軍議の席で、曹操は意見に耳をかたむけることに徹していた。
正直なところ、村の救援に部隊を割けるほど、黄巾軍との闘いに余裕はなかった。そのことは、この場にいる全員が理解しているはずなのである。だが、敵軍による略奪を、そのまま見過ごしていいものなのか。弱腰になれば、それが全体の士気をさげることにも、つながりかねないのである。
最初に意見を述べたのは、劉備だった。
「村のひとたちは、きっと助けを待っていると思うんです。ですから、ここは無理をしてでも、救援にいくべきなんじゃないでしょうか」
「劉備殿のお気持ちはわかります。しかし今回の動きは、敵軍による陽動なのかもしれないのです。その可能性を否定しきれないかぎり、わたしは部隊を軽率に動かすべきではないと存じているのですが」
「郭嘉さんが心配するのは、軍師として当然のことなんだと思います。だけど、いまは議論をしている時間がないのも、確かなんじゃありませんか? 曹操さん。部隊の編成が難しいのであれば、ここはわたしたちに行かせてください。劉備軍は、所詮流れの義勇軍に過ぎませんから。けど、そんなわたしたちにしかできないことが、絶対になにかある。わたしは、そう信じているんです」
戦場の拮抗具合を鑑みて、郭嘉は部隊の派遣に反対しているのだろう。現実的に考えれば、それが一番のやり方なのである。
それでも、劉備はなんとかするべきなのだと言いきった。その考えもまた、間違いではないのだ。根拠など、どこにもない。それでも、劉備には成し遂げるだけの自信があるようだった。
他者を助けるということに対して、どこか盲目的な部分があるのかもしれない。だが、その突き抜けた気持ちこそが、劉備軍に規模以上の強さを与えているのだった。
「待たれよ、劉備殿」
「なんだ、夏侯惇。貴様、劉備さまの意見が間違っているとでも言いたいのか?」
「ふん。少し黙っていろ、関羽。わたしは、劉備殿と話をしているのだ」
肩を怒らせる関羽だったが、夏侯惇はいたって冷静だった。
隣りにいる郭嘉が、小首をかしげてその様子を眺めている。こうした時、真っ先に走り出そうとするのが夏侯惇なのである。その夏侯惇が、いまは落ち着いた口調で、劉備と相対しようとしているのだ。そのことが、郭嘉には不思議でならないのだろう。
けれども、曹操には感ずるものがあった。冷ややかなように見えていても、その実腹の内側では激しく燃え盛っているのだ。夏侯淵も、そのことに勘づいているはずだった。薄っすらと浮かべた笑み。それは、夏侯惇のつぎなる行動を暗示しているようにすら、曹操には見えていた。
「劉備殿には悪いが、民の守護はわれら曹操軍にまかせてもらおうか」
「夏侯惇さん? あの、それって……」
「うむ。この大事に、われらが引き下がるわけにはいかんのでな。軍師殿も、それはわかっているはずだが?」
劉備に断りをいれた夏侯惇が、曹操に向き直った。その双眸は、早くも闘志に燃えている。
「兗州の民は、殿の民でもあるのです。その危地を捨て置くことなど、この夏侯元譲にはできませぬ。ですから、出過ぎた真似をなにとぞお許しください、殿。そのうえで、このわたしにどうかご命令を」
とっくに、腹は決まっていた。
やると言ったからには、夏侯惇は必ずやる。そのことを、曹操は幼少の頃からよく知っているのだ。動かせる軍勢は、多くない。それでも、敵軍に補給を許すわけにはいかなかった。
「よいのか。兵は、あまり出してやれぬぞ」
「かまいません。これは、わたしのわがままなのですから」
「わかった。ならば、おまえに兵五千を与えよう。それで、村落を守りきってみせよ」
少なくとも、略奪を狙う黄巾軍は万をこえている。斥候を放ってはいたが、まだ正確な数字をつかめてはいなかった。それを踏まえても、出せるのは五千が限界だった。五千以上となると、砦の兵力が落ちすぎてしまう。それでは、本末転倒だった。
