※この作品はR-18です。

恋姫異天記~曹操伝~   作:KKS

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後半の流れを、人和との睦み合いで終わるように変更(21/06/08)


二十四 消せない慕情

 膨大な敵軍を相手取り、曹操はいまも果敢に闘っている。

 本来ならば自分も出撃し、合力して撃退すべき敵だった。青州黄巾軍の問題は、(えん)州だけのものではない。密約を結んで日和っている徐州はともかく、冀州にその矛先が向けられていてもなんら不思議ではなかったのだ。

 (ぎょう)に建設した宮殿の一室。そこで侍女に琵琶を奏でさせ、袁紹は物思いに耽っていた。

 曹操。あの男に対する感情が、自分のなにかを狂わせている。ひとりで考えていても、結論がでることはなかった。この感情は、ある種の呪縛のようなものなのか。それが、ずっと胸のあたりを巡っている。

 こうなるはずでは、なかったのだ。連合軍を立ち上げ、董卓との闘いをはじめたところまでは、うまくいっていた。それが、気づけばひとりきりになってしまっていたのだ。

 かつての日々。曹操が呂布と剣を交えたと聞いた時、身体が芯から冷えるような思いをしたことを覚えている。湧き上がる不安を、自分は抑えきれないでいたのだろう。それとも、もっとそばにいて欲しいと願っていたのかもしれない。虎牢関にいた軍勢を呼び戻した時から、崩壊ははじまっていたのだ。洛陽炎上。その報を受けた袁紹は、しばらく立ち上がれずにいたのだった。

 それから、時が流れた。

 旧くから袁家に仕える臣のなかには、宦官の家の子だと言って曹操を軽んじる者がいる。だが、そんなことになんの意味があるのだ、と袁紹は思うのである。

 生まれだけで言えば、自分の母もたいした身分ではなかった。袁術が自身の派閥を大きくしていったのには、そういった事情が関係していないわけではなかったのである。それでも、自分は当主として立っている。冀州を治め、天下を睥睨することができている。

 音色が、ちょっと煩わしく感じられた。袁紹の不機嫌を察したのか、侍女たちは演奏を止めている。室内に、一時の静寂が訪れた。

 

真直(まあち)です、麗羽(れいは)さま。お伝えしたいことがあり、参上いたしました」

「そこでお待ちなさい。部屋にいるのにも、飽きてきたところなのです。あなたのお話は、散歩をしながら聞いてあげることにいたしますわ」

 

 支度を整え、袁紹は部屋をでた。

 宮殿の内側でなにかあるとは思えなかったが、護衛が五人離れずについてくる。すべて女で、側仕えしている者のなかから、顔良が選び出したのである。それだけに、剣の腕は全員が確かだった。

 一歩下がって、田豊は袁紹のあとを追っていた。以前よりも、浮つくということが少なくなってきているように思う。それだけ、田豊は落ち着きが増してきているのだろう。

 それは、なにか思い定めていることが、あるからなのか。曹操への物資の提供を発案してきたのも、この田豊だった。

 文醜が率いていった使節団には、荀彧の母も同行していた。それで、過去に曹操と交わした約束を、袁紹は思い出している。

 

「麗羽さま。曹操殿と黄巾軍の闘いは、拮抗しております。近頃戦場では、援護に出た袁紹軍が北から黄巾軍を脅かす、などといったうわさも流れているようでして」

「うわさは、所詮うわさでしかないということですわね。どうせ、曹操さんが間者を使って拡めたのではありませんの? わたくしたちには、なんら関係のないことですわ」

「おそらく、麗羽さまのお考えの通りでしょう。しかし、そんな眉唾ものの流言が現実となれば、黄巾軍は大いに慌てるはずではありませんか? そうなれば、曹操殿にかかっている負担も、いくらか軽くすることができるのです」

「なにを考えていますの、真直? そんなことをして、黄巾軍にこの冀州を荒らされたら、どうするというのです。それに、あちらから正式な打診を受けているわけでもないのです。どうして、わたくしがそんなことを」

