前方。布陣する劉表軍を視界にとらえると、孫堅は南海覇王を抜き放った。
敵軍の主力は、まだ見えてはいない。決戦ともなれば、劉表の軍勢は五万程度となってくるはずである。いま相対している部隊は小規模な留守居の部隊であり、規模は四千といったところだった。
劉表軍の中心となってくるのは、黄祖率いる江夏兵と考えるのが妥当だった。狡猾な性格をしており、戦の腕も悪くない。劉表からの信頼も篤いようで、今回の戦でも黄祖が総指揮をとってくるようであれば、警戒するべきだと孫堅は思っていた。
「黄蓋、程普の両軍は、騎馬で突入して敵陣の守りを砕け。崩れたところに、華雄を突っ込ませるぞ。策の部隊も、それに続かせろ」
自分が斬り込むまでもなく、この戦には勝てる。その確信を持って、孫堅は馬上から下知を飛ばしていた。
緒戦だからといって、手を抜くつもりはなかった。小勢を血祭りにあげ、孫堅軍のおそろしさを荊州北部にまで知らしめるつもりなのである。それに華雄にとっては、これが孫堅軍として闘うはじめての戦でもあるのだ。ここで戦果をあげることで、華雄は真に孫堅軍の一員となることができるのだろう。果敢な闘いぶりを見せれば、古参の将兵に対するいい示しにもなるのである。
命令が伝わると、攻撃がすぐさま開始されていく。騎馬隊の突進で柵は引き倒され、あらわになった敵兵は原野にしかばねを晒していく。混乱のなかに攻め込んできた華雄と孫策の部隊を止める力など、敵軍は持ち合わせていないのだった。ほとんど、雑兵のかき集めのような部隊だったのかもしれない。もとより、時間稼ぎのために残された人数なのだろう。いい気分はしなかったが、勝ちは勝ちなのである。
降伏してきた半数ほどを収容し、孫堅はさらに軍を進めた。残りは逃げたか、あるいはすでに死んでいた。その勢いは止まらず、長沙をでて三日後には、江陵の北にある麦城のあたりにまで孫堅軍は進出してきていた。
仮設の陣屋。部将を招集し、孫堅は軍議を行っていた。ここまでくれば、襄陽周辺の様子もよく伝わってくる。戦支度は済んでおり、陣地を構築していることがわかっていた。そして、その指揮のほとんどを、黄祖がとっている。黄祖のほかにも、蔡瑁、黄忠といった将軍が出張ってきてはいるが、大した発言権はもっていないようだ。
「劉表は、襄陽南部に全軍を集結させている。五万の敵の半分ほどが、江夏からやってきた兵だ。黄祖のババアが、やはり幅を利かせてやがるようだな」
「ふん。誰が相手であろうと、一気呵成に突き破ってしまえばなんの問題もなかろう。孫堅。つぎの戦は、わたしに先鋒をやらせろ。ここまでまともな敵と斬り合えなかったせいか、気分が浮ついて仕方がないのだ。劉表の本隊であれば、さすがに骨のある武人も在籍しているんだろうな?」
「ハハッ。闘いたりんという気持ちはわからんでもないが、逸るんじゃねえよ、華雄。おまえの出番は、ゆるりと決めてやる。それまでは、雪蓮のお守りでもしているんだな」
「ちっ、食えん女め。娘のお守りであれば、周瑜にでもさせておけばよいではないか」
華雄が吐き捨てるように言った。
劉表軍は堅陣を敷いている。まずは、その守りの弱点を探るべきだった。間者を多数放ってはいるが、戦の最中ということもあり、敵陣も警戒を強めているはずである。
ここは、一度軽く軍勢をあててみるべきか。睨み合いのような格好になることだけは、避けたかった。戦が長引けば、厭戦気分が自陣に蔓延しかねないからだ。現状息を潜めているとはいえ、袁術の動きも気にならないわけではないのである。
「陸遜。おまえ、真名はなんという?」
「はいー。わたしの真名は
「うむ、穏だな。穏、おまえに兵三千を預ける。劉表軍の前曲と交戦し、様子を探ってくるんだ。もしそれで敵が釣れれば、こっちのもんってやつよ。全軍を動かし、休むことなく決戦にもちこんでやる」
「おお。これは、なかなか責任重大そうですねえ?」
「どうだ。やれるか、穏?」
「もちろんです。前回抜擢していただいた恩に報いるためにも、わたしがんばっちゃいますよお? それに、推薦してくださった
「よし、そうと決まればすぐに動くぞ。
命令を与えられた陸遜と程普が、駆け足気味に陣屋をでていった。
名の売れていない陸遜であれば、敵も必要以上に警戒することはないはずである。それに敵陣内には、長沙で陸遜にやられた魏延がいる。魏延が仕返しのために飛び出してくれば、それに同調する部隊がないともかぎらないのである。ぶつかるとすれば宜城周辺か、と孫堅は絵図を見ながら思う。宜城を抜けば、襄陽はもう目と鼻の先だった。
