劉岱の軍勢は、すでに黄巾軍との戦闘を開始している。早ければ、決着まで二三日。あまり長い闘いにはならないだろう、と曹操は読んでいた。戦場には、間者を多数放ってある。その報告を逐一受けていれば、戦況の移り変わりを予測することは可能だった。
「一刀殿」
今回、軍師として従軍しているのは、郭嘉ひとりである。
普段から曹操の帷幕を支えている荀彧は、身重であるために候補から外れていた。本人は戦場にいきたがっていたのだが、おもだった将軍たち全員から反対されたのでは、抗戦のしようがないことを悟らざるを得なかったのだろう。母親のすすめもあって、荀彧はおとなしく留守居役となることを受け入れたのだった。
そして、鄄城の守軍を率いているのは、趙雲である。前線に集中するためにも、後方を乱されないことが肝心だった。そのためには、力のある将軍をひとりは残しておく必要があったのである。趙雲であれば、程昱との相性も問題ない。大軍と闘えないことを残念がっているのだろうが、趙雲はひとつふたつの功にこだわるような女ではなかった。
「徐州から、一刀殿に目通りを願う使者がきております。それも、知らない顔ではありません」
「ははっ、それはおもしろい。どこの誰が、州牧でもない俺に会いにきているのだ?」
「劉備麾下の、関羽です。劉備率いる軍勢も、どうやら後ろから進んできているようですね」
「なに、関羽だと? それは、無視するわけにはいかんな。あの者と会うのも、董卓と闘って以来か」
「あまり、下心をお見せにならないほうがよろしいかと。一刀殿が、関羽に興味をもたれていることは存じておりますが、いまはそれどころではありませぬゆえ」
「段々と、
「御意。では、関羽をこちらに連れてまいります。それと、いい機会ですので、兵たちに食事をとらせておこうかと。一刀殿も、あとでなにか口にしておいてくださいますか」
「ああ、軍師殿のお指図にしたがおう」
小休止していた曹操軍の陣営から、炊煙がいくつも立ち上っていく。
十人ほどの護衛を引き連れた関羽が曹操のまえに姿を現したのは、それからすぐのことだった。勇壮な軍装姿である。青龍偃月刀を典韋にあずけると、関羽は曹操に対し、拱手をしながら頭をさげた。
「お久しゅうございます、曹操殿」
「壮健そうでなによりだ、関羽殿。あれから、劉備殿はどうされていたのだ。なんでも、いまは徐州にいるそうだが」
「はっ。連合軍を離れてから長く、われらは各地を放浪しておりました。役職を得たこともあったのですが、劉備さまの理想にはほど遠く、長続きはしませんでした」
関羽の話している内容については、大雑把にだが知っていた。
連合軍にいたときの劉備は、公孫賛の客将に過ぎなかった。しかし小さいながらに軍勢はよくまとまっており、その麾下には関羽と張飛というふたりの豪傑がいたのだった。
多くの間者を割り当てているわけではなかったが、劉備の行方を曹操は探らせていたのである。それにはもちろん、劉備がどのような影響を、周囲に与えるのかが気になっていたという理由がある。けれども、本心を言うとちょっと違っているのかもしれない。関羽の存在。曹操がもっとも気にしているのは、やはりそこだった。
「貴殿らも、苦労を重ねているようだな。それで、此度はいかがしたのだ。俺はてっきり、徐州は黄巾軍と戦をするつもりがない、と思っていたのだが」
「むっ……。なにやら、棘のあるお言葉のようですが」
「陶謙のジジイのやりかたを、俺はあまり好いてはおらんのだよ。今回も、太平道の者どもに、うまく鼻薬を嗅がせたようだな」
「ふっ。その歯に衣着せぬ物言い、さすがは曹操殿ですね。本音を言ってしまえば、劉備さまもその対応については、苦々しく思われているのです。自分たちだけ助かることが、本当に正しいのか。そのことを、あの方は常々お悩みになっている。しかし陶謙殿は、放浪していた劉備軍を拾ってくだされた恩人なのです。なので、表立って異議を申し立てるのも、はばかられているのが現状でして」
