長安は、不穏な空気につつまれていた。
ここ最近、董卓が姿を見せなくなっている。得てしまった病が、かなり重いのではないか。廷臣だけでなく、民草までもがそう噂するようになる始末だった。その強引さが非難の的となることはあっても、朝廷の政治を取り仕切っているのは、やはり董卓なのである。董卓不在の煽りを食って、各所に滞りが生じはじめていた。治水や街道の整備。それら生活に欠かせないものの整備は、まだ計画半ばなのである。
さまざまな風聞が飛び交うなか、呂布はこの日も市街地を巡察してまわっていた。自分は、董卓のためになにをしてやれるのか。赤兎に騎乗しながら、呂布はくる日もそのことを考え続けていた。
「ねね。
呂布のまわりは、直属の騎馬兵がかためている。全員が油断なく武装しており、なにかあればすぐに対応できる、といった格好だった。
長安の民衆にとって、深紅の呂布軍団は畏怖すべき対象だった。その中心にいる呂布がまさか弱音を吐いているとは、だれも想像していないことだろう。
疑問を投げかけられた陳宮は、難しい顔をしたまま黙り込んでしまっている。あの華佗でさえ、いい方法を見つけられないでいるのである。医術の心得のない陳宮が悩んでしまうのは、当然のことだった。
「むむむ。これは、かなりの難題ですな。ねねだって、月殿には元気になってもらいたいのです。ですが、ううむ……」
「
ここにきて、賈駆は気持ちが折れかかっているのかもしれない。文官としての能力があり、生真面目さも董卓麾下のうちでは随一なのである。その賈駆が、仕事を後回しにしてしまっているのだ。動揺と心労。そのふたつに苛まれていることは、確実だった。
賈駆と董卓は幼い頃からの友人で、つねに苦楽を共にしてきた仲なのである。個人的な野心はなく、ただ董卓の望みを叶えてやりたいという一心で尽くしてきたのが、賈駆なのである。それだけに、いまの董卓の状態を見るのは辛いものがあるのだろう。賈駆は呂布とおなじか、それ以上に心を痛めているのだった。
「いっそのこと、月殿がすべてを捨て去ればあるいは……? いえ、このような案、考えるだけ無駄なのですが」
「……すべてを、捨てる。そうすれば、月は楽になれる……?」
「あ、あまり本気にされないでください、恋殿。ただ、月殿はかねてからのように、ご自身でなにもかもを背負い込もうとされるお方でしょう? それが、ずっしりと重しとなって、お心にのしかかっているとねねには思えてならないのです」
「……んっ。今晩、詠に会ってこようと思う。詠まで病気になったら、みんなどうしていいかわからなくなる。霞も、それを心配してた」
「ぜひ、そうしてあげてくだされ、恋殿。ねねも、もっといい方法がないか探ってみるつもりです。長安には、たくさん医者もおりますから。話を聞いてまわれば、いい案が浮かんでくるかもしれません。いまは、われらにとって正念場なのです。連合軍を離れた諸侯は、勝手気ままに動きはじめており、各地で戦が起ころうとしているのです。月殿がお元気になられれば、反抗的な者どもを鎮圧してまわることも可能なのでしょう。なんといっても、董卓軍には無敵の呂布将軍がおられるのですから」
「……そんなに褒められると、ちょっと照れる」
「謙遜される必要などありませんぞ、恋殿。ねねは、ただ真実を述べただけなのですから。ですから、恋殿はびしっと胸を張っていてくだされ。それで、みな安心できるのですから」
「わかった、そうしてみる」
陳宮は無駄な考えだと吐き捨てたが、呂布はそう思ってはいなかった。
董卓のために、どうするべきなのか。それが、ある程度見えてきたような気がしているのだ。賈駆には、この湧きでた気持ちを伝えるつもりだった。なにを優先し、なにを諦めるのか。直感的に、そうするほかない、と呂布は悟っていたのである。
†
賈駆の邸宅は、質素そのものだった。
日中だけでなく、夜間も職務のために宮殿につめていることが、ほとんどなのである。それに、贅沢品の類を置くことは、あえて避けているようでもあった。董卓は、周囲に無理を強いている。その配下である自分たちが、いい暮らしをするわけにはいかない、という思いが強いのだろう。
赤兎馬をつなぎ、呂布は邸内に足を踏み入れていった。侍女に声をかける。すると、賈駆がすぐに姿をあらわした。やつれている。暗がりであってもそう感じてしまうくらい、賈駆は覇気を失っていた。
「詠、身体は平気?」
「そんなの、平気に決まってるでしょ。月のためにも、いまはボクが頑張るしかないんだ。辛いなんて言っていられない。月がこうなってしまった責任は、ボクにだってあるんだから」
