曹操が賊軍を壊滅させたことにより、東郡には
荀彧ら文官の奔走の甲斐もあって、民政は落ち着いている。それにこれまでの流れから、住民のほとんどが曹操を支持するようになっていた。賊軍から奪ったものを含めて、糧食は充実してきている。いまの軍勢の規模であれば、三年は凌ぐことのできる量だった。
勝ちを収めたばかりではあったが、将軍たちには、気を緩めることなく調練に励むよう通達してあった。
青州黄巾軍。にわかに信じがたい数字ではあったが、総勢で百万を数えるほどなのだという。青州を食い荒らした黄巾軍が、外にでていくのは時間の問題だといえよう。現実に、州境では小競り合いが何度も起こっているとの報告を曹操は受けているのだ。青州黄巾軍に対して、袁紹はどう動くつもりなのか。ある意味、気にしても仕方がないことなのかもしれない、と曹操は思った。
冀州を中心として、袁紹は領土を拡げつつあった。その軍勢は、十万をゆうに超えているはずなのである。袁紹と比べると、曹操はまだずっと小さかった。東郡を足がかりとして、ようやく三万ほどの兵力を動かせるようになっているのだ。将兵の質では劣っていない自信があったが、力の差はまだ歴然だと言えるのだろう。
しかし、考え方を変えれば、また別のものが見えてくるようになった。飛躍のきっかけ。いまは、それが眼のまえに落ちているような状況であるのかもしれないのだ。
青州黄巾軍を自力で打ち破ることができれば、流れは一気に変化していくはずである。兗州は、まず間違いなく手に入れることができる。様子見をしている諸将も、それで帰順をしてくる可能性があるのである。
命を賭すような闘いにはなるが、やるだけの価値は確実にあると言えた。あとは、どこでどう動くのかだった。焦りは、禁物なのである。待つことは、苦手ではなかった。
しばらくすると、
「孫堅が、討たれました。前線にでていたところを、劉表麾下の黄祖に射られたそうです」
「死んだ? あの孫堅が、死んだというのか」
すぐには、紅波の言っていることを理解できなかった。まさか、という思いが強かったのである。
孫堅と劉表では、将としての資質がまるで違っていた。まともなやり方では、飢えた虎の軍をとめられるはずなどなかったのだ。孫堅は、天下を目指しひた走っていたのだと思う。運がなかった、と言ってしまうのは簡単なことだった。だが、孫堅が性急に動きすぎていた、というのもまた事実なのだろう。
それでも、曹操は孫堅の死を信じることができなかった。感傷的になるべきではない。ほんとうであれば、乱世を競う相手が減ったと喜ぶべきだった。だが、どうしてもそんな風には思えなかったのである。
曹操にとって、孫堅は特別な存在だった。いずれ、戦場で雌雄を決する日がくればいい、と考えていた相手でもあるのだ。そんな相手が、天下にあと何人残っているというのか。優れた軍人であると同時に、ある種の包容力を備えた女だった。その肌を焦がすような熱さを、曹操は知りすぎていたのかもしれない。
「黄祖とは、相討ちのような格好になったとうかがっております。拙者がその場に居合わせていれば、詳しく探りを入れることもできたのですが」
「よい。紅波、戻ってきたばかりではあるが、つぎは東に向かってもらうつもりだ。青州に巣食う黄巾軍の動きを、追ってこい」
「はっ、殿の御意のままに。それで、荊州に割いている間者はいかがいたしましょう。東に眼を向けるのであれば、数を減らすことも考えられましょうが」
「しばらくは、孫家に対する見張りをゆるめるな。弱みを突いて、袁術が出張ってくることも考えられる。あれは、そういう抜け目のなさだけはもっているのでな。それに、勘のようなものの類ではあるが、俺には孫堅が簡単に死するようには思えないのだよ。ちょっとした引っかかりのようなものだな。それが、頭の隅から消えてくれないのだ」
ひざまずいたまま、紅波が小さく頭を垂れた。
駄々をこねているようなことだとはわかっている。しかし、捨て置いていい予感だとは思えなかった。
「仰せの通りにいたします、殿。加えて、拙者の配下についてなのですが、めぼしい者の下に、何人かつけてやりたいと考えているのです。お聞き届け、願えるでしょうか」
