村落を狙う黄巾軍。その本隊が出現したのは、昼を過ぎた頃だった。
その報を受け、兵たちが慌ただしく持ち場に駆けていく。一重だけだった防柵は二重となっており、防御力は確実に増している。柵内には弓に長けた者を配し、夏侯惇と馬超はその外側に陣取っていた。
「
「くくっ、それは頼もしい言葉だな、
「うむ。そうでなくては、殿が貴様を好きなようにさせている意味がないのでな。では、参るぞ」
夏侯惇の部隊が、陣形を変えていく。いわゆる、魚鱗の陣だった。その先端。もっとも激しく敵とぶつかる箇所に、馬超の騎馬隊は配されていた。
攻撃を仕掛けてくる敵軍の先鋒を、まずは全力で打ち破る。それが、夏侯惇の狙いだった。敵軍は、数だけでいえば自分たちの三倍もの兵力をかかえている。それだけに、はじめから防戦一方といった構えをとっていたのでは分が悪くなるのだ。それに、練度では自軍が上回っているだけに、先手をとれるかどうかは重要だった。そして、それができるだけの戦才を、夏侯惇は備えているのである。
「黄巾の者どもめ、戦の真似事はできるようだな。しかし、所詮は素人のやることだ。方陣をいくつか組んで押し込もうというのだろうが、部隊の動きがなっておらん。まずは右翼を突き崩し、その勢いのまま中央を突破するのだ」
「よしきた。小細工なしの戦は、あたし好みだぜ。それで、そっちのちびっ子だが、ほんとに連れていくんだな?」
「ああ、そのつもりだが? こう見えて、
わかれてからのことは知らないが、夏侯惇は許緒に武人としての素質を見出したようだった。ともすれば、のちのち曹操に推挙するつもりなのかもしれない、と馬超はみているのである。自身のそばで戦を経験させようというのだから、少なくともそういった意図があるとみて間違いないのだろう。
もとより、許緒は戦場にでることを望んでいたのかもしれなかった。自分の力が、実戦においてどこまで通用するのか。この乱世、それを知りたくなるのも、当然といえば当然なのである。
「むーっ! ボクは、ちびっ子じゃないってば!」
「あはは、悪かったよ。その代わりと言っちゃなんだが、あたしのことは翠でいいぜ、許緒」
「えっ、いいの?」
「いいっての。おまえは、春蘭が認めるくらいの武人なんだろ? だったら、なんの問題もないとあたしは思うな」
「えへへっ。だったらこれからよろしくね、翠さん。ボクのことも、季衣でいいから」
「わかったよ、季衣。お互い、がんばろうぜ」
許緒が、大きくうなずいてみせた。
敵軍。一万五千が動くと、黄色い砂塵が原野をおおってしまうようだった。相手は、こちらの様子をうかがっている。馬超には、そのことがはっきりとわかっていた。方陣からは、攻勢にでようとする時に発せられる、強い気のようなものが感じられないのである。
後方から太鼓が鳴る。夏侯惇は大将であるが、麾下の戦をじっと見ていられるような生ぬるい性分をしていなかった。先鋒は馬超の騎馬隊ではあるが、その次段として自ら斬り込むつもりなのである。そして、その突進力こそが、夏侯惇軍の強みでもあるのだ。
「いくぞ。敵軍に穴を開ければ、あとは夏侯惇がどうにかする。あたしたちは、止まらず動き回っていればいい」
黄巾軍の方陣は、ひとつが二千で構成されている。前方には、それが五つあるようだった。残りの五千は、後詰めか遊撃部隊としての動きを担うのだろう。
敵兵を馬上から突き殺しながら、馬超は疾駆を続けていた。騎馬隊が駆け抜けたあとを、夏侯惇が先頭に立って遮二無二斬り結んでいるようだった。その武威を、許緒は肌で感じているのだろうか。曹操のためとあらば、夏侯惇は尋常ではない力を発揮する。その刃の鋭さや激しさを、馬超はよく知っている。曹操軍において、趙雲もかなりの武芸者ではあるが、両者は毛色が違いすぎるのだった。
「よし。右翼の撃破は、順調なようだな」
黄巾軍が包囲をかけようとしているが、魚鱗の連なる部分がそれを許さない。そうしている間に夏侯惇は進む向きを変え、別の部隊に牙をむくのである。