董卓が求めるままに、自分たちは闘ってきた。涼州の片田舎を飛び出し、洛陽に上った。すべては、腐りきった朝廷を立て直すためだった。
それが間違っていたとは、賈駆も考えてはいないはずだ。腐敗した役人や、権勢にたかる宦官。それらは、いずれ排除される定めにあったのである。その役目をたまたま引き受けたのが、董卓だったのだ。
生き急いでいる。呂布の眼に、董卓の生きざまはそんな風に映っていた。おのれの身がどうなろうと、体制の刷新を成し遂げる。董卓が考えていたのは、それだけだった。またかつてのように、笑い合える日はやってくるのか。あの日、肉まんにかぶりつきながら、董卓は笑っていた。後に敵対することになった、曹操の買ってくれた肉まんなのである。おかしなめぐり合わせもある。そう言って、董卓は涼州にいた頃のように微笑んでいたのである。中身を怪しみながらも、あのときは賈駆も一緒になって楽しんでいた。
「……月のことで、詠に話がある。とっても、大事なこと」
「恋? わかった、奥にいこうか。あんたがくると思って、食べるものも用意してあるんだから」
ちょっとだけ、心が揺れ動きそうになる。
けれども、今夜は董卓に関することを、伝えにきたのである。こらえ性のない腹のあたり。そこを弱い力で小突きながら、呂布は賈駆のあとに続いた。
「それで、なんだっていうのよ。そもそも、恋がこんな夜更けに訪ねてくること自体が珍しいんだけどね。使者がきたときは、ボクびっくりしちゃったよ」
卓につくと、賈駆はそう言って笑みを浮かべた。
普段と変わらない仕草。それがこんなにも遠いものになるとは、考えてもみなかったことだ。
「……ン。恋、いっぱい考えた。月がどうすれば元気になれるのか、いっぱい、いっぱい考えた」
辛さは、もう腹いっぱい味わってきたはずだ。国のためにできることを、董卓はもう十分やってきた。あとは、ほかのだれかに任せたっていい。そのくらいの甘えは許されてもいいだろう、と呂布は思うのである。
日々問答するなかで、ひとつ浮かんできた考えがある。董卓という器が、月を苦しめているのではないか。自分勝手な思考なのかもしれない。けれども、董卓であり続けるかぎり、月は茨の道を進むのだろう。
風聞飛び交うなかで、嫌な噂を耳にすることだってある。野心ある将軍や反抗的な廷臣が、董卓の暗殺を狙っている。このままでは、それが現実になる可能性すらあるのだ。ならば、その万が一が起きるまえに、自分はなにをするべきなのか。陳宮の言葉を聞いて、呂布はついに決心がかたまったのである。
「恋にできるのは、殺すことだけ。いままで、月の敵をたくさん殺してきた。今度も、それをする」
「殺すですって? 恋、あんたなにを……」
月を生かすためには、董卓を殺すしかない。それが、呂布のたどり着いた答えだった。
いまの状態を続けていたのでは、いずれ月は病に飲み込まれる。そんな終わり方だけは、させたくないと思ったのだ。そのためには、賈駆の協力が必要不可欠だった。自分ひとりでは、成し遂げることのできない願い。それがあるということを、呂布は知っている。
「協力してほしい、詠。恋は、董卓を討ちたい。月が元気になるためには、それしかないと思うから」
さすがに、話の内容を瞬時に受け入れることは難しかったのだろう。賈駆はまばたきすることすら忘れて、じっと呂布の顔を見つめていた。
動じることはなかった。これしかない、と心に決めていたからだ。それでも、胸にはわずかな痛みがある。董卓を討つ。いざ言葉にしてみると、想像以上の重みがあった。賈駆に拒絶されてしまえば、この企ては失敗に終わる。打ち明けたのは、確信があったからだった。
董卓の苦しみを、賈駆はもっともそばで見てきている。表面化していない頃は、まだよかった。床に伏せるようになってからは、想いを交わすことも容易ではなくなっていた。
「そっか……。本気、なのよね?」
「それしか、思いつかなかった。お願い、詠」
どうしていいかわからず、頭をさげてみた。卓の天板。それだけが、こちらを見返している。
「うん。わかった、わかったわよ。あの純真な恋が、ここまでするんだもの。ボクだって、どうにかしなきゃとは思ってた。だけど、最後のところで、踏ん切りがつけられなかったんだろうね。月と一緒に、ここまでくることができた。それだけで十分なはずなのに、まだいけるって思ってしまっていたのかも」
「詠、だったら?」
「ボクは、恋に力を貸すよ。月の親友として、きっとやるべきことがあるんだ」
卓のうえに置いていた手に、賈駆の手が重なっている。温かかった。ひとは、この温もりなしには、生きられないのである。
