寿春を進発した袁術軍は、汝南を経由し、江夏に攻め入った。
先陣を受け持った孫策軍の士気は高い。袁術のための闘いとはいえ、江夏は黄祖の領していた土地なのである。迎撃に一万ほどの部隊がでてきたが、報復の炎を燃やす孫策の相手ではなかったようだ。敵軍をひと息で呑み込んだ孫策は、軍勢をさらに荊州内部へと進めていったのである。
その報告を、孫堅は潜伏先の江陵で受け取っていた。山中には、参集してきた部隊を埋伏させてある。反攻にでる準備は、すでに整っているといってよかった。
孫堅のいる江陵を目指し、孫策は進軍を続けている。荊州の中心部でもあるそこを攻撃することには、ふたつの意味があった。江陵を落とせば、兵糧輸送の面で優位に立てるようになる。それで、劉表軍はかなり苦しくなるはずだった。黄忠も、そのことは承知しているのだろう。江夏とは違って、江陵にはかなりの数の兵士が駐屯しているようだった。劉表自身は襄陽に引きこもったままであるが、江陵には黄忠が出張ってきているのだ。
この地での闘いが、荊州攻めの結果を左右することになる。山中で爪を研ぐ孫堅は、そのことを思いながら闘いのときを待っているのである。
ふたつ目の狙い。それは、袁術を自領から引き離すことにあった。江夏で軍勢の奪取を試みるには、危険のほうが大きいと思ったからである。隣接している汝南は、袁家の影響が色濃い土地柄なのだ。たとえ軍権をにぎることに成功したとしても、兵に逃げられては元も子もなかった。それが江陵まで進出してしまえば、まわりはすべて敵となるのである。逃げ場がなければ、兵は闘うことを選ばざるを得なくなるのだ。そうして、そこには孫堅が軍勢を御すだけの、余地が生まれるということだった。
この博打には、孫家の命運がかかっていた。ここで勝てなければ、日の目を見ないまま、乱世を過ごすことになってもおかしくはないのである。逆に、勝てば一気に好機が転がり込んでくる。所領の拡大。それなくして、天下への道が開かれることはないのだった。
「周瑜からの伝言がきたぞ、孫堅。孫策たちは、明日こちらに到着する予定のようだ。江陵城を囲むには手持ちの兵が少なすぎるが、戦をしてみせなければ袁術が疑念を抱く。だから、なんとかやってみるそうだ」
「ハッ、ようやくか。袁術が着陣してからが、オレたちにとっての本番よ。みなには、それまで英気を養っておくように言っておけ」
「孫堅。一応確認しておくが、袁術は斬り捨てなくともよいのだな?」
「あやつを無理に斬ったところで、なんの利益にもならんのでな。むしろ生かしておいたほうが、領地掌握の神輿として役立つであろう」
「そういうものか。まあ、まともな戦ができれば、わたしはなんだってかまわんのだがな」
ようやく、待ちに待った日が訪れるのである。
前回は、襄陽を手中にしかけたところで、大きな痛手を負わされた。その遅れを、なんとしてでも取り戻さなくてはならないのである。
兵たちが緊張を漂わせるなか、孫堅は昼間から眠った。打つべき手は、打ってきたはずだ。あとは、自分の働き次第なのだった。野鳥のさえずり。心地よく、木々の隙間から聞こえてくる。それに耳をかたむけていると、眠気がすぐにやってくるのだ。
翌朝。斥候が、孫策の着陣を知らせてきた。江夏で破った軍勢を、加えてきたのだろう。その総数は、約七千にまで増えていた。対して江陵には、黄忠を中心とした劉表軍が、六万ほどで守りを固めている。
冷静に籠城の構えをしてみせている黄忠を、どうにかして釣り出さなければならない。城攻めとなれば、自軍にもかなりの損害がでることを、覚悟する必要があるのだ。出来得る限り、野戦にて決着をつけたい。それが、孫家の総意だった。
袁術率いる本軍は、それから三十里(約十二キロ)ほど遅れてやってきている。江夏の敵があっけなく敗れ去っただけに、もはや勝った気でいるのだろう。袁術本人だけでなく、旗本たちの気までゆるみはじめているのだという。それは、孫堅にとって好都合なことだった。
奇襲に適した好機。そのときを、じっと待ち続けた。
多少の無理を承知の上で、孫策は毎日のように江陵城を攻めていた。それで城門を突破できれば言うことはなかったのだが、やはり防備は強固だった。
