった。
「郡境の警備にあたっている魏延という将は、かなり焦れてきているそうです。相手がなんと言ってこようが、陸遜であればのらりくらりとかわすことができますから。それで、余計に鬱憤をつのらせているのでしょう」
「フッ、意地の悪いことをするじゃねえか。そんな策ばかりとっていると、冥琳もいつか
「お戯れを。雷火さまが後方にいてくださるからこそ、われらは安心して戦ができるのです。炎蓮さまも、内心では感謝しておられるのではありませんか?」
「おっ? 随分と婆の肩を持つじゃねえか、冥琳。さては、出てくるまえになにか言い含められてきたな」
「ふふっ。べつに、そうではありませんよ」
周瑜が、空いた杯に酒をそそいでくる。篝火に薄っすら照らされて、褐色の肌が美しく色づいていた。
雷火。張昭の真名である。呉郡にいた頃からの古参であり、口やかましさにおいては孫家随一といえるような人物だった。たとえ相手が主君であろうとも、自分の意見を曲げることなくぶつけることができる。そんな張昭だからこそ、不正のない民政を行えるのだろう。文官たちの母のごとき存在でもあり、周瑜もその薫陶を大いに受けているのである。
「曹操殿が、
話題を変えるように、周瑜が言った。袁紹らの名をぞんざいに呼んでいた周瑜であったが、曹操にだけは敬称をつけている。
汜水関での闘いは、苦しいものだった。
兵糧が尽きれば、軍はたちまち機能しなくなってしまう。わかってはいたが、そのことを痛感させられた一戦だった。
あの折のことを、周瑜も脳裏に刻みつけているのだろう。それだけに、迷わず救援を送ってくれた曹操に対して、悪くない感情を抱いてしまうのは、むしろ当然だと言うべきなのである。
特に周瑜は、直接その陣までおもむいて、交渉をしてきたという経緯があるのだ。直接尋ねたことはないが、権も似たような思いを抱いているのかもしれない。
意識くらい、存分にすればいいと孫堅は思っていた。
年頃も近しい男なのである。周瑜、それに孫策にとっても、競争するに相応しい相手がどこかにいるというのは、歓迎すべきことだった。
杯をかたむけながら、孫堅は曹操の姿を思い浮かべていた。
荒々しい息づかい。一夜の出来事だったが、互いの肌を焦がしあったのだ。長らく満たされていなかった部分。曹操の熱さは、そこまで満たしてくれたという思いがある。命の力強さとでもいうのか。そういったものを、曹操からは強く感じることができたのである。
「ククッ……。あれはなかなかによい男だったぞ、冥琳。董卓に叩きのめされたばかりだというのに、オレの
「なっ……!? さ、さすがに、そればかりはご勘弁を」
「ハハハッ。可愛い顔をしやがって、雪蓮が夢中になるのも当然だな」
声をあげて、孫堅は笑った。
空になった杯。差し出すと、周瑜は慌てたように新しい酒をそそぐのだった。