決意に満ちた瞳。視線をあわせると、賈駆は力強くうなずいてみせた。これで、あとは決行に移すのみとなった。賈駆の賛同を知れば、張遼が反対にまわることはないはずだった。余計な協力者など不要なのである。麾下の騎馬隊さえ手もとにあれば、董卓を討ったあとはどうにでもなる、と呂布は考えていた。
静まり返っていた居室に、響く音があった。抑え込んでいたはずの、腹の虫。それが、盛大に鳴りはじめたのである。
「……ン。ほっとしたら、お腹が空いてきた。ご飯、食べてもいい?」
「くくっ、あははっ。いいわよ、好きなだけ食べてくれれば。もともと、恋のために用意したものなんだから」
「うん。それじゃ、いただきます。むぐっ、んむっ……。詠は、一緒に食べない?」
「ええっ、ボクも食べるの? けど、いいのかしら。ふたりで食べると、あんたのぶんが減るわよ?」
「……ちょっとは我慢できるから、平気。それよりも、一緒に食べるほうが楽しいから」
「ふふっ、そうかもね。だったら、遠慮なくいかせてもらうわよ」
賈駆の声に、張りがもどっている。
董卓とも、早くこんな風に食事をできるようになればいい、と呂布は思う。以前は、それがあたりまえのことだったのだ。その夢は、きっともうすぐ叶う。幸せな重みを腹に感じながら、呂布はそう信じて疑わなかった。
†
早朝。多くの者が、まだ眠りについている時間帯だった。その静けさを打ち破るかのように、太鼓の音が長安の市街地に響いている。
軍の招集。太鼓の音は、それを知らせるためのものだった。李傕や郭汜といった将軍たちが、麾下の兵を叩き起こしてまわっているのである。宮殿で、変事が発生したためだった。
「恋、あんたは先にいき。まとわりついてくるやつらをぶっ潰したら、ウチもそっちに合流するわ」
「いいの、
「そんなもん、気にすることやあらへん。それよか、あんたはしっかり月っち守ったり。騎馬隊、半分連れていくで」
「わかった、霞。あとで、絶対もどってきて」
「ったりまえやろ。それとも恋は、あんなボンクラどもに、ウチが遅れをとるとでも思うんか?」
「それはない。霞は、とっても強いから」
「せやろ? ほんじゃ、またあとでな!」
そう言い残すと、張遼は二百五十の騎兵を連れ、きびすを返していった。神速の用兵は、ここでも発揮されている。土煙が消えるよりも早く、張遼は駆け抜けていった。追撃にでてくる軍勢は、五千ほどか。いきなりの出撃命令で、準備はまともに整っていないはずである。張遼であれば、余力をもって追い返すことのできる人数だった。
日が昇ったのと同時に、呂布は麾下を従えて、宮殿に踏み込んだ。最強の矛をとめられる者など、どこにもいない。突き進んだ呂布は、勢いのまま董卓を血祭りにあげた。首のない亡骸は、いまも宮殿前に捨て置かれたままなのだろう。李傕たちが欲しているのは、董卓の仇を討った、という名目だけだった。
呂布が注目を集めているあいだに、賈駆は董卓を密かに連れ出していた。殺されたのは、罪を犯して投獄されていた女だった。
「恋。どこかに、行くあてはあるの?」
賈駆の問いに、呂布は首を横に振ってこたえた。だろうね、と賈駆が笑う。陳宮にも、いい考えはないようだった。
なんの目的がなくとも、東へ向かってみるつもりだった。かつて故郷をでたときも、そうしてきたのである。あのときは、そのおかげで董卓と出会うことができた。だから、今回も東に行ってみようと思ったのである。
「月」
真名を呼んでみる。董卓は、もうこの世にはいない。かの暴君は、自分がこの手で葬ってきたのである。だから、ここにいるのはただの月だけだった。
かすかな寝息。呂布の腕のなかで、小さな身体がちょっと動いている。昨夜、賈駆が脱出のことを考えて、華佗に鍼を頼んでおいたのである。華佗の鍼の効果は高く、よく眠れないときにうってもらうことがあったようだ。治療のあとはすぐに眠気がやってきて、泥のように眠れるのだという。日によっては昼まで起きないこともあるそうだから、月はしばらくこのままでいるはずだった。
目覚めたとき、月は自分たちのしたことを、非難するのだろうか。考えてみたが、それだけはないな、と呂布は手綱を握りなおした。あるとすれば、悲しむことくらいか。おのれのために、友人たちに無理をさせてしまった。そうやって、泣くことはあるのかもしれない。志を最後まで成し遂げられなかったことも、悔やみとはなるのか。
けれども、自分たちは踏み出したのである。あと戻りなど、してなるものかと呂布は思っていた。
長安が、少しずつ遠ざかっていく。振り返ることはしなかった。道が見える。この先にあるのは、まっさらな道だけだった。赤兎が、そこを颯爽と駆けていく。心を晴れやかにしてくれる風。それを全身で受けながら、呂布はまっすぐに前だけを見つめていた。