とにかく、東に向かって進んでみる。
呂布がそう決めた瞬間から、運命の交差はすでにはじまっていたのかもしれない。
長安を出奔してから、ひと月程度が経過していた。行くあてのない旅路。それでも、呂布は満足だった。
すべてを忘れることなど、できるはずがない。けれど、少なくとも董卓は、ずっとのしかかっていた肩の荷をおろすことができている。それで、体調がかなり回復しつつあるのも、事実だった。この頃は、自力で馬に乗ることが多くなっている。かつてのような明るい表情も、垣間見えるようになっている。
「ここから先、どうするつもりなのよ、
馬を横につけて、賈駆が冗談を言った。
たしかに、いまは乱世なのである。呂布と張遼の騎馬隊の力を、どの群雄も欲しているはずだった。傭兵をしつつ流れ歩けば、銭を稼ぐことはたぶん容易なのだろう。それで、ついてきてくれた麾下たちにも、糧食を与えてやることはできるのだった。
「…………んっ。むずかしい話は、よくわからない。
「はあ、そうね。ほんとだったら、すぐにでもどこかで羽を休めたいくらいなのよ。ここ何日か、まともにご飯を食べられていないでしょ? ボクたちはともかく、一番しんどいのは乗せてくれている馬たちなんだ。そのことを考えると、あまり余裕はないわね」
「……ごめんね、赤兎」
呂布が小さくもらすと、腕に抱いている犬のセキトがわんと吠えた。きっと、自分が呼ばれたのだと勘違いしたのだろう。呂布を乗せている赤兎馬は、寡黙に脚を駆けさせ続けている。
館で保護していた動物のなかで、連れてこられたのはセキト一匹だけだった。長安に心残りがあるとすれば、動物たちのことだけなのである。あとを頼めるのは、華佗ひとりだった。動物たちは、元気にしているのだろうか。温かなセキトの身体をなでながら、呂布はちょっとため息をもらしている。
「恋さん」
「……あ、
「わたしは、恋さんの決めたことに従おうと思います。この命を永らえさせてくれたのは、ほかならない恋さんなんですから」
董卓という名を捨てた月は、呂布の女官ということになっている。
着ている服も、以前とは違い質素そのものだった。それでも、もともと有している凛々しさまで、消えてしまったわけではないのだ。
涼州にいた頃は、遠乗りをして狩りに興じることも珍しくなかったことを、呂布は思い出していた。弓を遣って獲物をとるのが、月は得意だった。
「ほら、月だってこう言ってるんだから、どうしたいか決めちゃいなさいよ。ボクも、恋の意志についていくつもりなんだからね」
左右から求められ、呂布は思わず蒼天を見上げてしまう。
どこに行っても、戦をするのは同じなのだろう。自分にできることといえば、それくらいしかないのである。
闘い、敵を殺す。それが、呂布奉先の生きる道だった。
わかれ道に差しかかり、呂布は赤兎の手綱を引き絞った。そのまま進めば
たぶん、心はずっと前から決まっていたようなものなのだ。
おかしなところがあるが、苦境を跳ね除けようとする気概のある男だった。
自分たちとの戦を生き延びた曹操は、現在
「曹操。曹操のところに、恋はいこうと思う。変なやつだけど、ちょっと優しかった。ご飯も、食べさせてくれると思う」
あの時逃してやった礼、などと言うつもりはない。その前に、呂布は曹操に肉まんを食べさせてもらっているのだ。戦場で斬らなかったのは、その礼を返しただけだった。
「曹操、ね。うん、わかったわ。だったら、兗州に向かいましょう」
「あの方とは、不思議な縁があるのかもしれないね、詠ちゃん。雨のなかで、帝を追っていたときからそれは続いている、とわたしは思うんだ。恋さんが肉まんをもらってきた時なんて、ほんとうにびっくりさせられたんだもの」
「なんだか、すべてが懐かしく思えてしまうわね。アイツと袁紹の出奔を許していなければ、いろんな結果も違っていたのかもしれない。そう考えると、ちょっと悔しいのかも」