「ですから、われらはあくまで国境に兵を集めるだけでよいのです。青州にも兗州にも、立ち入る必要などありません。ただ、そこで調練をしているだけで、賊軍に圧力をかけることができるのですから」

 

 動じず、田豊は献策を続けている。

 確かに、五万ほどの軍勢を平原郡あたりにまで出動させるだけで、黄巾軍は袁紹軍の動きを気にせざるを得なくなるのだろう。だが、やはり気が乗らない。

 曹操自身が懇願してきているのであれば、考えてやらないこともなかった。

 結局、自分は駄々をこねているだけなのかもしれない。あの日、勝手を言って出ていった曹操のことを、許せない自分がいるのだ。だが、同時にそれでこそ曹操だ、と感じてしまっているのも確かだった。

 

「いまも、曹操殿のことをお考えになっているのではありませんか、麗羽さま?」

「知りませんわ。なにを考えていようと、わたくしの勝手でしょう」

「ふふっ、ですね。けれども、決めきれておられないのは、曹操殿も案外同じなのではないでしょうか。猪々子(いいしぇ)が、言っていたんです。運び入れられてきた物資を、曹操殿は笑って受け入れられたのだと。曹操殿は、心底嫌っている相手からの施しを、(がえ)んじるようなお方ではありません。そのことは、麗羽さまがもっともよくご存知なのではありませんか?」

「むっ……。言ってくれますわね、真直。ですが、いいでしょう。あなたの強情に免じて、今回はわがままを許して差し上げますわ。ただし兵を動かすのであれば、断じて冀州に戦乱を持ち込んではなりません。それだけは、肝に銘じておきなさい」

「感謝いたします、麗羽さま。采配は、わたしが現地にいって直接するつもりです。それから、斗詩(とし)をお借りしても?」

「好きになさい。このわたくしが、あなたにまかせると言っているのです。誰にも、反論なんて述べさせませんわ」

 

 ふと、池のそばまできていることに袁紹は気がついた。

 宮殿のなかでも、ここは好きな場所だった。静かにたたずむ水面を見ていると、どこか心が落ち着くのである。造営の途中、気まぐれでつくらせたようなものだったが、それがかえってよかったのかもしれない。最近だと、散歩の際は必ず訪れるようにしている場所だった。

 近づいた。うっすらと自分の姿が見えてくる。

 水面をのぞき込んだ。

 そこには、穏やかな表情をたたえている自分がいた。見ているとおかしくなり、袁紹はちょっとほほえんでしまう。

 何日か前も、こうして水面をのぞいてみたことがあった。その時は、確かこんな顔をしていなかったはずである。小さな変化だったが、袁紹にとっては大きなことだった。直視していると、どうにもむず痒くなってきてしまう。後ろにいる田豊は、なにも言ってこない。

 

「なにをしているのでしょうね、わたくしは」

 

 自分に対する問いである。応えが、返ってくることはなかった。それはつまり、なにかしらの結論がもうでているからなのか。

 静かだった水面が揺れる。

 視線をあげた先。二羽の水鳥が、仲睦まじく寄り添い合って泳いでいる。

 

 

 どうにも、落ち着かない。

 なし崩し的に曹操軍の陣営にまで同行することになったのだが、人和(れんほう)は息苦しさを感じていた。

 歩哨の行き交う声。それが、歩いていると方々から聞こえてくる。許緒に、大丈夫かと声をかけられた。

 曹操の名を、知らないわけではなかった。太平道の組織内にいた時から、その奮戦を耳にしていたのだ。

 まさか自分が、その曹操麾下の将軍を治療することになるとは。あれから、夏侯惇は驚異的な回復力を見せるようになっていた。見舞いにきた馬超が、曹操の言葉が大きかったのだろうと言っていた。それでは、まるで妖術ではないか。