敵軍の詳細が不明なのに加えて、不安要素はほかにもあった。村の防備は、どのくらい保つのか。行ったところで、無駄足になる可能性がないわけではなかった。それでも、夏侯惇は救援に向かうのである。
「あたしも手伝うよ、夏侯惇。数は少ないけど、騎馬がいないよりかはマシだろ?」
「むっ……? それは、ありがたいことだな。ならば、おまえは先行して敵軍の様子を探ってきてくれるか、馬超。わたしも、すぐに追いかける」
「承知した。っと、それでいいかな、曹操殿?」
事後承諾のようなかたちにはなったが、曹操は馬超の同行を許可した。
小回りのきく部隊がひとつあれば、闘いは格段にやりやすくなる。馬超の率いる騎馬隊は、総勢でちょうど百騎。本人はまだまだ鍛えている最中だと言っていたが、その突破力には眼を見張るものがすでにあった。
ほとんどの将が営舎を退出していったなかで、曹仁だけがその場に残っていた。
「むう……。あたしも、春姉についていきたかったっす」
「気落ちしている暇はないぞ、
「ん……、はいっす、一刀っち。こうなったら、あたし春姉の分まで、気合で敵を倒すっす。そしたら、春姉と
「その意気だ。期待しているぞ、華侖」
夏侯惇に率いられた軍勢が、砦から進発していく。
空。そこには、どんよりとした雲が拡がっていた。見ていると、なんとなく嫌な気分が生じてしまうような空なのである。それを払うかのように、曹操は絶影を駆けさせた。あとには、土煙あげながら騎兵が続いている。
†
麾下の騎兵を叱咤し、馬超はひたすら道を急いでいた。
黄巾軍の部隊とは、まだ遭遇していない。目的の村落までは、あと五里(約二キロ)といったところだった。
村は、山から裾野にかけて拡がっていると斥候から聞いている。数百人が暮らしており、糧食の蓄えも少なくないのだという。それで、黄巾軍の標的とされてしまったのだろう。
「村ってのは、あれか。だれか、夏侯惇将軍に伝令を。馬超軍は、一足早く斬り込んでいるってな」
鑓を握り直しながら、馬超が言った。
前方。村の防柵らしきものが見えていた。それを引き倒そうと、黄巾の兵が取り付いているのである。防衛設備は一応整えてあるようだったが、それも時間稼ぎにしかならないのだろう。敵軍は、多くて一千といったところか。本隊らしき姿は、まだどこにもなかった。大軍がでてくるまえに、ここにいる敵を倒せるだけ倒しておくしかない。そう決心して、馬超は号令をかけるのだった。
「突っ込むぞ。それと、曹操軍の旗を高く掲げることを忘れるな。村のひとたちに、あたしたちが味方だってことを知らせるんだ」
『曹』の一字の旗。馬群のなかで、力強くはためいている。
鯨波をあげる騎馬隊。それに気づいた敵軍が、迎撃の態勢を取ろうとしている。だが、すべてが遅かった。馬超が鑓を振るうと、三人が一度に吹き飛ばされる。
「まだまだっ! もう一回、突撃だ!」
一度目の攻撃で、敵軍の意識を引きつけることには成功している。
騎馬隊の動きは鋭かった。馬超の動きに合わせて、隊列を乱さずに追従してきている。涼州とは違う風。それを、馬超は肌で感じていた。怯える黄巾兵。略奪だけで、まさか戦をすることになるとは考えていなかったのだろうか。
敵軍を撹乱しながら、馬超は夏侯惇の到着を待った。半数は逃げ出しており、あとは残りを掃討するのみなのである。
「きたか、夏侯惇。っしゃあ! 歩兵と連携して、敵を討ち尽くす! 村には、誰ひとり通すんじゃないぞ!」
夏侯惇の率いる五千が到着する。それでなんとか耐えていた黄巾兵も、心が完全に折れてしまったのだろう。馬超の騎馬隊は、文字通り敵軍を蹂躙していったのである。
掃討を終えるまでに、それほど時間はかからなかった。村への被害は、まだ少しもないはずである。