これまで、紆余曲折あったに違いない。関羽が、苦々しく言葉を切った。
陶謙は、おのれの利権を守るためであれば、感覚が鋭敏に働くようだった。小規模であってもかなりの働きを期待できる劉備軍を手中にできたのは、僥倖だと言っていいはずだ。
「読めてきたぞ。黄巾軍と取り引きをしている陶謙は、麾下の軍団を動かすわけにはいかぬ。そこで、劉備軍に白羽の矢が立ったのだな。ジジイめ、これで兗州に恩を売ったつもりになるか。自分のふところを痛めずに二兎を得ようとするとは、まったく目端の効く年寄りではないか」
「心苦しくはありますが、これでもなにもしないよりは、いくらかマシなはずです。なにとぞ、われらを黄巾軍との戦に加えていただけませんか、曹操殿。それが、劉備さまの願いでもあるのです」
「いいだろう、関羽殿。貴殿らの武威が味方となれば、俺にとっても心強いものだ」
「参陣をお許しいただきありがとうございます、曹操殿。わが主君も、きっとお喜びになられるでしょう」
幾分か晴れやかになった表情を、関羽は見せている。
世の中を平和で満たしたい。劉備の願いは、ただそれだけのようだった。平和な世。言葉にするのは簡単だが、それを導くためには大きな覚悟が必要なのだろう。乱れきったこの国は、次代を築くことのできる覇者を必要としているはずだ。そして、覇者となるまでには、多量の血を流さなくてはならないのだろう。
理想との矛盾を抱えた戦を、劉備がどこまでやりきることができるのか。化ければ、おもしろい存在になるのかもしれない。劉備の包み込むような笑顔を思い起こしながら、曹操はそう思ったのである。
「やっ。あんたが、関羽殿か?」
「うむ、そのとおりだ。曹操殿、こちらは?」
武人としての関羽の噂を、陣内で聞きつけてきたのかもしれない。やってきた馬超からは、かすかに闘気のようなものが感じられている。
「この者の名は、馬超という。涼州仕込みの鑓の腕はなかなかのものだぞ、関羽殿」
「ほう、それは気になりますな。されど、あれから曹操殿は大きくなられたものだ。部隊を率いる将軍の顔ぶれも、ますます充実してきているのではありませんか?」
軍をあずかる人間として、率直な感想を述べたのだろう。確固とした領地をもたない劉備軍では、多数の兵を養うことなどまず不可能なのである。
それでも、三千人程度が集まっているのは、劉備の人徳によるものなのか。曹操としても、興味がつきなかった。
「関羽殿。将軍の端くれみたいなものかもしれないけど、あたしはここで客将としてやらせてもらっているんだ。わがままを聞いてくれる曹操殿には、感謝しているよ」
「ああ、そうでしたか。しかし、涼州出身で馬姓といえば、貴殿はもしや馬騰殿の?」
「あはは……。まあ、一応そうなるかな。あたしなりに、いろいろと理由があってさ」
居心地が悪そうに、馬超が指で頬をかいている。
飛び出してきたといっても、家のことが気にならないわけではないのである。それは、あたりまえの感覚だった。将来馬超が気持ちをかためた場合には、自分から話を通してやるべきなのだろう。そういうことも、曹操は考えている。それですんなりといくかどうかは、また別の話だった。
「家出娘なのだよ、馬超は。ふらついているところを、俺という悪い男につかまってしまったのだ」
「ふふっ。ご自身で、それを言ってしまわれるのですか? 相変わらず、変わった御仁だ」
「麾下のなかに、口やかましい者が何人かいるのだよ。そのせいで、俺も気持ちがまいってしまっているのかもしれないな」
「ご冗談を。そのように楽しげな口ぶりで話されたのでは、説得力がありませんよ」
関羽の凛々しい横顔が、徐々に柔らかく変化していっている。