いまは黄忠の抑えが効いているようで、血の気が多い魏延ですら守りに徹しているのである。孫策たちの苦しんでいる様子を、袁術は後方からほくそ笑んで眺めているのだろう。孫策の武名があがりすぎれば、袁術にとって厄介なことになる。だからこそ、両方が消耗し合うのを、のんびりと見守っているに違いなかった。城攻めの仕上げは、自分の支配下にある本隊がすればいい。おそらく、袁術にはその程度の考えしかないのだろう、と孫堅は見ていた。
しばらくして、周泰が山中を訪れてきた。
「
「おう、
「はいなのです。黄忠さんは懸命に耐えようとされているのですが、劉表軍も一枚岩ではありません。われらが攻めあぐねているのをずっと見ているだけに、打って出たいという意見が強まっているようなのです。そして、あろうことか袁術の周辺では、酒盛りがおこなわれている真っ最中なのだとか。炎蓮さま。これ以上の好機は、きっとありません」
「よし、わかった。明命。オレは配下を引き連れて、これから袁術の本陣に殴り込みをかける。おまえは間者仲間を使って、江陵城にそのことを触れてまわれ。これで、膠着していた戦線にも動きがでるだろう。これより、孫家の戦をはじめるぞ」
「了解なのです、炎蓮さま! それでは、ご武運を」
周泰が静かに去っていくのを尻目に、孫堅は兵たちに呼びかけた。
油断しきっているとはいえ、袁術は分厚い壁に守られているといっていい。それを突き破り、剣を喉元に突きつけられなければ、自分たちの敗けなのである。騎乗する孫堅を先頭にして、一千の軍団が山を駆け下りていく。袁術のいる本陣にまで、遮二無二突き進む。全員が、そのことだけを心に留めている。
本陣は、あと二里ほど先か。そこまでくると、袁術軍の兵の姿がちらほらと見えてくる。総大将の気の抜けた振る舞いは、末端にまで影響を及ぼしていた。『孫』の旗をかかげていないとはいえ、孫堅たちは素通りするような状態で、中心部を目指していく。あるいは、袁術軍はその気迫に押されきっていたのかもしれない。
「貴様ら、どこのものだ。ここが、袁術さまの御陣だと知っての狼藉か」
「おまえのような下っ端に、用なんてねえんだよ。話をしたければ、袁術本人を連れてくるんだな」
呼び止めてきたのは、おそらく袁術の旗本なのだろう。側仕えしている者らしく、まとっている武具は豪奢なものなのである。
その旗本を、孫堅はすれ違いざまに斬り伏せた。ここまでくれば、隠すべきものなどなにもないのだった。配下に合図をだし、旗を堂々と立てさせる。『孫』の一字の旗。このときを待っていたとばかりに、それが袁術軍の陣内で荒々しく駆け巡った。
「華雄。袁術の旗本は、斬れるだけ斬ってしまえ。直属の部隊さえ消してしまえば、あとはこっちのもんよ。雑兵どもは、強い者になびく。それが、世の理というものだ」
「はははっ! 単純明快で、実によい考えだな。ならば、わたしは好きにやらせてもらうぞ。この程度の相手であれば、お守りは必要なかろう、孫堅?」
「チッ。いつまでも、過去のことを根にもつんじゃねえよ。いいから、おまえはさっさと敵をぶっ殺してきな。オレたちに与えられた時間は、そうあるわけじゃねえんだ」
「わかっているとも。ではな、孫堅」
自身の人数を率いて、華雄が袁術軍に斬り込んでいく。
時間をかけ過ぎると、江陵城の軍勢に遅れを取るおそれがあった。攻撃を仕掛けてくるのであれば、敵は全軍で打って出てくるに違いない、と孫堅は読んでいるのだった。半端な突撃は、部隊の孤立を呼ぶだけなのである。黄忠であれば、その危険性を理解できているはずなのである。そして、孫堅の狙いはそこにあった。
「うるぁあああっ! てめえら、斬って斬って、死ぬまで敵を斬りまくれ! ここで勝てば、孫家の隆盛は確実なものとなる。褒美は、いくらでも弾んでやるぞ」
孫堅が叫びをあげる。
袁術の旗本は、全部で三千ほどはいるのか。そのすべてを一千の手勢で斬ってしまえるとは、孫堅も考えてはいなかった。それでも、数を減らしておくのに越したことはないのである。手当り次第にぶつかり、剣を疾走らせた。鮮血が飛ぶ。ゆるみきっていた陣内から、次々と悲鳴が生まれていく。
「な、
「うーん。どうやらお嬢さまは、罠にかけられてしまったようですねえ。孫策さんも脳筋一直線なようでいて、なかなか演技がお上手なんですから、困ったものです」