「いいんだよ、詠ちゃん。一度でてしまった結果は、変えることなんてできないんだから。わたしたちは、やれることを精一杯やってきたと思う。そこに、なにも後悔はないよ」
そう言って、月は笑ってみせたのである。
それが、どこかぎこちない笑顔だったように呂布には思えていた。してきたことは、変えられない。だが、なにかをつないでいくことは、自分たちにもできるはずだった。
燃え上がるような、深紅の呂旗。それを、騎馬隊に堂々とかかげさせた。呂布奉先は、ここにいる。そう言わんばかりに、呂布軍は整然と兗州内部を進んでいく。
†
青州黄巾軍との闘いは、膠着しているようだった。
ほとんど毎日、伝令が
残された自分たちにできるのは、兵糧を絶やさず届けることくらいだった。周辺には、曹操の武威が行き届いているのだ。それに調練代わりだと言って、趙雲が各地に兵を走らせているから、叛乱など起きるはずがなかったのである。
体調が落ち着いた荀彧は、役所での仕事を再開させていた。表の仕事は、留守居をまかされた程昱がすべて取り仕切っている。それに対する助言と、細かな案件の処理。いま荀彧があたっているのは、それだった。
「失礼する。軍師殿、いま時間はお有りかな?」
「なによ、星。そんなの、見ればわかるでしょうに。それとも、これは嫌味かなにかなのかしら?」
読んでいた書簡を机に置き、荀彧は顔をあげた。
まだ特筆するような変化はなかったが、身体への負荷を考えて、ゆったりとした衣服を着用するようになっている。おのれの腹のなかに、曹操の子が宿っている。意識してしまうと、得も言われぬような気分になるのだ。
趙雲も程昱も、普段からなにかと気を遣ってくれるようになっている。それが、歯がゆく感じられてしまうのもたしかだった。
「ふっ、そう苛立つものではない。母親のそういった行動は、腹の子にもいい影響がないと聞くぞ?」
「……うっさいわね。それで、わたしになんの用があってきたのかしら。くだらないことを言いにきたってだけなのなら、早々に帰ってくれると助かるのだけど?」
「いやはや、おぬしのようなじゃじゃ馬を乗りこなしているのだから、主はやはり侮れんな。ときに
「やっぱり、アンタわたしを馬鹿にしているんじゃないの? 深紅の呂旗といえば、あの呂布の軍旗じゃない。それが、どうしたって……」
そこまで言って、荀彧はなにかに勘づいたように眉を動かした。趙雲は、相変わらず腹立たしい笑みを浮かべたままである。
どうしていま、深紅の呂旗のことを話題にあげるのか。董卓を討った呂布は、どこかに雲隠れしてしまっていた。余裕がある時なら、曹操はその行方を追わせたはずだった。呂布の持つ圧倒的な武勇を、いつか自軍のものとしたい。荀彧は、そんな話をかつて聞いた記憶があったのである。
「ちょっと、その顔いい加減やめなさいよ。きているのね、呂布が。それも、すぐ近くにまで」
「うむ。その鋭さ、さすがに桂花だな。警戒にあたっているわたしの配下が、先ほど呂布の侵入を伝えにきたのだ。して、どうすればよいかな? 全力であたれば、打ち払えなくはないと思うが」
「なにを考えているのか、知りたいわね。できれば、呂布を鄄城まで連れてきてもらえるかしら。だけど、あっちが仕掛けてくるのなら話はべつよ。禍根を断つためにも、余さず討ち取りなさい」
「承知した。では、わたしはさっそく行ってまいる。
「やっぱり、わたしが暇そうだから言いにきたんじゃない。けど、了解よ」
趙雲は、三千の部隊を編成するとすぐに出動していった。
騎馬はほぼ曹操が持ち出しているから、歩兵主体の軍勢なのである。それでも、趙雲が率いていれば、呂布とも互角に闘えるはずだった。
帰還を待っているあいだ、荀彧は城外に即席の陣を築かせるつもりで動いていた。
呂布の軍勢を、鄄城内部に入れるのは危険すぎる。かといって、営舎のひとつも与えないのでは、誠意に欠けると言っていい。
新兵を訓練するために、鄄城には于禁も残されていた。その于禁に、荀彧は築陣を命じたのである。