思惑通り、陸遜はうまく立ち回っていた。あえて敵軍の眼につくように、奇襲の真似事をやっていたのだ。かたちとしては守りを固めていたが、劉表軍のなかにも血気盛んな将軍が何人かいたようである。陸遜が無理をせずに撤退のかまえをとると、波を打つように二万ほどの軍勢が攻め寄せてきたのだ。
その機会をものにするべく、孫堅は全軍を動員し総攻撃に移った。
「騎馬で敵部隊を揉んでやるとするか。冥琳、本陣はおまえにまかせる」
「
「ハッ、年寄りくさいことを言うんじゃねえよ、冥琳。それに、城攻めと野戦では、話がまったく違ってこよう。なにより、総大将であるオレが命を張らずしてどうする。戦には、ためらいは禁物よ」
「無茶をされる姿は、ほんとうに親子そっくりなのですから。ですが、お気をつけください。予想だにしないことが起こるのも、また戦なのですから」
周瑜に手で返事をしながら、孫堅は馬にまたがった。鍛え上げられた旗本たちは、遅れることなくついてくる。前線に到着すると、すぐさま斬り合いになった。
「うるぁぁあああ! 劉表軍なんざ敵じゃねえってことを、この戦で見せつけてやるぞ! 全軍、休まず攻め続けやがれ!」
蒼空に、孫堅の叫びが響き渡った。南海覇王。孫堅が一度ふるうと、五、六人の首が続けざまに飛んだ。
その武威は、将軍たちを寄せ付けぬほどに圧倒的なのである。敵軍の総大将を討とうと劉表軍も必死になっているが、孫堅はかまわず押しまくった。右翼。土煙をあげながら、馬群が突っ込んでくる。かかげる旗は『黄』。黄蓋の騎馬隊が、苦しんでいる敵軍の横腹に、痛撃を加えたのだった。
「いい頃合いだな。左翼で遊んでいる策の部隊を、敵軍の背後に回り込ませる。華雄には、こっちの戦線の手伝いをさせてやるとするか。あいつ好みの、乱戦だろう」
伝令の騎馬が駆けていく。まだ三万が後方に控えてはいるものの、戦にもちこんでいる二万を確実に叩くことができれば、孫堅軍の優位は絶対的なものとなるのである。
「よいか。斥候からの報告は途絶えさせるなよ。じきに、残った三万もでてくることになる。その動きに、気を配らせておけ」
華雄の部隊が攻撃に加わると、圧力が俄然高まっていった。一本調子な攻めではあったが、この場面においてはそれが効果的だった。おそれることなく突撃を繰り返す華雄に、劉表軍は確実に削り取られていったのである。孫堅だけでも手一杯だったところに、さらなる攻め手が現れたのである。なんとか戦場に踏みとどまっているだけでも、ましだと言えるくらいだった。
弱腰になった敵兵を追討ちに討ち、孫堅は大量の血を浴びていた。肌が燃えるように熱い。欲していた襄陽の地に、もうすぐ手が届くのである。気持ちの昂りを、おさえようとも思わなかった。
「後方にて、混乱が生じています。どうやら、偽降していた兵が混じっていたようで」
鉄の味のする唾を、孫堅は吐き出した。
降伏してきた兵を振り分ける際に確かめたはずだったが、これまでよく耐え忍んでいたものだと思う。後方が乱れれば、前線にまで影響がでてきかねないのである。周瑜ならばうまく対処するのだろうが、孫堅のなかでは一抹の不安がよぎっていた。
ここまで、戦がうまく運びすぎていたのではないか。そんな考えすら、浮かんできてしまう。敵には、奸智に長けた黄祖がいるのだ。勢いで呑み込んでいるつもりだったが、乗せられている可能性すらあるのではないか。
「策はどうしている。まだ、敵の背後を突けぬのか」
挟撃のかたちとなれば、眼のまえの戦には勝てる。体勢を立て直すのは、それからでも遅くないはずだった。
心なし、敵兵の抵抗が強まっているような気がしていた。何人斬られようと、必死の形相で立ち向かってくるのである。普通であれば、さらに気持ちが入るような場面だった。しかしいまは、心中の引っかかりばかりが気になっていた。
旗本がひとり近づいてくる。固くなった表情は、不安を宿しているようだった。
「殿、斥候よりの知らせです。左翼から、敵の新手が出現いたしました。黄忠によって、孫策さまの部隊は足止めをされているご様子」
「おもしろくない展開になってきやがったか。程普と陸遜を、左翼の援護に回らせろ。速攻で黄忠を叩き、中央の軍勢を包み込むぞ」