「うむむ……。なにをのんびりとしておるのじゃ、七乃。はよう逃げなければ、まずいことになってしまうのではないか」
「えー? だって、いまさらじたばたしたところで、きっと意味なんてありませんよ。ほら、あそこを見てください、お嬢さま」
「ふえ? な、なんじゃとっ!? あれは、もしや孫堅ではないのかえ? あわわわ……。あの戦さ気狂いめ、襄陽で死んだのではなかったのか」
「やっぱり、そうですよねー? だから、わたし思うんです。がんばって逃げて痛いことをされるよりかは、おとなしくしているほうがお得なんじゃないかって。旗本さんたちが防いでくれていますけど、あのひとを止められる人間なんて、この軍にはいませんからねえ。どうしますか、お嬢さま?」
「うう、ぐすっ……。どうして、わらわがこのような目にあわなければならんのじゃぁ」
張勲に抱きついて、袁術が幼子のように泣きじゃくっている。
その姿を補足した孫堅は、一気に馬を駆けさせた。立ちはだかる兵を弾き飛ばし、剣でなぎ倒していく。求めていたものが、そこにあるのだ。袁術は、逃げる気力すら失っているのだろう。そして張勲は、覚悟すら決めた表情を、こちらにじっと向けている。
ふたりのそばで馬を止ると、孫堅は飛び降りた。抵抗しようとする数人を斬り殺し、配下に素早く周辺をかためさせる。黄忠の号令を受けた劉表軍が、江陵城を出陣したという報告を先ほど受けたばかりだった。それだけに、短時間で袁術軍を支配下に置く必要があるのだ。脅すのであれば、徹底的に脅す。血に塗れた剣。涙を浮かべた瞳で見つめてくる袁術をにらみ返し、孫堅はそれを間近い地面に突き立てた。
「ぴいっ!? あわ、あわわわ……」
身体を小刻みに震わせる袁術。
死の淵から蘇った自分の姿が、よっぽど恐ろしかったのだろう。戦場に似つかわしくない衣服の股の部分に、急速に染みが拡がっていく。袁家の惣領を自負して威張っているものの、その心はまだ子供のままなのである。
衣服を濡らした液体が、やがて埃っぽい地面まで湿らせはじめた。どうせ袁術は、いつものように蜂蜜を混ぜた水を陣内で喫していたのだろう。ちょっと甘ったるいような臭気。それを鼻で感じながら、孫堅は口を開くのだった。
「しばらくぶりだな、袁術。オレが寝ているあいだ、娘たちが世話になったと聞いているぞ。それで、こうして挨拶に来たというわけだ」
「うへっ!? いや、あの……っ。ううっ、七乃ぉ!」
怯えきっている袁術は、話をすることもままならないようだった。
張勲は、この騒動の先にあることを、どこまで予想しているのだろうか。袁術を溺愛することを人生の楽しみとしていなければ、その謀才は方々に発揮されていたのだろう。惜しくはあるが、人にはそれぞれの生き方というものがある。そして、それは誰かに口を出された程度で、曲げられるようなものではないのだと孫堅は知っている。
「孫堅さん」
鋭い語調。張勲は、すでに意を決しているようだった。
自分に袁術を殺すつもりがあるのか。もっとも気にかけているのは、その点なのだということは知っている。いまある立場などは、この女にはどうだっていいはずだった。ただ、二人でいままで通りの暮らしができればいい。張勳の願いは、きっとそれだけなのだろう。
「質問があります、孫堅さん。あなたは、お嬢様を殺すおつもりなんでしょうか」
「ななっ!? あろうことか、このわらわを殺すじゃと!? 嫌じゃ! それだけは、絶対にいやなのじゃ。ううっ、七乃、どうにかしてたもれぇ……!」
「はーい、
「そ、そうかの。ならば、わらわは黙っておることにするぞ。七乃、おぬしにしかと任せた」
粗相をしてしまったことなど、もう忘れてしまっているのだろうか。気丈に宣言する袁術は、どこか誇らしげでもあるのだ。
向き直った張勲に、孫堅はちょっと穏やかな視線を投げかけている。
「こほん。それでは孫堅さん、答えを聞かせていただけますか」
「フッ、よかろう。オレには、袁術を殺す気などさらさらなくてな。ただし、軍権だけはオレがなにもかも頂いていく。いまある領土についても、同様だ。これだけの軍勢、おまえたちにとっては重荷でしかないだろう。これよりは身を軽くし、気ままに生きていくがいい。監視をつけることにはなるだろうが、不自由しない程度の銭はくれてやる。ククッ……。なんなら、暇にあかして自分で蜂蜜をつくってみてはどうだ」