 しかし、日ごと夏侯惇は気力を取り戻すようになっている。それで、許緒が曹操に目通りすることになったのである。一度断ったが、許緒はどうしても自分についてきてもらいたかったようだ。知らない場所で、心細さがあるのだろう。恩人に懇願されては、捨て置くことなどできなかった。

 

「曹操さまってどんな人なんだろうね、人和(れんほう)ちゃん。まさか、いきなり斬られたりなんてしないよね!?」

「さすがに、それはないと思うわよ。だって、春蘭(しゅんらん)さん直々の申し入れなんでしょう? それに(すい)さんも、曹操さまが怒っているだなんて、一言も言っていなかったじゃない」

「だ、だよねえ? だったら、ひとまずは安心かな」

 

 ここにきて、真名をあずかることが多くなっていた。

 夏侯惇と馬超。どちらも、気のいい軍人だった。自分のやった素人同然の治療に対する、感謝のしるしなのだという。そう言われてしまうと、人和としても拒絶はできなかった。

 

「はにゃ? おまえ、誰なのだ」

「そっちこそ、誰なのさ。ボクは、曹操さまに用があってきたんだけど?」

「お兄ちゃんに? むむっ。春巻きみたいな頭して、おまえなんだか怪しくないかー?」

「はあ? ちょっと、言ってる意味がわからないんだけど、このちびっこ!」

「なにをー!? 春巻き、おまえやっぱり怪しいのだ。変なことをする前に、鈴々(りんりん)がとっ捕まえてやるから、覚悟しろ!」

「ちょ、ちょっと、季衣(きい)!?」

 

 仲裁する間もなく、取っ組み合いがはじまってしまう。

 鈴々と名乗った少女は、許緒に劣らないほどの腕力を備えているようだった。どちらも、一歩も退かないつもりなのである。

 曹操の陣屋の前であるから、すぐに護衛の兵が駆けつけてくる。相手は、曹操軍の将軍なのかもしれなかった。

 

「ぐぬぬっ。こ、こいつめー!」

「おまえ、あんがい力もちなのだ。でも、このくらいじゃ鈴々は負けないもんね!」

 

 ふたりの取っ組み合いは、さながら一騎討ちの様相を呈している。

 集まってきた兵たちも、下手にとばっちりを食らいたくないのだろう。ほとんどが遠巻きに見ているだけで、誰かが止めにくるのを待っているようなのだ。

 

「張飛、おまえなにをやっている」

「うぅうう……。鈴々いま忙しいから、姉者はちょっと黙ってて」

「馬鹿者。ここが、曹操殿の陣屋の前だと理解していないのか。おまえが軍勢の和を乱せば、劉備さまにだって迷惑がかかるのだぞ。そのことを、よく考えてみろ」

「お、お姉ちゃんに? だったら、鈴々もうやめる! 春巻きも、今日はここまでにしておいてやるのだ」

「ちびっこめ、無茶苦茶なことばっかり言いやがってぇ……!」

 

 鈴々というのは真名で、少女は張飛というようだった。

 その張飛がいきなり力を抜いたために、許緒は前のめりになって地面に倒れ込んでしまう。

 

「まったく、なんなんだよ、もう」

「鈴々、お兄ちゃんを守らないとって思ったの。お姉ちゃんが大切なのは当たり前だけど、お兄ちゃんにだって傷ついてもらいたくないんだもん」

「というか、おまえの言うそのお兄ちゃんって、曹操さまのことなんでしょ? さっきも言ったけど、ボクは曹操さまに呼ばれて会いにきただけなんだよ。それを、邪魔するなんてさ」

「曹操殿に? わたしの妹分が、失礼なことをしてしまったようだ。そのことを、どうか謝らせてもらいたい。わが名は関羽、こっちの小さいのが、張飛という。そちらの名を、聞かせてもらってもよいだろうか?」

「まっ、いいけどさ。ボクは許緒。よろしくね、関羽さん。張飛も、一応よろしくしてあげたって構わないけど?」

「うむ、許緒か。そなたの広い心に、感謝せねばな。ほら、おまえも頭くらい下げないか、張飛」

「ううっ、ごめんなさい、なのだ」

 

