早足気味に、曹操が大路を歩いている。少々、時間が押してしまっている。それでも、約束してある刻限には間に合うはずだった。
「どうした? 遅れているぞ、姉者」
「う……、わかっているくせに。だが、自分ではどうすることもできないのだ。どうしたって、殿に出していただいたあれがな……」
「ふっ、うらやましい限りだよ。まあ、程々に頑張ってみるのだな」
たっぷりと射精されたばかりであるせいか、
春蘭が四苦八苦している間に、曹操は目当ての店にたどり着いていた。はじめから買うもの自体は決まっているから、迷いはなかった。店主を呼んで、指図をしていく。
「よいか主人。そちらの焼き菓子を、
「はい、承知いたしました。旦那、いつもありがとうございます。お気に召していただけたようで、なによりですよ」
「ああ、こちらとしても助かっているのだよ。お前のところの菓子を持っていくと、あれも少しは気安く接してくれるのでな。可愛らしい
「ははっ、そうでしたか。いや、そいつはいい。旦那の意中のお相手に想いが届きますよう、わたしも非力ながらお力添えをさせていただきますよ」
店の主人と気さくに語らう曹操。潁陰を訪ねた際には、ほとんど毎回この店で手土産を買っていくのである。後方から、話し声が聞こえている。春蘭が、ようやく追いついたようだった。注文した品を受け取ると、曹操はすぐにその場をあとにした。
数多くの名士が在住していることで、潁川郡は名を馳せている。なかでも、荀家は指折りの名門なのである。才知ある血筋。そういっても、過言ではないはずだ。
優秀そうな人物を取り上げて、論評を行う。名士たちの間で、近頃流行していることだ。とりわけ、
荀家の屋敷の前につくと、曹操はその門扉を叩いた。すぐに、使用人が顔を出してくる。屋敷を訪問することは事前に伝えてあるから、すんなりと敷地内へ入っていく。ここへは何度か連れてきているが、夏侯姉妹は外で待っていることがほとんどだった。春蘭が退屈しのぎに大剣を振っている音が、時折聞こえてくる。
「これは一刀殿。よく、いらしてくださいましたね。あら……? 一刀殿、少し触れますよ」
荀彧の母が、会うなり着物に手を伸ばしてくる。急いでいたためか、少々乱れがあったのかもしれない。春蘭と交わってきた後であることは、多分気づかれていないはずだ。
「お気遣い、痛み入ります。
「まあまあ、ありがとうございます。ですがあの子も、一刀殿のくださる菓子を気に入っているのだと思いますよ。口では文句を言いながらも、いつも自分が一番多く食べてしまうのですから。うふふ、
桂花というのが、荀彧の真名だった。あくまでも一応といった体で、曹操も真名を呼ぶことを許されている。
桂花の母は、貴人らしくたおやかに微笑している。歳を重ねてはいるが、上品さまでは失っていなかった。物腰が柔らかく、曹操もその人柄に甘えることは多かった。
「そういうところがあるから、俺もつい構いたくなるのですよ。それだけではなく、ときどき御母堂の淹れてくださる茶の味を思い出してしまうのです。それも恋しくて、潁川まで来ているのかもしれません」
「くすっ……。ほんとうに、一刀殿は女性をおだてるのが上手なのですから。ですが、期待にはお応えしなければなりませんね」
「楽しみにしていますよ。それでは御母堂、また後ほど」
案内を名乗り出た使用人に断りを入れ、曹操はひとり歩を進めた。他人の屋敷ではあるが、勝手はすでによく知っている。手入れの行き届いた庭を眺めつつ、廊下を奥まで進んでいく。
曹操が、鼻をすんと鳴らす。ふと、甘い香りがしているような気がしていた。庭には、
ぴったりと閉じられた扉。そこが、桂花の私室だった。王佐の才を持つと言われているくせに、子供のような仕掛けをするのが好きな少女なのである。見え透いた罠を曹操が見抜き、桂花が機嫌を曲げる。それが、いつものやり取りだった。理不尽というのは、このことを言うのだろうな、と曹操は心のなかで笑っている。
