劉備軍と合流した曹操は、東に向けて移動を続けていた。
道中、黄巾軍の別働隊と、何度か小競り合いを繰り広げている。大した練度ではなかったから、予想通り精鋭は本隊に付随しているのだろう。しかし、いくら弱兵であっても、これがまとまりになれば脅威となる。
老人だけでなく、女子供まで黄巾軍に参加しているのだ。兵糧の工面に難儀していることは間違いなかったが、それでも百万という数には圧倒されるものがあった。
小さな戦を重ねているうちに、劉備軍との息もそろってきている。夏侯惇が歩兵で正面切って闘っているあいだに、裏に回った関羽が騎馬で奇襲をかける。この日も、それで一万くらいの敵を破ったばかりだった。
こうした駆け引きが、本隊との戦においても重要になってくる、と曹操は考えていた。だから、麾下の将兵には、常にそこを意識して闘うように命じてあった。
「劉備軍の活躍を、逐一徐州の民に知らせてやろう。
「はっ? われらではなく、劉備軍の武功を知らせるのですか?」
「考えてもみろ、
「なるほど。徐州の民は、劉備に心を寄せることになりましょう。となれば、徐州内にいびつな関係ができあがる、というわけですか」
「陶謙のジジイに、甘い汁など吸わせてやるものか。もともと小さかったやつの人望は、自らの立ち回りによって完全に潰えることとなるのだ。なかなか、面白き試みであろう」
内々の軍議で、曹操が取り決めたことだった。
劉備軍が活躍すればするほど、陶謙の足もとが崩れていくことになるのだ。ある意味、これ以上ない意趣返しだといえよう。陶謙は、自らの打った手で自滅することになるのである。
劉岱敗走の報が届いたのは、四日後のことだった。寄せ集めの軍隊では、黄巾軍に傷をつけることはできなかった。突撃を敢行した劉岱は死に、配下の兵は逃げ散っているのだという。
「さっき、郭嘉さんから聞きました。劉岱さん、敗けてしまわれたんですね。敵軍は、百万もいるんでしたっけ? 正直、想像すらつきません」
「弱音を吐いても、どうにもならぬ。厳しい戦となることは、劉備殿も覚悟していたのではないか。しかし、どうしてわれらの方につくつもりになったのだ? こちらではなく、劉岱殿のところへ向かう道もあったはずだ。それだけが、少し気になっていてな」
夜。野営地で火を囲むかたわら、曹操は劉備に問いかけた。揺らめく炎。投げ込まれた枝が、乾いた音を鳴らしながら弾けた。
優しげで、ともすればぼんやりしている、と言われてもおかしくない顔つきをしている。豊満な乳房。それは、劉備の備えた母性のあらわれなのだろうか。
普段であれば、関羽か張飛のどちらかが、劉備には張りついているはずだった。その姿が、いまはない。どこかで飯を食っているだけなのかもしれないが、自分のことをそれなりに信頼してくれるようになったということなのか。
視線を外そうとしない曹操だったが、劉備のほうが先に目をそらしてしまう。
同姓である劉岱を見殺しにしたことに、罪悪感を抱いていていてもおかしくはないのだ。現実は見えていても、追いかけたい理想がある。そうした狭間で気持ちが揺れていても、不思議ではなかった。
劉岱軍の敗残兵を、なるべく吸収してしまいたい、と曹操は思っていた。すべてが使いものになるわけではないだろうが、それでもいまは一兵でも多く欲しい状況なのである。
加えて、紅波に命じて戦地に曹操出陣の情報を流布してあった。それをきっかけとして、先行させてある曹純が、闘う意思のある者を砦まで連れてくる手はずとなっていた。
「実は、わたしもずっと悩んでいたんです。そのことについて、陶謙さまは特になにも言及されませんでした。ただ、兗州に手を貸したいなら好きにしろ、って」
「その素直さは、貴殿の美徳だな、劉備殿。それで、なにかきっかけでもあったのか」
「きっかけというか、助言をもらったというほうが近いのかも? 兗州に入るまえ、わたしたちは豫州を通ってきたんですけど、そこで陳珪さんに話を聞いてもらったんです」
「陳珪殿に? しばらく会えていないが、元気にされているようだな」
「はい、それはもう。あっ、そうだ! 陳珪さんが、機会があればまた会いたい、っておっしゃっていましたよ。ごめんなさい、伝えるのが遅れてしまって」