「ははっ。紅波も、頭領としての振る舞いが板についてきたのかな」
「また、殿はそうやってご冗談を」
「別に、冗談を言っているわけではないのだがな。まあよい。間者に向きそうな人員の選定は、
照れくさそうに顔を背ける紅波の髪を、ゆっくりと撫でた。わずかに癖があるものの、指はするりと抜けていく。
心地よさそうに、紅波が吐息をもらしている。まるで、子犬のような仕草だった。そうしているうちに、気づいたことがある。安らぎを得ているのは、紅波だけではないのだろう。少しかさつきのある頬に、手を移していく。紅波は、まだ気持ちよさそうに瞳を閉じたままである。
窓の外。雄大に色づいた夕焼け空が、燃えるような髪色と重なって見えていた。
†
その日は、城下に商人が訪れることになっていた。
居室。曹操が政務をこなしていると、典韋が扉のふちから、遠慮がちに顔だけをのぞかせてきた。到着した商人が、準備ができたと報告にきたようなのである。普通ならば、曹操が直接足を運ぶような案件ではなかった。だが、今日だけは事情が違っていたのである。
仕事を切り上げると、曹操は居室をあとにした。目指しているのは、馬超が仮宿としている庁内の一室である。どこかの屋敷を借り上げてもよかったのだが、馬超はそれを嫌がった。将軍たちはもとより、曹操すらも屋敷を持とうとしていないのである。そんな中で、客将である自分だけが違う暮らしをするわけにはいかない、と馬超は曹操の勧めを固辞したのだった。
「お兄さま。どこかへ、おでかけですか?」
「うむ。前々から、
途中、出会った曹洪に、曹操は呼び止められていた。
約束とは言っても、そう堅苦しい種類のものではない。以前、馬超に話していたように、商人に軍馬を運んでこさせてあるのだった。
「むっ、翠さんとですの……?」
「ははっ。そんな顔をするな、
「ああ、それでしたの。だったら、わたくしも同行させていただいてもよろしいでしょうか、お兄さま」
「栄華が? べつに、俺はそれでもかまわないがな」
「ふふっ、ありがとうございます。だって、お兄さまたちにおまかせしてしまうと、値段を気にせずほしいと思ったものを買ってしまいそうなんですもの。曹家の金庫番としては、見逃すわけにはいきませんでしょう?」
「それは、もっともな理由なのかもしれぬな。ならば、参ろうか」
曹洪の手をとって、曹操は歩きだした。
男のものとはまるで違う、柔らかな手なのである。ちょっと戸惑いを見せていた曹洪だったが、やがて自分からも握り返すようになっていた。馬超の居室までという、ほんのわずかな距離。それでも、ふれあいを得るためには十分な距離だった。
指をほどいた曹洪が、部屋の外から馬超に声をかけている。同時に、扉にはすでに手が押し当てられていた。
「栄華です。入りますわよ、翠さん」
「はあっ!? ちょ、ちょっと、そんないきなりっ!?」
慌てた様子の馬超。それを意に介さず、曹洪は扉に体重をかけていく。
空いた扉の隙間から、曹操は部屋の内部をのぞき込んだ。茶色くて長い髪。それが、落ち着きなく右往左往してしまっている。馬超は、なにをそんなに慌てふためいているのか。それを確かめようと、曹操は少し視線の位置をずらした。
眼に飛び込んできたのは、馬超の真名にも通ずるような若草色の下着。服を着たままでも顕著だったが、直に見ると胸の大きさもなかなかのものだった。均整のとれた身体つきをしているだけあって、女らしくふくらんだ部分が余計に目立ってしまうのかもしれない。
「あらまあ」
「まあ、じゃねえよ!? それに、あたしは開けていいだなんて一言も……」
「それはそうかもしれませんが、お兄さまをお待たせするわけにはいきませんもの」
「へっ? か、一刀殿?」
馬超の瞳。心底驚いたかのように、大きく見開かれている。
「商人が到着したようだから、誘いにきたのだよ。しかし、もう少しゆるりと歩いてくるべきだったかな」
「うひゃあ!? い、いいから、こっちは見るなっての!? 栄華も、早く扉を閉めてくれ!」
耳をつんざくような