複雑そうな顔で話を聞いていた馬超も、釣られて笑いだしていた。この場に荀彧がいれば、緊張感にかけている、とたぶん怒りだしているのだと思う。そのくらい、なごやかな雰囲気で曹操たちは語り合っていたのだ。
「では、わたしは曹操殿のご意向を、劉備さまに伝えてまいります。こちらは少数ですので、すぐに追いつくものと考えていてくだされば」
そう言い残して、関羽は護衛とともに去っていった。
小休止を終えて、曹操軍が再度動きだしている。最後方には楽進がつき、遅れそうな兵を叱咤してまわっていた。
絶影の背で、曹操は心地のいい風を感じていた。気分は悪くない。少し眼を閉じれば、関羽の凛麗な黒髪が、鮮烈に浮かんでくるのである。夏侯淵が、近くに馬をよせてくる。劉備軍のことで、言いたいことがあるようだった。
「陶謙は、劉備にわれらを援護するように指示したのでしょうか。普通であれば、劉岱を助けにいきそうなものですが」
「さて、な。夢想家のようでいて、劉備は案外現実が見えているのかもしれぬ。劉岱に見切りをつけて、われらに助力することを決めたのであれば、よほど見どころがあると思うがな。どうだ、
「わたしも、そのように思います。ですが、よろしいのですか、殿。黄巾軍を打倒したのち、曹操軍は徐州を目指すことにもなりましょう。そのとき、劉備はかなり厄介な存在になるのではありませんか」
「それは、いま気にするべきことではない。それに、劉備が闘うに値する人物なのであれば、なおさら小手先の手段で解決すべきではないはずだ」
「覇者の道をいくと決めたのであれば、それ相応の振る舞いをしなければならない、ということでしょうか」
「そうだ、秋蘭。姑息な手段で得た力を、いったい誰が認めようか。英傑の素質ある者を、戦場で破り屈服させる。そうした道のさきに、覇者としての座があるのだ、と俺は信じているのだよ」
「ならば、わたしは殿のご意思に従うまでです。このさき劉備が殿のまえに立ちはだかったときには、わが弓をもって打ち払いましょう」
「それでいい。まずは、兗州を守り抜くことだけを考えていろ」
得心がいったようにうなずき、夏侯淵がそばから離れていく。
遊撃部隊としてうまく使えば、劉備軍は力を発揮してくれるはずだ。面と面でまともにぶつかったのでは、敵軍の数を考えると分が悪かった。
呼んであった郭嘉の姿が見える。劉備軍の合流に際して、即席の軍議をするつもりだったのだ。馬蹄の音。それが猛々しく、周囲をおおっている。
「ご報告があります、一刀殿。長安の董卓が、死去いたしました。詳細は追っての報告となりましょうが、巷には呂布に斬られたという風聞が出回っているようです」
郭嘉が、小さな声でそう告げた。
董卓の具合がよくないことは知っていたが、まさかとも思えるような最期の迎えかただった。かすかに震えるまぶた。なるべく表情を変えないようにしていたつもりだったが、曹操としても驚きが大きかったのである。董卓との因縁。思えば、浅いものではなかったのではないか。あのとき帝の争奪に敗れていなければ、曹操はまったく違った道を歩んでいたのかもしれないのである。
「呂布が董卓を? それは、なにか裏がありそうな気がしてならんな。董卓に対する呂布の慕いようは、かなりのものだった。さほど付き合いのない俺ですら、そう思えたのだ。しかし、いずれにせよ董卓は終わりだな。あれの配下には、野心の強い者が何人かいると聞いている。しばらく、長安は荒れるぞ」
曹操の発言に、郭嘉がうなずいてみせた。
空高く浮かんだ分厚い雲。それが、ざわめきぶつかりあっているように見えている。またひとり、乱世から群雄が消えていったのか。だがそれは、新たな時代のはじまるきっかけともなるのだろう。
どこまでも闘い抜き、勝ち残るのは自分だ。手綱を強く握り、曹操は気持ちを奮い立たせていた。視線の先にある雲間。そこから、わずかに光がもれでているような感覚があった。