翌日、趙雲は鄄城にもどってきた。その後方には、呂布の軍旗が続いている。
「深紅の呂旗、見えてきたわね。思っていたよりも、すんなりついてきてくれたみたい」
「桂花ちゃん。
「まったく、しゃんとしていなさい、沙和。アンタだって、曹操軍の将のひとりなんだから」
「ううぅ、だってぇ……」
于禁は、呂布や張遼の強さを骨身に染みて知っている。
長安に遷都しようとする董卓を追って、曹操は決死の攻撃をしかけたのだった。その軍勢に、于禁は楽進や李典とともに参加していたのである。
あの時は、さすがにもうだめなのかと思ったものだ。夏侯惇たちに遅れて曹操も生還したが、矢傷を受けて満身創痍だったのである。曹洪の判断がなければ、そのまま呂布軍に飲み込まれていた可能性すらあるのだ。そういった意味では、曹操は悪運が強い。
「軍師殿。呂布殿を、連れてまいったぞ」
「ご苦労さま、趙雲。あなたが、呂布殿ね。わたしは荀彧。曹操のもとで、軍師をしているわ」
「……んっ。荀彧、曹操はどこ? 恋は、曹操に話したいことがあってきた」
「残念だけど、曹操はいま鄄城を空けているの。黄巾軍との闘いが、忙しくってね」
「黄巾軍? ……曹操は、ここにいない」
呂布は、曹操の不在を知らないようだった。
「しっかしまあ、ウチらが曹操んとこ邪魔するようになるとはなあ。趙雲、アンタもそう思うやろ?」
「ふっ。ひとの縁というのは、わからぬものだ。そちらの麾下は、腹を空かしているのではないか、張遼? 軍師殿たちが交渉をしているあいだ、こちらは飯にするとしよう。酒も、用意してやってもよいが」
「ふうん、アンタもいける口なんか、趙雲? ほんなら、悪いけど世話にならせてもらうとするわ。でやけど、腹ぺこなんは馬もおんなじでな。そっちも、よろしゅうたのむで」
「あははっ、よかろう。客人のもてなしに手を抜いたと知れば、主はきっとお怒りになるのでな」
「おっ、ほんまか? 世話になるぶん、アンタの主君には思いっきり戦で馳走したるで、趙雲」
自分の役目は、ここまでだ。そんな顔をして、趙雲は張遼を連れて営舎のなかへと消えていった。
それは、呂布に対する信頼の裏返しであるのかもしれない。胸襟を、開くべきときは全力で開く。いまはそれが得策だと、趙雲は言っているのか。
食事にいった張遼を、呂布がうらやましそうに見つめている。空腹なのは、呂布も同様なのだろう。腹を手でおさえてうつむいている姿は、かわいらしいという表現がよく似合う。
「……ったく。ここから先は、ボクが話を代わろうか。アンタも、なにか食べさせてもらってきなさいよ、呂布」
何度も首を縦に振ると、呂布はすぐに駆け出していった。こんな姿を見せられては、疑うほうが無理があるのだ。本能のままに、呂布は生きているようなものなのだろう。それが、荀彧には眩しいくらいだった。
呂布の代わりにでてきた女は、賈駆と名乗った。賈駆といえば、董卓股肱の臣で、軍師をつとめていたような人物なのである。呂布の叛逆には、なにかべつの真意があったのではないか。曹操が感じていたように、荀彧もそう思うようになってきている。
「立ち話もなんだし、わたしたちも場所を変えましょうか。あっちに、席を用意してあるのよ」
「ええ、そうしてもらえると助かるわ。呂布ほどじゃないけど、ボクも疲れてしまっているのかも。逃げるっていうのは、楽なものじゃなくてね」
日陰にはいり、荀彧は賈駆に胡床を勧めた。周囲は、曹操軍の兵がかためている。一応、于禁もすぐそばに控えさせていた。
「単刀直入に聞かせてもらうけど、呂布殿が董卓を斬ったというのは真実なのよね、賈駆殿? 本人を見ていると、その考えがどうにも揺らいできてしまうのよ。あんな呑気そうな顔をしている女が、ほんとに主君を斬れるのかってね。それに、呂布殿と董卓はかなり懇意にしていたそうじゃない。曹操から、そんな話を聞いたことがあるのよ」
「董卓は、死んだよ。間違いなく、死んだんだ」
「そっ? 董卓の軍師だったあなたが言うのだから、それが正しいんでしょうね」