「ははっ。合流してから、われらは戦さ続きだったのだ。そのくらいのことは、陳珪殿も大目に見てくれよう」
照れくさそうに、劉備が笑顔を見せている。
以前から結んである陳珪との誼は、豫州切り取りにおいて効力を発揮するはずだった。孫家を麾下に置いた袁術が、豫州に対し色気をだしてくることも考えられる。そのあたりの動向にも、注視していく必要があるのだろう。
「ええっと、それでですね。陳珪さんはもちろんなんですけど、食客になっている女の子がいたんですけど……」
「ほう。その客分からの助言が、劉備殿の決断に影響を与えたとでも言うのか? それは、なおさら興味深いな」
「えへへっ、でしょう? その子の名前は、諸葛亮ちゃんっていうんです。ご存知ですか、曹操さん?」
「諸葛亮だと? 会ったのか、あの子と」
劉備の口からでてきたその名に、曹操は一瞬だけ言葉をつまらせてしまう。
諸葛亮との別れは、晴れやかなものではなかった。
自分のもとから才ある者が旅立っていくのを、見送ることしかできなかったのである。それに、小さな妹ができたように思えて、短い期間ではあったがかわいがったという思いもある。別れをもっとも悲しんでいたのは、曹洪なのだろう。旅の資金として、自分の懐から金子を用立ててやっていたくらいなのである。諸葛亮も、曹洪の好意には感謝しきりだった。
ああやって反目し合うことさえなければ、いまごろは自軍の帷幕に加わっていたはずなのだ。
その諸葛亮が、よもや陳珪の世話になっていたのである。
あの才智の行きつく先が、どこになるのか。それが気になるのは、当然のことだった。劉備は食客だと言っていたから、本格的に仕えているわけではないのだろう。これまでは控えていたが、今後は行方を追うべきなのかもしれない、と曹操は思い直しかけていた。
「やっぱり、ご存知なんですね。だけど諸葛亮ちゃんも、わたしと話をしているあいだ、いまの曹操さんみたいに難しい顔をしていましたよ。深くは聞かなかったですけど、なんだか訳ありみたいですね」
「賊に捕らわれていた諸葛亮を、救ったことがある。そうした経緯があって、数日ともに暮らしていたのだよ。ただ、それだけのことだ」
「あはは……。そういうところも、同じなんですね。諸葛亮ちゃんは、迷っていたわたしに助言してくれたんです。劉岱さんの救援に向かえば、筋を通すことはできる。わたしの大義名分も、それで果たすことができますからね。けれど、それだけだって諸葛亮ちゃんは言ったんです。そんな風にくだした決断からは、なにも生まれない。兗州を真に救いたいのであれば、曹操さまに力を貸すべきだって、断言してくれたんです。その言葉のおかげで、わたしは曹操さんのところに来ることができました。ほんとうは、わかっていたんです。劉岱さんの権限は、表向きのものでしかなくなっていました。そんなものじゃ、だれも助けることなんてできないって。はあ……。乱世なんて、早く終わってしまえばいいのに」
深い嘆息。最後にでた言葉こそが、劉備の本心に違いなかった。
劉備に助言したとき、諸葛亮の心境はどのようなものだったのだろうか。夜空を見上げながら、曹操はそのことを考えていた。
国の安寧を目指しているのは、どちらも同じなのだ。ただし、その方向性にいささかずれがあった。それでも、諸葛亮は自分のことを評価してくれてはいるらしい。
乱世が続くかぎり、このような苦慮は終わらないのである。諸葛亮は、そのことに気づくべきだった。もしくは、迷いが生じかけているのかもしれない。
董卓の死。
それによって、朝廷の混乱は歯止めがきかなくなっていくことだろう。董卓からは、志すものがあったように感じられた。凄惨をきわめたような手法だったが、腐った血がそれでいくらか絞り出されたのである。遺臣たちに、その覚悟を継承する気持ちはあるのか。どだい無理なことだろうな、と曹操は火を眺めながら思っていた。
「今回の戦は、その一歩になるのかもしれないな。しかし、あの諸葛亮が俺に味方することを勧めるとは。すっかり嫌われてしまっているものだと、思い込んでいたのだよ」
