孫堅が意識を取り戻してから、十日ほどが経っていた。
驚異的な回復速度である。人目を避けるために、日が沈んでから山中で剣を振り続けた。当初は相手をしている華雄も力加減をしているようだったが、いまではそんな余裕もなくなっている。野生の牙。それが、闇夜のなかで鋭く光り輝くようになっていたのだ。
周泰からの知らせで、おおよその情勢をつかめるようになっていた。
兗州にいる曹操は、黄巾軍との対決に、しばらくのあいだかかりきりになるはずだった。賊軍の全数は百万。いくらか誇張があるにしても、油断すれば身を滅ぼしかねない相手なのである。
曹操がどれだけ果敢な男であったとしても、速攻で勝負をつけるのには無理のある相手だった。そして、曹操が勝てば、その勢いはかなりのものになっていくことが予想される。袁紹がどう動くかにもよるのだろうが、徐州や豫州はいずれその傘下となる可能性が高いのである。
そうなってしまうまでに、孫家がどこまで勢力を再興できるのか。再興というよりも、目指すべきは伸長することだった。
袁術が、襄陽への出兵を決定した。周泰からそう聞かされたとき、孫堅は獰猛な笑みを見せながら、闘気をみなぎらせていた。袁術の出兵は、孫策たちの根回しによる成果だったのだ。一気に領土を回復するためには、生半可なことはしていられない。袁術と劉表。そのふたりを、同時に駆逐するにはどうするべきなのか。孫堅は、それを考えたのだった。
揚州に影響力を伸ばしつつある袁術は、本拠を寿春に移していた。北からの圧力が減ったいま、袁術の眼を西に向けさせる機会がやってきたと言ってもいい。説得役となったのは、孫策や周瑜だった。
先代を討ち取られた孫家が、襄陽攻めに躍起になる。それは当然の流れなのである。かなりへりくだっての交渉になったであろうことは想像に難くないが、家のためだと思えば耐えられない役回りではない。先陣をつねに孫家が請け負うのであれば、袁術は気をよくして話に乗ってくる、と孫堅は踏んでいたのである。
「孫堅。人数は、どのくらい集まりそうなのだ」
「一千は、集まる手はずとなっている。それだけいりゃあ、袁術の身ぐるみ剥がすくらい造作もないことだ。劉表のほうも、黄祖が消えたことで、守りの力がかなり落ちていると聞く。後任となった黄忠も筋は悪くないが、あれは黄祖のババアのようないやらしさをもってはおらん。ぶつかり合いの戦となれば、オレのほうが場数は遥かにうえよ」
暗闇のなか、白刃だけがわずかに光を放っている。命を、取るか取られるか。その緊張感がなくては、自分の内側に眠る闘争心を奮い立たせることはできない、と孫堅は本能で感じ取っているのだ。
汜水関で闘った頃と比較すると、華雄はかなり腕をあげている。気迫の憑依した剣。以前であれば、もっと余裕をもって受けられていたはずだった。
「今度は、くだらない矢傷など負ってくれるなよ。貴様のような図体の女を運びだすのは、いくらわたしであっても骨が折れる」
「抜かせ。まずは、袁家のガキからだ。あれを大将の座から追い落とし、軍勢を手に入れる必要がある。劉表の首を叩き斬るのは、それからだな」
「ふっ。展望を語るのもいいが、娘たちのことも考えてやるのだな。孫策は、貴様が消えてからよく耐え忍んでいる。少しは、褒めてやればどうなのだ」
「なんだ華雄。まさかおまえまで、
「べつに、そういうわけではないさ。だが、貴様は武人であるのと同時に、母でもあるのだろう、孫堅?」
「ハッ。そんなわかりきったこと、いちいち言うんじゃねえよ。らしくない話を聞かされて、調子が狂うじゃねえか」
「ならばよいのだ。では、闘いの続きを楽しませてもらおうではないか」
「ああ、全力できやがれ。オレもそろそろ、最後の仕上げをしておかなくてはならんのでな」
交差する刃。火花が、美しく舞っている。
闘いは、やはりこうでなくてはならない。血を湧き立たせながら、孫堅は白い歯をのぞかせていた。
†
江夏を離れる時がきた。
寿春を発した袁術軍は、三日もあれば荊州入りすることだろう。先鋒となっているのは、策の率いる孫家の面々である。兵は貸与されているようで、五千ほどの軍勢となっている。袁術のいる本隊五万は、その後ろからじれったく感じるほどゆっくり進軍してきていた。
つなぎを取ってある者たちとは、現地で集まることになっている。少数とはいえども、一千程度の集団で動けばすぐに劉表に察知されてしまうからだ。
朝露に濡れた草。周辺には、少しひんやりとした空気が流れている。過ごしてきた小屋をでた孫堅は、深く息を吸い込んだ。隣には、戦斧を担いだ華雄が立っている。
一歩進みでて、孫堅はかすかに笑みを浮かべた。剣を抜く。肌に感じているのは、空気の冷たさだけではなかったのだ。
「ククッ。いい準備運動になりそうじゃねえか。なあ、華雄?」
「うまく隠れられてると思っていたが、最後の最後でかぎつけられたか。袁術の手の者でなければ、よいのだが」
