郡境にいる陸遜からの伝令がきたのは、十日後のことだった。
怒り心頭といった様子の魏延が、静止を振り切って長沙に乱入してきたのだという。まんまと、陸遜の挑発に乗ってしまった格好である。
五百の手勢を率いて殴り込んできた魏延を、陸遜は二百の歩兵で見事に打ち払ってみせた。敵が血気盛んなうちは弓を用いた遠距離戦に徹し、疲労してきたと見ればすぐさま突撃して崩しにかかる。もともと、地の利は陸遜のほうにあったのである。攻め気を砕かれた魏延は兵を返し、自領へと引き返していったのだった。
長沙城外の陣営。報告を受け取った孫堅は、麾下の将軍たちを陣屋に集めていた。襄陽侵攻のための軍議を、おこなうためなのである。
「ククッ。面子を潰された劉表は、さぞかし苛立っているのだろうなあ」
「悪い顔しちゃって。そうなるように仕組んだのは、母さまのほうじゃないのかしら?」
「なんだ
「あら、そうだったわね? でも、領土を荒らされたからには、きつい仕返しをしてあげなくっちゃ。そうでしょ、母さま」
「ったりまえよ。それにだ、こちらが仕掛けるまえに、劉表は大軍をけしかけてくると見てまず間違いないだろう。それを迎え討つことができれば、オレたちの軍の士気は大いにあがる。勝ち戦の勢いをもって、一息に襄陽を呑み込んでやろうじゃねえか」
「いいわね、それ。でも、黄巾軍と闘ったときみたいに、母さまが先頭を切って城壁を昇っていくのだけは、やめてもらえると助かるのだけど?」
「古い話をもちだしてくるんじゃねえよ。それに、若いだけのおまえと違って、オレには多少了見というやつがある」
「へえ、そうなんだ。その言葉、忘れないでよね」
孫策と冗談交じりの言葉をかわし、孫堅は胡床から立ち上がった。
戦に向けた準備は、整っていた。腰に佩いた南海覇王。その柄を指でなぞると、気持ちがじわりと昂ぶってくる。
居並ぶ将軍たちのなかから、程普が言った。
「ふむ。劉表からしてみれば、袁術と結ぶわれらを討ついい機会にもなる、ということですか」
「ふんっ。ならば劉表は、兵の多寡でしか、軍を見られていないということじゃな。わしが同じ立場であれば、まず間違いなく袁術を潰しにかかる。兵の頭数が多くとも、あやつの軍にはまともな将軍がおらんからの。孫堅軍との挟撃を避けようと思うのであれば、方策はそれしかあるまい」
「その悔しさは、戦場でぶつけてやりなさいよ、
「おうさ。わしとて、手柄をゆずってやるつもりはないぞ、
黄蓋の考えは、もっともだった。
自分が劉表の立場であっても、そう動くはずである。袁術を叩くことさえできれば、袁紹からの援軍をあおぐことも可能になるのである。そうなれば、途端に孫堅軍は苦しくなる。大軍によって長沙周辺から圧力をかけられれば、取ることのできる手は必然的に少なくなってくるのだ。そうした戦略を打ち出してこないのならば、劉表は冷静さを欠いていると言っていい。
「祭、粋怜。おまえたちには、襄陽攻めの先鋒をやってもらう。出陣は二日後。斥候は、いまより各地に放っておけ、
「承知いたしました、
「おう、好きにしろ。加えて、輜重の護衛として歩兵五千をつける。それと陸遜には、洞庭湖のあたりまで進出し、オレたちを待つように伝えろ。水運を使えば、輜重の足も速くなるというものだ」
軽く頭を下げると、周瑜は陣屋から退出していった。
北へ攻め上がるためには、やはり騎馬隊の存在が重要だった。しかし仮に、揚州あたりで一大勢力を築くのであれば、水軍を鍛え上げることが一番になってくるのだろう、と孫堅は思う。江水(長江)を西に伝っていけば、その先には益州すらも見えてくるのである。だから、南方制覇の鍵となってくるのは、水軍だといっていい。
†