曹操に見られていることを知って、馬超の全身が急速に赤く染まっていく。腕を使って肌を隠しているつもりなのだろうが、豊満な乳肉が押しつぶされて、より強調されてしまっているのだ。無性に、情欲を刺激されてしまうような光景だった。これほどの器量をしているというのに、涼州では男と縁がなかったと聞いている。馬騰の娘であり、錦と称されるほどの武をもつ女。その先入観が、周囲に恐れを与えていたのかもしれない。
さすがに、ここまでにしておくべきか。そう思って、曹操は身体の向きを反転させた。曹洪が入室してから扉を閉じたのは、でかける準備を手伝うつもりなのだろう。
壁に背中をあずけ、曹操はふたりがでてくるのを待つことにした。そうしていると、壁の向こうがわからなにやら話し声が聞こえてきた。
「その気になったときには、いつでも相談に乗りますわよ? 翠さんなら、きっと可愛らしいお着物も似合いますもの」
「ううっ……。そんなの、絶対無理だってば。可愛らしい衣装なんて、がさつなあたしには似合いっこないんだから」
「あら、そんなことありませんのに。翠さんが着飾れば、お兄さまだってきっとお喜びになりますわよ?」
「んなっ!? か、一刀殿はちっとも関係ないだろう!?」
「ふうん、そうですの? まあ、いまはわたくしの思い違い、ということにしておきましょうか」
馬超は、自身の魅力に気づいていない節がある。鑓一筋に育ってきた、ということもあるのだろう。だが、せっかくこうして中原まで旅してきたのである。経験すべきことは、戦場のそとにも多くあるはずだった。
扉が開かれる。そこから、普段着を着用した馬超が姿をあらわした。右手。バツが悪そうに、あたまをかいている。
「あの……。待たせて悪かったよ、一刀殿」
「気にするようなことではない。だが、その埋め合わせとして、翠が可愛い衣装を着てくれるというのであれば、俺は大歓迎なのだがな」
「ちょっ、聞こえてたのかよっ!?」
「ふたりの声が、思っていたより大きかったのでな。なにも、聞こうとして聞いたわけではないのだよ」
「いいから、それは忘れてくれっての! ほ、ほら、早く行こうぜ、一刀殿。あんまり待たせると、馬たちがかわいそうだ」
話を強引に打ち切って、馬超が歩きはじめた。
かたくなな気持ちを変えるためには、やはりきっかけが必要なのだろう。その機会は、いずれ作ってやるつもりだった。馬超には、ほしいと思わせるような魅力があるのだ。軍人としても女としても、真っ直ぐなところを曹操は気に入っていたのである。
城外。五百頭ほどの馬が、急遽つくられた柵の内側に集められていた。商人は、烏丸とつながりがあると話していた。生涯を、馬とともに生きていく。そのような生活をしている烏丸だけに、良馬を多く保有しているのである。どこの牧場から仕入れてきたのかは知らないが、中原育ちの馬よりも気力を感じさせる眼をしている、と曹操は思っていた。
「うん、いいんじゃないか。この馬たちだったら、一刀殿の満足する走りをしてくれるはずだよ」
「そうか。ならばこのなかから、気に入った馬を百頭ほど選ぶといい。それで、おまえの騎馬隊を組織してみろ」
「へっ? あたしに、そこまでまかせてくれるのか?」
「俺は、翠がこれからも、曹操軍として闘ってくれると信じているのだよ。いくら優れた将であっても、信頼できる麾下がいなければ、その力を十分に発揮することは難しいものだ」
「あっ……、へへっ。あたしも、いまのところはそのつもりだよ。この軍には、強いやつも多いからさ。あたしも、負けないようにって毎日張り切れるんだ」
馬超には、馬家の長女としての立場がある。それがあるから、すぐには決断しにくい事柄もあるのだろう。
自分の場合は、そういったしがらみがなにもなかった、と曹操は思い返していた。だが、それは逆に、いつ足場を崩されても文句の言える状況ではなかった、ともとれるのである。
曹家の頭領。その地位だけを目指して、かつて曹操は闘い続けていたのだった。自分を脅かすような相手がいたわけではなかった。けれども、常に焦燥感をどこかに抱えていたのかもしれない。自分は何者で、なにを為すことができるのか。その問いは、あの頃からずっと心に留まり続けている。
「それにさ。あたし、思っていることがあるんだよ」