「入るぞ、桂花」
今回は、どんな準備をしてきているのだろうか、と身構える。
桂花だっていくらなんでも、部屋にまで落とし穴を掘ろうとは考えないはずだ。落とし穴ほど厄介なものはない、と曹操は過去の出来事を想起して表情を苦らせている。
自分が嵌るのであれば、それはまだいい方なのかもしれない。それならそれで、桂花としてもさぞいい気分に浸れることだろう。だが、現実はそうはならなかったのである。情けなく反響する悲鳴。最終的には、掘った本人がなぜか嵌ってしまうのである。そのくせ、自分に対する当たりばかりが強くなるのだから、いいと言えることはひとつもなかった。
一応警戒しつつも、勢いよく扉を開け放つ。特に、おかしなところはないようである。顔を正面に向けると、小ぶりな尻が目にとまった。肉付きでいえばまだまだ子供同然だったが、それで興味が薄れる曹操ではない。それに、ここまで無防備な桂花の姿を見るのは、初めてのことなのである。
「ちょっ、はあ……!? 嘘っ、どうしてアンタが……ッ!?」
「ほう。こうした対面の仕方は、はじめてではないか。そうか、ついにまともに迎えてくれる気になったのだな。嬉しいぞ、桂花」
前かがみとなっている桂花。
その前方には、大きめの鏡が置かれていた。硬い動作で、桂花がこちらに振り向いている。想像するに、鏡を見ながら髪を直していたのだろう。途中だったのか、ところどころ前髪が乱れてしまっている。
先ほど感じた、甘い香り。部屋に入ると、それがさらに強くなっていた。間違いでなければ、香を焚いていたはずなのだ。自分のために、桂花がこれほどの準備をしてくれているとは。
嬉しさのあまり、曹操はそのまま桂花に近づいていった。
「なっ……。ど、どうして勝手に入ってきたりするのよ! やだっ、こっちに来ないでってばっ! 変態な上に気が利かないなんて、ほんっと最低な男なんだから!」
罵声は立派だったが、余裕を持って受け止めることができた。ほんのりと赤く染まった頬。頭巾についている猫耳状の装飾が、ぺたんと垂れてしまっている。
「そう喚くな。可愛らしい顔が、台無しになるぞ」
「なっ、なななっ……!?」
振り上げられた小さな拳。桂花からしてみれば、決死の覚悟を宿した反撃だったのかもしれない。それを簡単に制すと、曹操はあやすようにして桂花の頭を撫でつけたのだ。
深緑色の瞳が、どうしていいのかわからずに揺れてしまっている。
そうして、口では弱々しくなにごとかを呟いているのだ。なに考えてんのよ、馬鹿。恐らく、そうしたことを言っているのだろう。
このまま、流れのままに桂花をわが物としてしまうべきなのか。獣の如く激しい情欲。それが、じわりと渦を巻いて広がっていく。抵抗を無視して抱き寄せてみると、ふわりとしたやわらかな感触を腕に感じることができた。
「あっ、うあっ……。だめ、だめだってば、一刀……」
か細い声に、耳朶を打たれた。
桂花の身体が、かすかにふるえている。冗談などではなく、こわがらせてしまったのかもしれない。桂花にはこれまで、自分の濁った部分はあまり見せてこなかったのである。
元々、男と接するのが得意な方ではないのだ。だとすれば、これは充分やりすぎということになってしまう。
「むっ、痛いではないか。やってくれたな、桂花」
「ふん、このくらいなんだっていうのよ。だいたい、全部アンタが悪いんでしょうよ。こんな風にちょっとでも隙を見せると、すぐさま孕ませようとしてくるんだもの。これだから、頭に精液がつまってる男は嫌なのよ」
右の頬に、まだ痛みが残っている。
気を緩めた瞬間に、強くつねられてしまったのである。けれども、これでよかったのだと曹操は思った。それは、桂花の安心しきった表情を見たせいなのかもしれない。
やはり、笑った顔がよく似合っている。そう思い、もう一度曹操は桂花の頭に手を伸ばした。