ずっと駆け回っていると、敵軍に変化が生まれてきた。包囲がうまくいかないことに、焦りはじめているようなのである。それまでじっとしていた最奥の五千。それが、狂ったように突出してきたのである。
その部隊に後方を突かれると、こちらが不利になる。一度夏侯惇と合流するため、馬超は馬を急がせた。騎馬隊は、まだだれも落伍せず戦闘をこなしている。
「春蘭」
「翠か、ちょうどよい。動いた五千の狙いは、どうやら村落のようなのだ。わたしは、兵の半数を率いてそちらの迎撃に向かおうと思う。残りの指揮をおまえにまかせようと思うのだが、できるか?」
「へっ、当然だっての。こっちはあたしがなんとかするから、春蘭は早くいってくれ」
「そうか、ならばたのんだぞ。季衣、ついてこい」
敵軍を一度突き放し、陣形を組み直す。さすがに、曹操軍はよく鍛えられていると馬超は思う。調練の行き届いた軍でなければ、できない行動だった。
涼州にいたころは、五千をこえる軍勢を指揮した経験もあるのだ。ほとんどが荒くれ者で、勝ち戦となれば強いが、堪え性には欠けていた。異民族が襲撃してくれば、兵をかき集めてそれを追い返す。涼州で戦といえば、そのことを指すといってもいいくらいだった。
黄巾軍との闘いは、どこかそれに近いものがあるのかもしれない、と馬超は感じはじめていた。信仰によって結束していると聞いているが、略奪をしなければ生きられないのは、異民族とおなじだった。だれしも、必死に生きている。そこには、少しの違いもないのだろう。
「相手は、かなり数を減らしている。気合で負けんじゃねえぞ、ぶちまかしてやれ」
事実、黄巾軍はかなりの逃亡者をだしていた。まともに機能している方陣は、もはや三つだけなのである。それも、ほころびが各所にみえている。攻勢をゆるめず、馬超は攻め立て続けた。どこかで息を入れれば、隙をみせることになる。いまは、とにかく押しに押しまくるときだと思っていたのだ。
客将という立場ではあるが、馬超は軍内で一目置かれるようになっていた。曹操が眼をかけている影響は大きかったが、当人の実力がそれを後押ししているのである。
「そろそろ、仕上げに入るぞ。敵を、無理に討ち取ろうとしなくてもいい。敗走させてしまえば、あたしたちの勝ちだ」
前線で鑓を振るいながら、馬超は叫んでいた。
残っていた方陣も、あとひと押しで潰走にもっていける。その手応えが、たしかにあったのである。しかし、敵軍を押しまくるなかで、気になっていることが少しあった。夏侯惇からの伝令が、あれから一度もきていないのである。普通に闘っていれば、もう掃討にはいっていてもおかしくない頃合いだった。
逃げ惑う黄巾軍を追い討ちに討ち、馬超はようやく村落に向けて引き返した。放った斥候によって、おおよその戦況はつかめている。馬超の心配をよそに、夏侯惇は敵軍を撃退することに成功したようだった。
「なっ、そんな……。どうしたっていうんだよ、春蘭」
「ぐっ……、ははっ……。わたしとしたことが、油断があったのかもしれんな。それで、このざまだ」
「春蘭、おまえ眼を」
「こんな
悠然と帰還した馬超。そこには、まさかと思うような光景が拡がっていた。
板楯に寝かされた夏侯惇が、聞いたことのないような弱々しい声をあげている。その左眼。そこから、赤々とした血が流れ出ているのだ。斬られたのではなく、矢かなにかを受けたのだと馬超は推察していた。
「春蘭さまは少しも悪くないんだよ、翠さん。いけなかったのは、全部ボクなんだ。ボクが、あのとき調子に乗って飛び出してなければ、こんなことには」
泣きべそをかいた許緒が、そばに駆け寄ってくる。口ぶりからすると、夏侯惇は許緒をかばって傷を負ったようだった。自分の判断で連れ立った許緒を、放っておくわけにはいかない。面倒見のいい夏侯惇だけに、そうやって自然と身体が動いていたのだろう。
その言葉が聞こえたのか、夏侯惇が小さく首を左右に振ってみせた。すべての責任は、軍を率いる自分にある。夏侯惇は、まるでそう言っているようだった。