「諸葛亮ちゃんも、複雑そうでした。でも、ちょっといいな、って感じてしまう部分があるんです。お二人のあいだに何があったのかは知りませんけど、心の底に残ったつながりは、ずっと消えないままでいる。わたしには、そんな風に思えてならないんです。そういうのって、なんだか素敵じゃありませんか?」
「……ン、劉備殿?」
隣に立った劉備に、気づけば手をつかまれてしまっていた。
やわらかな手のひら。慈愛に満ちた温もりとは、このことを言うのかもしれない。心の隙間。そういった類のものを、自分は晒してしまっていたのだろうか。劉備は、穏やかにほほえんでいるだけだった。
狙いすましたうえでは、することのできない振る舞いだった。劉備の強み。その一端を、垣間見たような気分に曹操はなっていた。
「申しわけありません、劉備さま。御身をおひとりにさせてしまうとは、不覚でした。張飛に護衛をたのんでおいたのですが、あやつめ一体どこをほっつき歩いているのやら……」
関羽の声。どうやら、二人だけになるのは想定外のことだったらしい。
劉備は、まだ自分の手をつかんだままでいる。関羽がいきなりあらわれたせいで、手放す機会を見失っているようだった。
「なっ……。曹操殿、まさかわが主君に、なにかよからぬことを……!?」
出会ったときにされたことを、たぶん関羽は忘れられないでいるのだ。美しい黒髪。触れられたのは、ほんの一瞬だけだった。
いつか見た夢の続き。その先を、いずれ見ることがあるのだろうか。決して知ることのない、自分にある別の可能性。それでも、夢は夢でしかない。
自分が、雰囲気にかこつけて劉備を誘っている。そんな風に、関羽は決めつけてしまっているのだろう。詰め寄ってくる姿は、戦場にいる時に近かった。
「お、落ち着いて、関羽ちゃん!? それに、いけないのはわたしのほうであって……」
「ははっ。関羽殿は、ほんとうに姉思いのようだ。とはいえ、今回ばかりは劉備殿の言ったとおりでな。俺にもし本気で襲うつもりがあれば、そなたの主君はいまごろ森の中だ」
そう言って、ちょっとだけ劉備の手を強めに握り返してやった。初心な反応。苦笑を浮かべていた顔に、緊張感がわずかばかり漂っている。
無防備さは、ときに仇となる場合がある。そのことを、劉備はまだ知らないようだった。
「むむむ……。そうなのですか、劉備さま? しかし曹操殿、笑えない冗談は控えていただきたい。われらにとって、劉備さまはかけがえのないお方なのです」
「わかっているさ。それに、俺がまことに興味を抱いているのは、そなたなのだよ。ずっと、心を引かれている。言っても、信じてもらえないのだろうが」
「ま、また、そのような戯言を!? それに、曹操殿にはやや子のできた奥方がいらっしゃるのでしょう? でしたら、わたしなどにちょっかいを出されずとも……」
荀彧が孕んだことを引き合いにだして、関羽は非難するように言った。
武人としての気質をもつ同士惹かれ合っているのか、関羽は夏侯惇や馬超といることが多いようだった。おそらく、そのどちらかから荀彧のことを聞かされたのだと思う。
「うわわっ。関羽ちゃん、お顔真っ赤だよ?」
「へ、平気ですっ! わたしには、劉備軍の矛として、果たすべき使命があるのですから! であれば、このような甘言に惑わされている暇など、あるはずがないのです!」
「うーん。でも、ねえ?」
劉備よりもさらに、関羽はこういった経験に疎いのだろう。
言葉こそ力強かったが、慌てふためいている様子など、歳相応の少女そのものだった。ともに過ごす時間がなければ、このような一面を知ることもなかったのだろう。そういった意味では、陶謙に感謝してやってもいいのかもしれない。小さく笑いながら、曹操はそんなことを考えていた。
「ははっ。今宵は、このあたりで引き下がるとしようか。関羽殿にへそを曲げられたのでは、戦にも支障をきたしかねん」
「くっ……! そ、曹操殿、まだわたしの話は終わってなど……」
発せられる怒りは、照れ隠しのためなのか。ともあれ、これ以上は火に油を注ぐだけなのである。曹操は、すぐにこの場からの退散を決めたのだった。
曹操を引き止めようとする関羽を、劉備がなんとかなだめようとしている。その声は、しばらくのあいだ途切れることなく、耳に届き続けていたのだった。