二日後。出陣をまえにして、孫堅は次女である権を呼び寄せていた。性格的には、攻めよりも守りのほうが向いているのだと思う。それでも、どこかに激しい部分を宿しているのだ。曹操を相手取って、半ば恫喝するような言葉をはいたとも周瑜から聞いている。自分の娘なのだから当然か、と孫堅は心のうちで笑った。
「なにか御用でしょうか、母さま」
「ああ、
首からひもでぶら下げていた小さな袋。孫堅はそれを外すと、娘の眼のまえで揺らしてみせた。
揺れる袋を、孫権が怪訝な顔で見つめている。中身には、おおよそ見当がついているのだろう。
「あの、母さま。それは、もしや洛陽で得たあの?」
「ククッ、そうだ。おそらく、おまえの思っている通りのものが入っているぞ?」
燃える洛陽。その城内にもっとも早く到着したのが、孫堅軍だった。
焼け落ち、崩れていく建物。漢という国は、いよいよ終わりを迎えるのか、という気分になったものだ。鎮火をしてまわり、生かせる者は生かした。その最中、たまたま拾い上げたものがあったのである。
はじめは、単なる小さな石ころだと思った。しかし、それこそがこの国の玉璽だったのだ。このような状況となっては、それ自体にどれほどの意味があるのかはわからない。だが、運命的なものを感じずにはいられなかった。天意。それに近しいものが、自分に味方しているのかもしれない。
「ほんとうに、玉璽なのですね。そのようなもの、わたしには荷が勝ちすぎています。どうしてもと言われるのであれば、それは雪蓮姉さまに」
「馬鹿を言え。オレも雪蓮も、所詮戦のなかでしか生きていくことのできん人間よ。あいつに渡してしまった途端、それこそ闘いに夢中となって失えてしまうかもしれんぞ」
「で、でしたら、この戦の間だけでも、母さまがお持ちになっていてください。わたしには、まだその覚悟というものが……」
「蓮華。その生真面目さは、おまえのいい部分ではある。だがいつかは、おまえが孫家を背負って立つ日がやってくるかもしれんのだぞ。そのときになっても、おまえは覚悟がどうとか抜かすというのか。どうなんだ、蓮華?」
権の肩が、びくりとふるえる。
いまは、誰もが戦のなかに生きていると言っていい。闘うということは、すなわち死ぬことでもあるのだ。なにも、すぐに家督を継ぐことになる、と言っているわけではなかった。けれども、娘たちには常にその覚悟だけは持って生きていてもらいたい。孫堅は、そう考えているのである。
「わかり……ました。ですがわたしは、母さまと一緒に、大きくなっていく孫家が見てみたいのです。きっとその思いは、姉さまや
「ハハッ。戦をまえにして、そのようなしみったれた顔をするやつがいるか。いいか蓮華。この玉璽だが、いまはおまえにとってとてつもなく重いものかもしれん。だがな、やがてこれすらも、なんの変哲もない石ころとなるべきときがやってくる。オレの戦は、それまでずっと続くのだろうよ。そうして、そのつぎに訪れるのは、おまえたちの時代だ。そうなれば、この国は必ずや変わるぞ」
「は、はいっ。母さまのお言葉、胸に刻みつけておきます」
「わかったのなら、これを持っておけ。フッ、失くすなよ?」
「おまかせください、母さま。孫家のいしずえとなり得る石、しっかりと守り通します」
「おう、よくぞ言った。それでこそ、この孫文台の娘よ。さて、先鋒のあとに続いて、オレは部隊を動かすつもりだ。おまえは後方を固めつつ進んでこい、蓮華」
「承知いたしました。ご武運を、母さま」
話し終え、孫堅は陣屋をあとにした。
心地よい陽光。さえぎるものはなく、視界は良好である。騎乗し、孫堅は馬の首をたたいた。三万の本隊。移動を開始すると、土煙が大きく舞い上がった。