堪えてはいるものの、痛みはかなりのものなのだと思う。こうして会話できているのが、不思議なくらいの負傷なのである。それだけ、夏侯惇の胆力が図抜けているということだった。あるいは、曹操の剣であるという自負が、そうさせているのかもしれない。
ほんとうに、つい先ほど声を交わしたばかりの相手なのである。それが、変わり果てた姿で自分を出迎えているのだ。こうしたことが、いままでないわけではなかった。戦場では、つねに死がつきまとうのである。それでも、どうして夏侯惇が、と馬超は思わずにはいられなかった。
「布と、それからお湯を沸かしてきたわ。とにかく、止血をするのが最優先なんじゃないかしら。それと夏侯惇さん、怪我人はあまりしゃべらないほうがいいと思うわよ。傷に響いてもいいって言うのなら、わたしは別にかまわないのだけれど」
「ありがとう、
「いいえ、そんなに。だから、あまり期待はしないでね。これでも、見よう見まねでやっているだけなのよ」
「それでも、充分助かるよ。季衣、おまえは人和の手伝いをしてやってくれないか。あたしは、兵に声をかけてくる。春蘭の負傷で、動揺が拡がるとまずいからな」
人和に謝意を伝え、馬超はその場を離れた。
左眼を失うことにはなったものの、夏侯惇は生き永らえた。そのまま死ぬか、それともしぶとく耐え抜くか。そこには、やはり大きな差異があるのだ。
ともかく、黄巾軍から村を救うことはできたのである。ほんとうであればしばらく滞在してやりたいのだが、五千の兵を遊ばせておくわけにはいかなかった。
翌日、夏侯惇の容態が安定したのを見計らって、馬超は軍勢を出立させた。粛々とした行軍である。夏侯惇は嫌がったが、板楯に乗せて運ぶことを馬超は強引に決めてしまった。そして、その近くには許緒と人和の姿もあるのだった。
†
嫌な予感ほど、得てしてよくあたるものだった。
もどってきて早々、馬超は申しわけなさそうに深々と頭をさげてきた。先だって報告を受けてはいるが、すぐに信じるのは無理な話だった。それでも、夏侯惇たちは村落を守りきり、黄巾軍の思惑をくじいたのである。作戦としては、咎めるべき点はなにもない。むしろ、生きているだけ幸運だと言うべきなのではないか、と曹操は思うのだった。
「すまない、一刀殿。あたしがもう少しうまくやれていれば、春蘭だって」
「それ以上は言うな、翠。春蘭は、自らの役目を果たして、眼を失ったのだと聞いている。であれば、どうしておまえを責められようか」
「そうかもしれないけど、あいつの気落ちした姿を見ているとさ。こう、胸を締めつけられてしまうみたいなんだ」
「ン……。春蘭は、俺と会いたくないと言っているそうだな」
「ああ。だけど、気持ちはちょっとわかるかもしれないな。戦もこれからだっていうのに、満足に剣を振ることすらできないんだ。そんなの、辛くて当然だよ」
そう言って、馬超はまた顔を伏せてしまう。
様子を見に行かせた夏侯淵の話では、身体のほうは思いのほか元気そうなのである。それでも、夏侯惇は営舎に閉じこもったままだった。自分に、片眼だけとなった無様な姿を見せたくない。そういって、塞ぎ込んでしまっているらしい。
「だが、そのままにしておくわけにもいくまい。これから、春蘭と話をしてくるつもりだ」
「うん、あたしもそれがいいと思う。口では嫌がっているけど、春蘭も一刀殿に会いたがっているんじゃないかな」
「そうであることを願っているよ、俺も」
馬超とわかれて、曹操は夏侯惇のいる営舎へと向かった。
声をかける。返事こそなかったが、衣擦れのような音だけがかすかに聞こえていた。
陣幕を隔てた先。そこに、夏侯惇がいるのだと思う。いますぐ、会って抱きしめてやりたかった。強靭な武人であろうとする反面、甘えたがりな一面があるのだ。それだけに、現状を寂しく感じているに違いないのである。
そんな気持ちを我慢し、曹操は静かに語りかけた。