柵の内側で戦況を見つめていた住民も、馬超たちが敵ではないと認識したようだった。柵の一部が開け放たれる。内側からでてきたのは、背の低い少女だった。
「えっと、ありがとうって言えばいいのかな。ボクは許緒。お姉さんたちは、官軍のひと?」
「あたしは、馬超ってんだ。それと、こっちは夏侯惇。あたしたちは、曹操殿の命でこの村を守りにきたんだ」
典韋や徐晃と似たものを、許緒からは感じられた。
その小さな手には、無骨な鑓が握られている。いざとなれば、自分が黄巾軍と闘うつもりだったのだろう。一番早くでてきたのは、それだけ許緒が最前線にいたからなのである。
「わが殿は、この兗州の州牧であらせられる。だからこそ、いまも青州からきた餓狼どもと闘っておられるのだ。許緒と申したな。先ほどわれらが打ち破った黄巾軍は、ほんの小手調べのものに過ぎん。本隊は、まだやってくるぞ」
「うえっ……!? そ、そうなんだ。お姉さんたち、一緒に闘ってくれるんだよね?」
「当然であろう。本命がくるまでに、できるだけ防備を整えておかなくてはな。この村の長老のもとに案内してくれるか、許緒」
「うんっ、わかったよ。それじゃ、ボクについてきて!」
実質的な意味合いで言えば間違いではないが、曹操はまだ正式に州牧となったわけではなかった。だが、そんなことは夏侯惇にとってなんら関係がないのだろう。言い切った姿は実に堂々としており、許緒は微塵も疑わなかったのである。
夏侯惇が許緒と長老のもとにいっているあいだ、馬超は外周の見回りを行っていた。空堀はめぐらされているが、大軍を相手取るには深さも幅も足りていない。ないよりかは、いくらかマシという程度のものだった。それでも、背後には山がある。それを背にして闘えるだけ、自分たちに地の利があるといっていい。
馬超が歩いている先に、少女がひとりで佇んでいた。
物憂げに、地平線を見つめている。それがちょっと心配になって、馬超は声をかけた。
「どうした? こんな場所にいると、危ないぞ」
「べつに、いいんです。わたしはもう、どうなったって」
「なんだそりゃ? でも、村のみんなは必死に闘い抜くつもりみたいだぜ。さっき会った許緒って子も、そうだった」
「許緒は、そういう子なんです。わたしが生きていられるのも、あの子のおかげ。だけど、こうなっては……」
物憂げな少女は、許緒の知り合いのようだった。
生きるということに、執着がないのか。それとも、辛くなってしまったのか。理由はわからないが、過去にそうさせるようななにかがあったのかもしれない、と馬超は思うのだった。
「あんた、名前は? あたしは馬超。曹操殿のところで、客将をやっている」
「……
「そっか、人和っていうんだな。あたしも、いろんなことがわからなくなって、家を飛び出しちまったことがある。で、放浪してる途中、たまたま曹操殿と出会ってさ。出会いってのは、ひとの気持ちを大きく変えることがある。あたしはいま、それを実感しているよ。良くも悪くも、ひとは変わっていく。人和も、ほんとはそうなんじゃないか?」
「なんですか、藪から棒に。だけど、そうですね。わたしにも、もう一度会ってみたいと思えるひとが、いるのかもしれません」
「ふうん、いいじゃねえか。そいつとは、また会えそうなのか?」
「さあ。名前も、生きているのかさえも知らないような相手なんです。だから、はじめから叶うなんて思っていません」
「そんなの、やってみなきゃわからないってば。この村は、あたしたちが絶対に守ってみせる。だから、人和もあきらめるな」
「許緒とおなじくらい暑苦しいひとなんですね、馬超さんは。だけど、ふふっ……」
そう言って、人和はかすかに微笑んでみせた。
透き通るような笑顔。それを見て、馬超は思わず唾を飲んでしまっていた。それは人和の笑顔のなかに、いままで感じたことのないような儚さがあるからだった。