草陰から、十数人が姿をあらわした。無言のまま剣を握った男たちに、孫堅と華雄は取り囲まれていく。
恨みの宿ったような、粘ついた視線。それで、男たちが袁術の配下でないことが孫堅には理解できた。剣先。じりじりと、押し迫ってくる。しかし、恐れのようなものを抱くことはなかった。これが、生きるということなのである。敵を殺し、その血をあびる。それができて初めて、孫堅は生を実感することができるのだった。
「そうか。おまえたち、かつて黄祖の部下だった者たちなのだろう。だったら、オレを恨むのは筋違いってもんだぜ? 戦をすれば、だれかが死ぬ。あの戦では、黄祖にその番がまわってきた。ただ、それだけのことよ」
孫堅が問う。しかし、男たちのだれもが、口をつぐんだままである。
華雄に眼で合図をしながら、孫堅は飛び出していた。恨みの剣が、三方から突き出される。払いのけ、ひとりの身体を左右に断ち割った。生々しい感覚。手のなかから、忘れかけていたものが蘇っていくようだった。
「あの世で、黄祖に言づけておいてもらおうか。孫文台は、いまだ死せず。そして襄陽を、再び脅かそうとしているとな」
死兵の剣を物ともせず、孫堅は斬り伏せていった。
少し離れたところでは、華雄が活き活きと戦斧を振るっている。この二ヶ月ほどの鬱憤を、晴らしているかのようなのである。華雄が一度腕を動かすと、続けざまに首が三つ飛ばされていく。それでも、怯えて逃げ出そうとする者はいなかった。
それを見て、思ったことがあった。この男たちは、この場できっちり死なせてやるべきなのである。一旦募った恨みは、そう簡単に消えるものではないのだった。家中においても、ずっと息苦しさを感じていたのだろう。それだけに、この一戦にすべてを捨てて打ち込んできているのだ。
「ハハッ。いいぞ、どんどん斬り込んでこい。黄祖のところへ、このオレが送り出してやるんだ。全力で、死ににきやがれ」
振り下ろされる剣を横に飛んで避け、孫堅はそう叫んだ。
首を撥ね飛ばし、急所を突き刺す。数人を簡単に絶命させると、朝に着替えたばかりの孫堅の衣服が、真っ赤に染まった。
「少々楽しみすぎではないのか、孫堅。病み上がりらしく、おまえは大人しくしていろ」
華雄のほうは、ほとんど片がついたようだった。足もとに転がった亡骸を飛び越えたところで、戦斧が敵の身体に吸い込まれていく。あの様子では、痛みを感じられるのは、ほんの一瞬でしかないのだろう。よほど、自分より優しい葬り方をすると思いながら、孫堅は華雄の闘いぶりを観察していた。
どこまでも、真っ直ぐな武人であろうとする。それが、華雄という女だった。
周泰からの報告。そのなかに、董卓死去の報があった。董卓といえば、華雄の前主なのである。ふたりがどの程度の関係で結ばれていたのかは、孫堅の知るところではない。だが、この華雄が仕えていた董卓が、単なる暴君だったとはとても思えないのである。
結局、報告を聞かされても、華雄は顔色ひとつ変えなかった。董卓は、おそらく生き延びている。そう言い切った華雄に、孫堅はわけを訊ねた。董卓の生死には、あまり関心はなかった。興味があったのは、華雄がなぜそんな考えにいきついたのか、という一点だけなのである。
あの呂布が、そんな愚を犯すはずがない。謀反を起こしたのであれば、それが董卓のためになると思ったからなのだろう。
華雄から返答は、あっさりとしたものだった。呂布とは、信頼し合う仲だったのかもしれない。同じ主君をいただき、数十万もの連合軍と闘ったのである。汜水関では自分が勝ったが、あの折りの華雄は確かに必死だった。それだけ、董卓を勝たせたいという想いが強かったのかもしれない。
「これで最後か。死体は、一応隠しておくべきなのかもしれんな。数日、見つからなければいいだけだ」
「面倒だが、致し方あるまい。孫堅、貴様はあとで水を浴びてくるのだな。そのままでは、街道を歩くことすらままならんぞ」
「クハハッ。おまえも、ひとのことをあまり悪くは言えないと思うがな、華雄」
ほんとうに、いままで気づいていなかったのだろうか。血に汚れた姿の華雄を笑い飛ばしながら、孫堅は剣を鞘にしまった。
血に濡れた草花。それを踏みしめて、孫堅は亡骸を運んでいく。道。これが、乱世の道なのだと、感じさせられてしまう。自分は、たまたま死に損なっただけだった。そんな思いが、光景のせいでどうしても強くなってしまう。
いつかは、黄祖や斬り捨てた者たちと、同じ場所にいくことになる。死したあとの世界。そこでも、戦をすることになるのだろうか。空虚な考えが、いくつも浮かんでは消えていく。らしくないとは思うが、いまは気分がそうなっているのだった。
「くだらん妄想はやめておけ」
問いかければ、華雄はそう言って笑うに決まっている。それでも、考えずにはいられなかった。
死を含んだ風。その匂いが、思考をどこか感傷的にさせるのだった。