袁術には、危害を一切加えない。それだけではなく、張勲と二人で暮らすことを、孫堅は許すつもりだった。
権力を欲することがあれば、すぐにでも処断しなければならない。だが、面白おかしく生を謳歌するだけなのであれば、そのかぎりではなかった。
「ふうん、そうですか……。うふふっ。よかったですねー、美羽さま。これからは、この孫堅さんがお嬢さまに代わって、戦をしてくださるそうですよ? お嬢様は、それを高みから見物されていればいいんです。それって、とっても楽ちんなことですよねー? 今回みたいに、埃まみれになって戦場にでることもなくなるんですから」
「う、うう……うむ。そ、それは実によい提案なのじゃ。さすがは、孫堅であるぞ。わらわも、おぬしが軍を率いて闘ってくれるのであれば、心強いことこのうえないのじゃ」
勢いよく首を縦にふってみせる袁術。殺されないで済むのだという安心感が、表情に色濃くあらわれている。
その返答に満足した孫堅は、地面に立つ剣をゆっくりと抜き、鞘に納めた。周辺にいた袁術の旗本は、気力を失って抵抗をやめてしまったか、逃げてしまった者がほとんどなのである。
「よい心構えをしているではないか、袁術殿。それでは、この孫堅に軍権を預けること、いますぐに宣言してもらおうか。それとひとつ質問があるのだが、貴様アレをどこかに隠しておらんだろうな?」
「あ、アレ? あれとは、なんのことなのじゃ?」
「オレが以前、娘に託していたものよ。玉璽というのだが、オレの思い過ごしだったか」
「あ、ああ、これじゃったか!? 年若い孫権には荷が重いであろうと思い、わらわが大切に持っておいてやっていたのじゃ! ほ、ほれ、これで満足であろ? 確かに、返したぞ?」
「うむ、たしかに返してもらったぞ。それでは、参るとしようか。さっさとここの兵を纏め上げなくては、黄忠に射殺されかねん」
「ほえ!? そ、それは大変なのじゃ。いくぞ七乃。わらわは、こんな場所にはもういとうはないのじゃ。孫堅、おぬしもはよう来やれ」
「ハハッ、調子のいいことだな。だが、それでいい」
小走りに駈けていく袁術。取り戻した玉璽を手の中で転がしながら、孫堅は後に続いた。
「はーい。皆さん、鎮まれ鎮まれー。どちらの方々も、剣を収めてお嬢さまの大事なお話に耳を傾けてあげてくださいね。でないと、孫堅さんになにをされたって知りませんよ?」
「うおっほん。皆々、この袁術を守るため、よう闘ってくれたの。だが、孫堅との諍いはもうこれにて終いとする」
二人のよく通る声が、血生臭い原野に響き渡っている。幼少の頃より誰かに指図する立場であっただけに、さすがに袁術は話し慣れている。
兵たちの顔が主君に向く。身を守るためになにをするべきか、それを弁えている袁術のことが、孫堅は嫌いではなかった。
「そして、大切なのはここからじゃぞ。今この時をもって、そなたらは孫堅の指揮下に入ることとなる。戦など、わらわはもう飽き飽きなのじゃ。勇猛な将軍として名高き孫堅の下にあれば、おまえたちも連戦連勝間違い無しであろう? ゆえに、わらわは軍権の譲渡を決断したのじゃ。襄陽の軍勢が、すぐそこに迫っておると聞いておる。各々、これよりは孫堅をわらわと思いよく尽くせ。話は以上である」
袁術からの宣言を受け、兵たちにざわめきが拡がっている。
だが、その鎮まりを悠長に待っている時間はないと言っていい。反抗的な者が出てくれば、斬ってでも統率を取る必要があると孫堅は思っている。
「終わったのか、孫堅?」
「ああ、終わった。いや、これから再び始まると言うべきなのかもしれんがな」
「なんだそれは。だが、下手を打ってくれるなよ、今度は」
「チッ、言ってくれるじゃねえか」
血のついた戦斧を肩に担いでいる華雄。笑いかけながら、孫堅は闘志の高まりを強く感じていた。
袁術の隣に立ち、剣を頭上に掲げた。この地から、孫家の新たな闘いを開始する。駈け続け、目指すべきは自分たちの天下だった。気力が充実していく。腹の内側からの叫びを解き放ち、孫堅は麾下となった兵に号令をかけている。