 一件落着、と言っていいのだろうか。

 とにかく、ふたりの争いは収まった。関羽はほんとうに申し訳なさそうにしており、上からものを言っているような感じはしなかった。

 

「騒ぎが聞こえたからきてみたが、これはどういうことなのだ」

 

 陣屋のなかから、ひとりの男が姿をあらわした。

 振る舞いからして、あれが曹操なのだろう。張飛も、関羽に叱られた時以上に縮こまっているようだった。

 

「この許緒と申す者ですが、曹操殿がお呼びになったということに、相違ございませんか?」

「ああ、そうだ。夏侯惇から、話は聞いている。見どころがあるから、一度会ってやって欲しいとな」

「やはり、そうでしたか。あろうことか、張飛がその許緒の邪魔立てをしてしまったのです。人を見る眼を磨け、と普段から言ってはいるのですが、あまり効果がでていないようで」

「ごめんなさいなのだ、お兄ちゃん。鈴々、悪いやつを通しちゃいけないと思って、それで」

「気に病むことはない。その様子だと、許緒はおまえと対等に闘ってみせたのだろう? であれば、よい力試しになったのだと思う」

「ふえっ……。お、怒ってないのだ、お兄ちゃん?」

「よい、と言っているだろう。それにおまえを叱っていいのは、この関羽殿か劉備殿くらいのものだ」

「むっ。いつ仲良くなられたのかは存じませんが、あまり張飛を甘やかさないでいただきたいものですな、曹操殿。張飛、おまえも、劉備軍の将のひとりだという自覚をいま一度持つようにせよ」

 

 笑っている曹操に対し、関羽は怒り心頭といった様子なのである。

 両者の間には、微妙な関係性があるのだろう。劉備が率いている軍というのは、ほとんど義勇兵の集まりなのだと聞いている。それだけに、関羽は求心力の低下をおそれているのかもしれない。

 心というのは、熱しやすく冷めやすい。そして熱しすぎた心は、想定をこえてどこまでも突き抜けてしまう。そのことを、人和はよく知っているのだ。

 

「とにかく、ここでは落ち着いて話もできん。許緒、おまえもなかに入れ」

「い、いいの? えと、人和ちゃん」

「行ってくればいいわよ。わたしは、このあたりで待たせてもらっているから」

 

 去り際、人和は曹操と眼が合った。

 どうして、いままで気づかなかったのだろうか。激しさすら感じさせる、鋭い視線。それは、忘れられるものではないはずだった。

 雨のなかで、出会った男。打ちひしがれていた自分を、汚してくれた男。それが、すぐ近くにいるのである。

 

「そんな、そんなことって」

 

 あっという間のことで、うまく声が出せなかった。

 曹操が、あの時の男だったのか。信じられないという思いが、まだ強かった。それに、鮮明に記憶しているのは自分だけで、相手は覚えていない可能性もあるのだ。

 むなしくなるとわかっていても、感情は大きく揺れ動いていく。願っていても、実際に会えるとは思っていなかったのである。

 馬超の言葉を、人和は思い出していた。やってみなければ、わからない。確かに、そうだと思わされている。馬超と遭遇し、夏侯惇の怪我を見なければ、こうなり得ることはなかったのである。

 許緒は、曹操に仕官すると決めたようだった。

 自身をかばうようなかたちで、夏侯惇が眼を失ったという事実もある。それで、なにか役に立てればと考えているようだった。許緒の武は、村にいたのでは活かせない。ここで曹操と出会ったのは、許緒にとっても天命のようなものであるのかもしれなかった。

 そしていま、許緒と入れ替わるようにして、人和は曹操の陣屋のなかにいた。

 警護についているのは、典韋と呼ばれた将だけだった。その典韋も入り口近くに立っているから、大声で話さないかぎり詳細が聞こえることはない。

 