「ちょ、やめてって言ってるでしょ! ぐっ……。わたしの話を聞いてるの、一刀!?」
「いいから、このくらいさせておけ。おまえを、こわがらせてしまった詫びだ」
「ふんっ……。こんな詫び方をされたって、ちっとも嬉しくなんてないんだから。はふう……。あんたみたいな、女と見れば誰にでも発情するような男に、はあっ……ちょっと優しくされたからって、誰が……んうっ」
文句をぶちまけながらも、桂花は身体を離そうとはしなかった。眼を閉じながら小さく手を握った姿など、どちらかといえば甘受しているといえるのではないか。
ゆったりとした、時間の流れ。甘い香りが、思考を落ち着かせるために一役買ってくれている。桂花は、もしやこうなることを想定していたのだろうか。そうであれば、自分はその手のひらの上で踊らされているということになる。
「な、なによ、そんなに見つめて……。はっ……! まさかまた、わたしに乱暴しようっていうんじゃないでしょうね!?」
「考えすぎというやつだな、それは。しかし、おまえというやつが時々わからなくなってくる」
顔を寄せ、瞳を覗き込んでみる。何度見ても、美しいと思える瞳だった。
全身を強張らせ、桂花は警戒心をあらわにしている。それでも、逃げようとはしないのである。
「入りますよ、二人とも」
「ひゃ、ひゃいっ、母さま……!?」
桂花が、悲鳴にも似た声を上げている。部屋に入ってきたのは、桂花の母だった。両手で、茶と菓子の乗った盆を支えている。
「あのっ……。母さま、これはその……」
「うふふ。仲がいいのは、悪いことではないのよ、桂花。どうぞ、一刀殿。ゆるりと、喫されてくださいな」
「ありがとうございます、御母堂。ほら、桂花」
「ふんっ、調子に乗らないでよね。母さまにおかしな目で見られたくないから、さっさと離れてくれないかしら」
わざとらしく憤慨してみせる桂花のことを、母は笑って見守っている。この様子ではいつになるかわかったものではないが、娘にも嫁ぐ日が来るのだろう。そうして、その相手はこのままいけばきっと曹操になる。そんな風に、荀彧の母は思っていた。
机を挟んで対面するような格好で、曹操と桂花は席についていた。
桂花は菓子をひとくち食べると、茶を口に含んでいく。そうやって組み合わせるのが、好きなようだった。果物の皮を餡に練り込んであるから、後口が悪くない。この味は、曹操も嫌いではなかった。
毎回、この時間だけは穏やかになってくれるのである。よく観察していると、相好を崩しそうになっているのを、我慢しているようにすら思えてくる。
ちろり。指に付着した菓子の残滓を、桂花は舌で舐め取っている。やはり、かわいらしいところがある。曹操は、内心そう思いながら茶を啜っていた。
「で、最近はどうなのよ。都の動きは、ちゃんと探っているんでしょうね。まっ、一刀のことだから、あの色ぼけ姉妹と引きこもって、乳繰り合ってるだけなのかもしれないけど」
「ははっ、相変わらず手厳しいことをいってくれる。しかし、その認識は改めるべきだな。あの二人が色狂いに見えるのであれば、それは俺のせいなのだろう。何事にも、よく付き従ってくれているのだよ」
やんわりとだが、曹操は桂花の言を否定する。
どこかから、夏侯惇のくしゃみが聞こえてくるようだった。物怖じのない性分。武力で圧倒されるような相手であっても、桂花が遠慮をすることはなかった。
夏侯姉妹が外で待つようになったのも、その辺りに原因があるのだ。多少のことであれば聞き流すことのできる秋蘭はともかく、春蘭はこの手の煽りに真っ先に乗ってしまう。
「あっそ、仲がよろしいことで。それで、西園の改装が始まっている件は、耳に入っているのかしら」
「うむ、らしいな。司隸に残してある手の者から、報告は上がってきている」