「よく、生きてもどってくれた。俺とおまえは、これまで一心同体となって歩んできただろう。おまえを失っていれば、俺は半身を失った以上の痛みを、いまごろ味わっていたのだと思うな」
「うっ……、殿ぉ」
紛れもなく、本心からでた思いだった。
劉備たちのように義兄妹の契りを交わしているわけではないが、夏侯姉妹との絆はそのくらい特別なものだった。平静を装ってはいたが、夏侯淵も我が身のことのように、姉の負傷を悲しんでいるはずである。それだけのつながりを、自分たちは長い年月をかけてきずいてきたのだった。
「わたしは、もうこれまでのように闘えないかもしれません。そのことを考えると、おそろしいのです」
「夏侯元譲ほどの武人であっても、おそれることがあるのだな。ははっ。そんな心配など、調練をしているうちに消えてしまうと思うぞ。おまえには、それだけの才があるのだ。その輝きを、俺のためにもう一度放ってみせよ」
「わたしなどに、もったいなきお言葉です、殿。ですが、こんなに嬉しいことはありません」
涙ぐんでいる。そのことが、はっきりとわかってしまうような声だった。
決意は、かたまったのだろう。夏侯惇は、この程度のことで折れるような、やわな女ではないのだ。自分の戦は、これからも続いていく。そして、その戦場には夏侯惇が必要なのである。
「街にもどったら、おまえに似合いそうな眼帯を探しにいこう、春蘭。そのときは職務を忘れ、一日そばにいてやるつもりだ。おまえのしたいことも、なんだってさせてやる」
「うぐっ、ぐすっ……。そんな約束をしてしまって、知りませんからね? わたしだって、遠慮をしませんよ」
「ふっ、望むところだ。心の整理がついたら、声をかけろ。今度は、直接おまえを抱きしめさせてくれ。よいな、春蘭」
「うっ、は……はい……。承知、いたしました」
名残惜しそうに陣幕をなで、曹操はその場から離れていった。
こうしているあいだも、戦は動いているのである。
黄巾軍の精鋭。その位置を、具体的につかめるようになっていた。堅陣を敷いており、どうやらまともに打って出るつもりがないようなのである。分厚い壁の向こう側。そこで、こちらが音を上げるのを、じっと待っているようでもあった。
どこで、総力戦を仕掛けるべきなのか。そのことを、曹操は考え続けていた。
「殿。殿に、趙雲将軍からの伝言がございます」
陣屋にもどった曹操のところに、息を切らせた伝令兵が駆け込んできた。
趙雲には、後方の守りを命じてある。それに、なにか知らせがあるのであれば、程昱が使者を発するのが普通だった。そうしないということは、よほどの急ぎの用件であるということなのである。
夏侯惇のことがあったばかりで、なんとなく思考が嫌な方向に向かいがちだった。願わくば、その
「苦労であったな。急かさぬから、ゆるりと話してみよ」
「は、はい、それでは。近々、深紅の呂旗を引き連れて、援軍に参上つかまつる。趙雲将軍は、殿にそれだけお伝えするようにと仰せでした。将軍の手勢は、すでに
「それは、まことか。はははっ。深紅の呂旗。呂布が、この曹操に味方するというのか。これは、僥倖である」
高らかに笑いながら、曹操は拳で腿を打っていた。
迷うべき時ではない。呂布の到来は、曹操にとってこれ以上ない好機といえるのである。
伝令は、軍師の勧めもあって、趙雲の出撃が決まったと言っていた。程昱、それに荀彧が、呂布の軍勢が信用に足ると判断したということなのである。ならば、自分はその力を存分に使ってやるべきなのだ。
呂布軍の騎馬隊は、少数であっても驚異的な突破力を発揮する。夏侯惇の負傷で陣立てを変えざるを得なくなっていたが、呂布の存在は自軍にとって追い風となることだろう。
こうなれば、数日のあいだに決戦に持ち込むべきだった。糧道を襲っている成果も、でてきているはずなのである。焦れてくれば、黄巾軍の中心戦力も、動くしかなくなる。動くしかなくなるような状況を、自分たちがつくりあげている。
大規模な戦に向けて、曹操の思考は急速に動きだしていた。