「あの、曹操さま」

「まさか、あの時の女とこのような場所で再会するとはな。元気にしていたようで、嬉しく思う」

「覚えてくれていたの? わたしなんかのことを、ほんとうに」

「忘れられるはずがなかろう。俺も、そなたに会いたかった。しかし、探す手立てがなかったのだよ」

 

 当たり前だと言うように、曹操はほほえんでみせている。

 嫌味な感じのしない男だった。雨の日のことを、変にねちっこく語ろうとはしない。ただ、自分が息災にしていたことを、素直に喜んでくれているようだった。

 

「俺のことは、一刀と呼べばいい。人和といったな。あの日のおまえを、俺は放っておくことができなかった。寂しそうでいて、苦しんでいるようにすら見えてしまったのだよ。それで、あのようなことをした」

「一刀さん、か。さっきのあなたの真似をするわけではないけど、謝る必要なんてどこにもないの。あの時のわたしは、潰れかかっていた。だから、一刀さんの行いによって、逆に助けられたようなものなのよ。それに、無理矢理ではあったけれど、あなたは温かかったもの」

「無理矢理だったというのは、否定しないのだな。だが、そうか。男の身勝手な振る舞いが、なにかを救うこともある。わからぬものだな、人というのは」

「誰だってわかるはずがない。わからないから、みんなもがくのよ」

 

 曹操と話していると、身体の奥のほうが熱くなっている。たぶん、気のせいではないはずだった。

 

「一刀さんに、聞いてもらいたいことがあるの。あなたの闘っている黄巾軍。わたしは、かつてそこに属していたのよ。というより、信奉される対象のひとりだったと言うほうが、より正確なのかもね」

 

 曹操の眉が、かすかに跳ねた。

 自分が張梁だということを知られて、殺されてしまう可能性がないわけではなかった。だが、それでも伝えるべきだと思わされてしまったのだ。曹操の度量。そこに、人和は賭けてみたくなってしまったのかもしれない。

 らしくないとは思う。それに、自分は一度黄巾軍を捨てているのである。いまさら、なにができるのか。なにかをする、資格があるのか。

 いまの黄巾軍は、力の向ける先を見失ってしまっている。

 かつて蜂起した時は、漢を確実に打倒することを狙って、各国で一斉に立ち上がったのである。だが、青州黄巾軍の進む先に、なにがあるのか。きっと、待っているのは破滅なのだろう。人和には、そうとしか思えなかったのである。

 現在ですら、片田舎にある村を襲わなければならないほど、黄巾軍は食料不足に苦しんでいるのだ。それにかつてとは違って、乱世は群雄の時代を迎えつつあるのではないか。

 民衆の叛乱。やがてそれは徹底的に締めつけられ、壊滅させられるのだろう。その見せしめとするには、黄巾軍はうってつけだった。そうなってからでは、打てる手などなにもないのだ。

 

「何年も前のことだけど、あなたには聞き覚えがあるんじゃないかしら? 張梁。それが、わたしの名よ。ほんとうは、人和というのが真名でね」

「張角の妹だという、張梁か。その眼、嘘を言っているわけではなさそうだな。おまえには、なにか秘めていることがあると思っていた。それがあるから、より魅力的に見えてしまったのかもしれん」

「おかしな人ね、一刀さんは。わたしが張梁だと教えてあげても、なにもしてこないのだから」

「名を捨てた女を殺したところで、なにが変わる。黄巾軍はおまえたちの手を離れ、けものになったと言っていい。ははっ。兗州を背負う者として、俺は大地を食い荒らすけものを、駆逐せねばなるまい」

「あれだけの数になった黄巾軍を、本気で駆逐できると思っているの? いいえ。その顔、もっとべつなやり方を考えているのではないかしら」

 

 捨て去ったはずの感覚。身体の奥底から、蘇ってくるようだった。

 武力だけでは、百万の黄巾軍を止められない。敗走させ、青州に追い返したところで、また結束されて反撃にあうのが眼に見えているからだ。

 曹操が、ちょっとほほえんでいる。どのような反応を返すか、自分は試されていたのか。

 