桂花が、茶を飲んで喉を湿らせている。そのくらいの情報収集は、していて当然だ。言葉にはしなかったが、そういう顔をしている。現状
洛陽にある宮殿。その離宮に、西園と呼ばれる地があった。黄巾党のような猛威に対抗するため、西園一帯に手を入れ、帝直属の軍隊を設置しようという動きが起こっていたのだ。軍を新設すれば、当然兵たちの指揮を担当する将が必要となる。宮中で軍権を握るとなれば、それは大きなことだった。
「ふふん。その様子だと、それ以上のことは知らないんでしょ?」
「桂花は、なにか情報を掴んでいるのか。王佐の才と呼ばれるのは、伊達ではないな」
桂花が、誇らしげに薄い胸を反らしている。潁川郡は、洛陽からそう遠くない地なのである。それに名士連中は、独自の情報網を共有しているようだった。それは、曹操にはない強みである。
「軍の統括者となるのは、小黄門
「故郷に下がっている俺が、校尉の候補になっているというのか。ふん、宮中も広いようで、ひとがいないのだな。となれば、袁紹あたりもそうなのだろう。違うか、桂花」
小黄門というのは、宦官の役職名である。
表向きの理由がなんであれ、宦官たちの考えそうなことだと曹操は思う。大将軍何進に対抗するためには、やはり軍事力が必要だった。天子を担ぎ出せば、易々と反対されないことを宦官は知っている。蹇碩の下に若手の校尉をつけようとしているのも、その一環なのだろう。
「あら、理性の焼き切れたスケベ男のくせに、ちゃんとわかっているじゃない。家格から考えれば、袁紹が小黄門に続く立場になるんでしょうね。袁家の抱き込みも、あいつらは狙っているのかも」
「それは、無駄に終わるだろう。あれには飛んだところもあるが、誇りだけは一流なのだよ。もし袁紹が宦官に屈することがあれば、それこそ天変地異が起こりかねん」
「あははっ、なによそれ。だけど、心の準備だけはしておくことね。一刀だって、ずっと隠棲しているつもりはないんでしょ?」
「安い挑発には、乗ってやらんぞ。ただまあ、そうだな……。時勢の波が来たときには、俺は必ずそれを掴み取るつもりだ。だが、こんな話をするということは、力を貸してくれるのだろうな、桂花よ」
「ふんっ。ちょっと情報をあげたからって、つけあがらないでよね。わたしの才能の使いどころは、わたし自身が決めることよ。全身精液男に
鋭い動作で、人差し指を向けられている。
放たれる言葉自体は厳しかったが、今日はいい話をすることができたのだと思う。秋蘭の読みが正しかったことに、曹操は機嫌を良くしていた。
「お前ならば、そう返してくると思っていた。ン……。そろそろ、いい刻限なのかもしれんな。荀彧殿が大きな癇癪を起こす前に、俺はお暇させてもらうとしよう」
「ほんっと、一言多い色情魔なんだから。同じ空間にいて孕まされても嫌だから、さっさと帰ってちょうだいよ。見送りなんて、いらないわよね」
「ではな、桂花。近いうちに、また会おう」
軽やかに席を立ち、曹操は桂花の私室をあとにした。戸の向こう側から、甲高い声が聞こえている。二度と来なくていい、と桂花が叫んでいるようだった。
帰り際、曹操は桂花の母に挨拶をしていった。
泊まっていくように勧められたが、それは断った。長居してまた桂花の不興を買うことでもあれば、災難だとしかいいようがない。それに夏侯姉妹には、待っている間に宿を探してくるようにとも言いつけてあるのだ。秋蘭との約束もあるから、曹操としては宿で眠るほうが都合が良かったのである。
「それでは、一刀殿」
「ええ、御母堂。また、茶をいただきに参ります」
夕焼け空が眩しくて、曹操は手で日除けを作った。
開け放たれた門扉の外には、夏侯姉妹が控えている。剣を振るのにも飽きて、春蘭は昼寝でもしていたのだろう。なんとなく、その表情はぼんやりとしてしまっている。
再度会釈をしてから、曹操は荀家の屋敷を去った。香による、甘い香り。それを思い出しながら、曹操は宿までの道を歩いた。