「ほう、それはなんだ?」
「ちょっと言葉にはしづらいことだけど、直感ってやつなのかな? 世の中を変えていけるのは、一刀殿のようなひとなんだって、そんな風に思えてしまうんだよ」
「それは、買いかぶり過ぎかもしれんぞ、翠。俺は、聖人君子であろうとは思わぬ。戦をすれば、ひとを殺す。歯向かう者も、容赦なく潰さねばならぬ」
「自分自身でそれがわかってるのなら、きっと平気だよ。それに、一刀殿はまわりの言葉をちゃんと聞くことができるだろ? もしものときは、ちゃんと誰かが制止してくれるってば。
「ふっ。俺も、できればそうありたいとは思っている。そのなかに、おまえも加わってくれればたのもしいのだがな、翠よ」
「あ、あたしがか!? い、いやいやっ、さすがに、それはまだ早いっての」
「返事は、すぐでなくともよい。おまえの心が定まったときに、こたえを聞かせてくれ」
「……うん、わかった。返事は、いつか絶対にするよ。それが、一刀殿の信頼に対する礼儀なんだと思う」
「そうしてくれ。ならば、もう少し馬を見てまわろうか。騎馬隊に使う馬もよいが、俺の乗馬がまだ見つかっていないのでな」
力強く、馬超が首を縦に振った。
商人は、とっておきの馬を連れてきていると言っていた。それを見に行くのは、最後までとっておいたのである。軍馬の値段交渉については、曹洪に一任してあった。その話し合いで忙しいのか、曹洪はいくらか遅れてついてきている。
「いかがでしょうか、曹操さま。わたくしも、この馬であれば必ずや気に入っていただけると存じているのですが」
曹操のまえに、一頭の馬が引き出されてきていた。
黒い体毛。艶のあるそれが、陽光に照らされて美しく輝きを放っている。体躯は堂々としていて、眼光の鋭さも申し分ないくらいだった。
「おっ、こいつなら問題ないんじゃないか。涼州でもなかなか見ないくらいの、立派な馬だと思うぜ」
「商人。この馬の名は、なんと申す」
曹操は、その馬のことをひと目で気に入ってしまっていた。手綱をとり、馬超が馬に言葉をかけている。涼州で生きる馬超にとって、馬は家族同然の存在なのだろう。近づいた曹操が、馬の身体をなでていく。商人は、自分が気にいることを確信していたのだと思う。鞍はすぐに用意され、いつでも乗れるような状態になった。
「絶影。その馬の名は絶影と申します、曹操さま」
影すら踏ませないことから、絶影はそう名づけられたようだった。
心のおもむくまま、その背にまたがった。気のせいなのだろうが、景色がいつもよりも広く、晴れ渡って見えている。騎乗した曹操の姿を、馬超はうなずきながら見つめていた。
「うむ、絶影か。これほどの名馬とは、なかなか出会うこともなかろう。絶影だけは、言い値で買ってやる」
「はあ……。そういうところは変わりませんわね、お兄さまは」
「ふっ。悪いが、これはすでに決めたことだ。少し、駆けてくる」
「もう。小さな子どものようなことを、おっしゃるのですから。けれども、お似合いですわね。絶影、お兄さまをたのみましたわよ」
たしなめるような曹洪の言葉。しかし、口調自体はやわらかなものだった。それも、すぐに聞こえなくなっていく。
絶影が、原野を軽々と駆けていく。風。身体の感覚が、吹き抜ける風と混じり合っていくようだった。
「まだいけるのだろう、絶影」
そう言うと、曹操は絶影の馬体を腿で締め上げていった。小さないななき。それと同時に、身体全体が加速していくような感覚があった。
夢中になって、曹操は絶影を駆けさせていた。確かに、こんな気分になったのは、子どものとき以来なのかもしれなかった。絶影は、思うがままに風を切っていく。
「一刀殿。あたしも、付き合うよ」
馬超の声。馬で、後ろから追ってきているようだった。
どこまで、突き放すことができるのか。絶影のもっている力のすべてを、知りたいと思った。腿を使って、さらに締め上げていく。絶影は、まだ速度をあげられるようだった。
曹操が、右手を突き出した。開いた五本の指の隙間から、陽光がもれている。どこまでも拡がっている天。その先まで、自分は必ず駆けてみせる。突き出された右手には、そんな誓いが込められていたのだった。