「あの者たちには、力がある。しかし、そこに志がなければ、力はなんの意味もなさぬのだ」

「自分には、その志がある。そう言いたいのかしら、一刀さんは。傲慢だけど、乱世を駆けるためにはそのくらいの覚悟が必要なんでしょうね。わたしには、わからないことだわ」

「世を変えたいと思うのは、悪いことではない。されど、黄巾軍の闘いは乱世を呼ぶだけだ。その終熄(しゅうそく)を願うのであれば、違う道を選ぶ必要があるのではないかな、人和」

「口がうまいのね、一刀さん。でも、その考えは間違っていないのかもしれないわ。黄巾軍のみんなは、乱世を終わらせる方法を知らない。そして、少なくともあなたは、それを知っているのね」

「講和に持ち込むにしても、まずはやつらの自信を砕かなくてはならん。そのための戦を、俺はするつもりなのだ」

 

 曹操に、瞳の奥底までのぞき込まれているようだった。

 やはり、敵わない。抱かれ、肉欲を呼び覚まされた時から、こうなることは決定づけられていたのかもしれない。

 

「抱きしめてもいいか、人和。ははっ、そんなに身体を強張らせるほどのものではないぞ? 安心しろ。それより先のことは、なにもしない」

「んっ……。わたしをからかって愉しんでいるのね、一刀さん?」

「そうではない。おまえといられた時間は、ほんの一瞬でしかなかったのでな。こうしていなくては、また消えてしまうのではないかと、急に心配になってきたのだ。どこにも、いくまいな?」

 

 すべてを捨てた自分に、なにができるのか。恨まれていても、おかしくはなかった。それに、どこかで生きているかもしれない二人の姉は、自分の行いをどう見るのだろうか。

 けれども、自分はここにいる。不可思議な縁で、曹操と結ばれてしまってもいる。そんな自分でなければ、できないことがあるはずだった。

 それをやるための勇気。曹操から、少しわけてもらいたいと思っているのか。

 胸が高鳴る。曹操の顔を、まともに見ることができなかった。

 

「ねっ、一刀さん。くち、吸ってもらいたいな。あっ、そのっ、もし嫌でなければだけっ……、んっ、んふぅ、ちゅむ……。ふはぁ、あっ。かずと、さっ……んぅ」

「力を抜いていろ、人和。案ずることはない。俺が、ずっと抱きしめておいてやる」

 

 心に秘めていたはずの声。それが、不意にもれてしまったとでも言えばいいのか。

 唇。曹操に覆われた熱で、焦がされていくようだった。自分の求め方など、児戯に等しいのではないかと人和は思う。おずおずと唇を甘く噛み、唾液をねだってみた。曹操には、なにもかもを見透かされているのかもしれない。舌が入ってくる。唾液を口内に塗りつけられていると、かすかな甘い痺れが全身に拡がっていくようなのである。

 不安に思っていた心。それが、急速に温められていく。

 実を言うと、自分はずっとこうされたがっていたのかもしれない、と人和は思うのである。あの日と同じか、それ以上に力強い抱擁。曹操には、今日まで積み重ねてきたなにかがあるのだろう。それが骨子となって、人を大きく映し出すのである。自分は、小さかった。だからこそ、こうして誰かの胸に(いだ)かれることだってできる。

 口づけを終えてからも、しばらくのあいだ抱擁は続いた。

 言葉は、もはや必要ないように思えていた。曹操の大きな手のひらで、頭を何度もなでられている。それだけで、自分は胸を満たされてしまうのである。

 

「一刀さん」

 

 曹操の真名を呼んでみる。

 長い間、知り得なかった名前だった。

 

「どうした、人和?」

「いいえ、なんでもないの」

 

 間の抜けたようなやりとり。そんな何気ないことを喜んでいる自分がいることに、人和は気がつくのだった。

 歩哨たちの合図し合う声。陣屋の外からは、それだけが聞こえている。

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