「ちっ……。あなたがどう思おうと、董卓は長安で死んだのよ、荀彧殿。あの日のことは、それ以上でも、もちろんそれ以下でもない。ただ、それだけのことなんだから」
「まっ、いいでしょう。わたしは、べつにそのことを詮索するつもりなんてないのよ。知りたいのは、ひとつだけ。呂布殿が、なにを求めてわたしたちの領地にはいったのか。それだけは、聞かせてもらいましょうか」
賈駆の反応を見ていれば、おおよそのことがわかってくる。
確信に近いようなものが生まれていたが、荀彧はそこから先のことをなにも言わなかった。誰にだって、探られたくないことはあるのだ。そして、それを問うのは自分ではなく、曹操の役目なのである。
「呂布のことを見ていれば、わかるでしょ? あの子は、ほんとうに純粋な子でね。曹操殿であれば、ボクたちのことを助けてくれるかもしれない。兗州にきたのは、本心からそう思っただけにすぎないのよ」
「なるほどね。そうでなければ、一食の恩義のために戦場で相手を逃したりはしない、か。ふっ、おもしろいじゃない。呂布殿に、張遼殿。ああいった武人が、曹操は根っからの好みでね。戦の手助けをしてくれるのであれば、わたしたちに保護を断る理由なんてないわ。いま、曹操は百万の黄巾軍と、兗州東部で対峙しているのよ。その膠着を破る一石に、呂布軍はなるかもしれない。立場は、わたしが責任をもって保証してあげる。それで、どうかしら?」
「百万の、黄巾軍。ふふっ、乗ったわ、荀彧殿。呂布も張遼も、戦にでる覚悟はとっくにできているもの。あの二人なら、誰が相手だろうと怯むことなんてないはずよ。その気持ちは、もちろんボクだって同じだけどね。これ以上、失うものなんてなにもないから」
「なんだ、案外前向きなんじゃない、あなたも。だったら決まりね。なら、あなたには裏方の仕事の手伝いをしてもらいましょうか。兵糧や武具の手配なんかで、やることはいくらでもあるのよ」
「いいの? ボクみたいなよそ者を、組織の内側に立ち入らせることになるんだよ?」
「そんなくだらない理由で、使える人材を遊ばせておくことのほうが、曹操にとっては許せないのよ。それとも、なにかおかしな真似をするつもりでもあるのかしら、賈駆殿には?」
「まさか。ボクにだって、仁義はあるんだ。そこまで言ってもらえるのなら、力になってみせないとね」
「だったら、期待させてもらいましょうか。あとで程昱にも引き合わせるから、それまでは休んでいてくれて構わないわ」
賈駆は、他者を陥れるような策士に向いた人柄をしていない。会話をしていて、荀彧が思ったことだった。
感情が、よく顔にでてしまうのだ。それだけに、いまは信頼を置くことができる。董卓の生死を質問した時も、そうだった。
呂布の率いてきた人数のどこかに、董卓がいるのか。周囲を見渡してみるが、荀彧は董卓の顔を知らなかった。
そのなかで、ひとりと眼があった。格好としては、女官である。雰囲気はやわらかだが、その眼はなにか強さを秘めている気がしたのだった。しかし、荀彧はこの場で深く追求するつもりはなかった。別段、曹操は董卓の首を求めているわけではないのだ。
連合軍として対峙した時は、董卓が力をもっていた。洛陽でも、帝の争奪に敗れたという思いがあったのである。いまの董卓には、それがない。生き延びていたとして、その首になんの価値があるのか。曹操ならば、そう言うに決まっている。
「それにしたって、ボクは曹操殿と直接の面識があるわけじゃないけど、呂布の人物評もあながち大外れって感じではないのかもしれないわね」
「呂布殿がなんと言っているのかは知らないけど、あいつには滅多に気を許さないほうがいいと思うわよ。わたしが助言してあげられるのは、それだけね」
「へっ? それって、どういう……」
交渉はまとまった。
腹のあたりを大事そうにさすりながら、荀彧は胡床から立ち上がった。事情を知らない賈駆は、その様子を不思議そうに見あげている。