根比べに、負けるわけにはいかなかった。中央にいる数万にかける圧力は減ってしまうが、孫策が自由になれば戦況はずっとよくなるはずなのだ。生じた疑念を振り払うかのように、孫堅は南海覇王をふるい続けた。斬った敵兵は、すでに数え切れないほどである。血に塗れているのは、付き従っている旗本たちも同じだった。
前方。不意に、鬨の声があがった。雨のように、大量の矢が降り注がれる。敵も味方も、関係なしに射殺すつもりなのだろう。絶叫のなかでおこなわれる斉射を、孫堅はなんとか凌いでいた。
近くにいた旗本が、背中から地面に倒れ落ちる。孫堅は身構えたが、それでも反応がいくらか遅れていたのだ。腹のあたりに、焼けるような痛みがある。急所は外れているから、動くこと自体には問題はなかった。血。鮮やかな朱色が、地面にこぼれ落ちた。孫堅が苦悶の声をもらす。この戦場で流す、はじめての血だった。
「黄祖のババアだな。味方越しにオレたちを狙うとは、聞きしに勝る陰湿さじゃねえか」
「ふっ、なんとでも言うがよい。戦狂いの虎など、ここでわたしが討ち果たしてくれよう」
黄祖が弦を引き絞り、矢を放った。
傷を負っていなければ、造作もなく斬り落とせていたはずだ。しかし、身体がうまく言うことを聞いてくれないのである。光。矢じりが、光を放っているように見えた。こんな小さなものに、自分は呑み込まれてしまうというのか。奥歯を噛みしめ、孫堅は南海覇王をふるおうとしていた。
矢があたる。そう思った瞬間、視界がなにかにさえぎられた。意識は、まだ死んではいない。力をふり絞り、孫堅は横に動いた。
「生きているな、孫堅。貴様は、いずれわたしが打ち倒す。だから、それまではなにがあろうと死ぬな」
「ハハッ。おまえに負けるくらいなら、いっそ死んだほうがましかもしれんぞ。だが、よくやった」
視界をさえぎったのは、華雄の腕だった。腕から血を流しながら、華雄は笑っている。かなりの痛みがあるはずだが、戦による高揚がそれすらを覆っているのかもしれなかった。
黄祖が、次なる矢を番えている。
冷淡な表情のなかに、苛立ちのようなものが見え隠れしていた。勝負は、つぎの一手で決まる。転げ落ちていた弓を拾い上げると、孫堅は素早く引いて狙いをつけた。
「拾い物も、案外役に立つもんだな。黄祖。オレを討ちたければ、てめえの命と引き換えにやってみろ」
「ちっ、死にぞこないめ。これで終いだ、孫堅」
二本の矢が放たれる。孫堅と黄祖。ほとんど、同時に放っていた。矢羽が空気を振動させる。孫堅の放った矢が、黄祖の額に吸い込まれていった。
突き立った箇所から、鮮血が吹き出ている。周囲の兵が黄祖に駆け寄っているが、仕留めきったと孫堅は感じていた。
黄祖が死ねば、劉表軍は力はかなり落ちる。
変わりかけていた戦況も、これでまた元通りになっていくはずだった。黄祖の放った二の矢は、頬をかすめただけだった。孫堅には、はじめから避ける気などなかったのである。その分、狙いはぶれることなく定まっていた。魂を賭した一撃。それは見事に弧を描き、黄祖を葬ったのである。
「手をかせ、華雄」
「ああ、いいだろう。本陣までさがるか、孫堅」
「生きているうちは、前線にいるつもりだ。そうだ、雪蓮にさっさとオレの穴を埋めるように言っておけ。おまえひとりでは、中央を支えきれんだろう」
「みくびるなよ。たとえひとりになろうと、わたしは見事に闘ってみせよう。だから貴様のような怪我人は、邪魔にならぬよう後ろに引っ込んでいるんだな」
「チッ、なにを一丁前に」
華雄に脇を支えられ、孫堅は立ち上がった。残った旗本たちが、円陣を組んで守りを固めている。不本意だったが、いまはいくらか後ろにさがるべきだった。
流れる血。それが、足元にしたたっていた。思っていた以上に傷が深いのか、息が少し苦しかった。唾を吐き出す。口内に感じた血の味は、自分のものだったのか。
「孫堅? おい、聞いているのか、孫堅。黄祖め、まさかはじめの矢に毒でも仕込んでいたのか」
「ああ……? ったく、うるせえやつだな……」
身体が重い。足など、なにかにくくりつけられているようだった。それに、華雄の声が段々と遠くなっている。戦場の喧騒すらも、現実でないように感じられていた。
なんとなく、わかってきたことがある。
死。これが、死ぬということなのか。耳もとで、華雄がなにかを叫んでいる。その音は、滲むようにかき消されていった。
瞳のずっと奥のほう。孫堅には、そこで優しげな光が見えたような気がしていた。