膨大な敵軍を相手取り、曹操はいまも果敢に闘っている。
本来ならば自分も出撃し、合力して撃退すべき敵だった。青州黄巾軍の問題は、
曹操。あの男に対する感情が、自分のなにかを狂わせている。ひとりで考えていても、結論がでることはなかった。この感情は、ある種の呪縛のようなものなのか。それが、ずっと胸のあたりを巡っている。
こうなるはずでは、なかったのだ。連合軍を立ち上げ、董卓との闘いをはじめたところまでは、うまくいっていた。それが、気づけばひとりきりになってしまっていたのだ。
かつての日々。曹操が呂布と剣を交えたと聞いた時、身体が芯から冷えるような思いをしたことを覚えている。湧き上がる不安を、自分は抑えきれないでいたのだろう。それとも、もっとそばにいて欲しいと願っていたのかもしれない。虎牢関にいた軍勢を呼び戻した時から、崩壊ははじまっていたのだ。洛陽炎上。その報を受けた袁紹は、しばらく立ち上がれずにいたのだった。
それから、時が流れた。
旧くから袁家に仕える臣のなかには、宦官の家の子だと言って曹操を軽んじる者がいる。だが、そんなことになんの意味があるのだ、と袁紹は思うのである。
生まれだけで言えば、自分の母もたいした身分ではなかった。袁術が自身の派閥を大きくしていったのには、そういった事情が関係していないわけではなかったのである。それでも、自分は当主として立っている。冀州を治め、天下を睥睨することができている。
音色が、ちょっと煩わしく感じられた。袁紹の不機嫌を察したのか、侍女たちは演奏を止めている。室内に、一時の静寂が訪れた。
「
「そこでお待ちなさい。部屋にいるのにも、飽きてきたところなのです。あなたのお話は、散歩をしながら聞いてあげることにいたしますわ」
支度を整え、袁紹は部屋をでた。
宮殿の内側でなにかあるとは思えなかったが、護衛が五人離れずについてくる。すべて女で、側仕えしている者のなかから、顔良が選び出したのである。それだけに、剣の腕は全員が確かだった。
一歩下がって、田豊は袁紹のあとを追っていた。以前よりも、浮つくということが少なくなってきているように思う。それだけ、田豊は落ち着きが増してきているのだろう。
それは、なにか思い定めていることが、あるからなのか。曹操への物資の提供を発案してきたのも、この田豊だった。
文醜が率いていった使節団には、荀彧の母も同行していた。それで、過去に曹操と交わした約束を、袁紹は思い出している。
「麗羽さま。曹操殿と黄巾軍の闘いは、拮抗しております。近頃戦場では、援護に出た袁紹軍が北から黄巾軍を脅かす、などといったうわさも流れているようでして」
「うわさは、所詮うわさでしかないということですわね。どうせ、曹操さんが間者を使って拡めたのではありませんの? わたくしたちには、なんら関係のないことですわ」
「おそらく、麗羽さまのお考えの通りでしょう。しかし、そんな眉唾ものの流言が現実となれば、黄巾軍は大いに慌てるはずではありませんか? そうなれば、曹操殿にかかっている負担も、いくらか軽くすることができるのです」
「なにを考えていますの、真直? そんなことをして、黄巾軍にこの冀州を荒らされたら、どうするというのです。それに、あちらから正式な打診を受けているわけでもないのです。どうして、わたくしがそんなことを」
「ですから、われらはあくまで国境に兵を集めるだけでよいのです。青州にも兗州にも、立ち入る必要などありません。ただ、そこで調練をしているだけで、賊軍に圧力をかけることができるのですから」
動じず、田豊は献策を続けている。
確かに、五万ほどの軍勢を平原郡あたりにまで出動させるだけで、黄巾軍は袁紹軍の動きを気にせざるを得なくなるのだろう。だが、やはり気が乗らない。
曹操自身が懇願してきているのであれば、考えてやらないこともなかった。
結局、自分は駄々をこねているだけなのかもしれない。あの日、勝手を言って出ていった曹操のことを、許せない自分がいるのだ。だが、同時にそれでこそ曹操だ、と感じてしまっているのも確かだった。
「いまも、曹操殿のことをお考えになっているのではありませんか、麗羽さま?」
「知りませんわ。なにを考えていようと、わたくしの勝手でしょう」
「ふふっ、ですね。けれども、決めきれておられないのは、曹操殿も案外同じなのではないでしょうか。
「むっ……。言ってくれますわね、真直。ですが、いいでしょう。あなたの強情に免じて、今回はわがままを許して差し上げますわ。ただし兵を動かすのであれば、断じて冀州に戦乱を持ち込んではなりません。それだけは、肝に銘じておきなさい」
「感謝いたします、麗羽さま。采配は、わたしが現地にいって直接するつもりです。それから、
「好きになさい。このわたくしが、あなたにまかせると言っているのです。誰にも、反論なんて述べさせませんわ」
ふと、池のそばまできていることに袁紹は気がついた。
宮殿のなかでも、ここは好きな場所だった。静かにたたずむ水面を見ていると、どこか心が落ち着くのである。造営の途中、気まぐれでつくらせたようなものだったが、それがかえってよかったのかもしれない。最近だと、散歩の際は必ず訪れるようにしている場所だった。
近づいた。うっすらと自分の姿が見えてくる。
水面をのぞき込んだ。
そこには、穏やかな表情をたたえている自分がいた。見ているとおかしくなり、袁紹はちょっとほほえんでしまう。
何日か前も、こうして水面をのぞいてみたことがあった。その時は、確かこんな顔をしていなかったはずである。小さな変化だったが、袁紹にとっては大きなことだった。直視していると、どうにもむず痒くなってきてしまう。後ろにいる田豊は、なにも言ってこない。
「なにをしているのでしょうね、わたくしは」
自分に対する問いである。応えが、返ってくることはなかった。それはつまり、なにかしらの結論がもうでているからなのか。
静かだった水面が揺れる。
視線をあげた先。二羽の水鳥が、仲睦まじく寄り添い合って泳いでいる。
†
どうにも、落ち着かない。
なし崩し的に曹操軍の陣営にまで同行することになったのだが、
歩哨の行き交う声。それが、歩いていると方々から聞こえてくる。許緒に、大丈夫かと声をかけられた。
曹操の名を、知らないわけではなかった。太平道の組織内にいた時から、その奮戦を耳にしていたのだ。
まさか自分が、その曹操麾下の将軍を治療することになるとは。あれから、夏侯惇は驚異的な回復力を見せるようになっていた。見舞いにきた馬超が、曹操の言葉が大きかったのだろうと言っていた。それでは、まるで妖術ではないか。
しかし、日ごと夏侯惇は気力を取り戻すようになっている。それで、許緒が曹操に目通りすることになったのである。一度断ったが、許緒はどうしても自分についてきてもらいたかったようだ。知らない場所で、心細さがあるのだろう。恩人に懇願されては、捨て置くことなどできなかった。
「曹操さまってどんな人なんだろうね、
「さすがに、それはないと思うわよ。だって、
「だ、だよねえ? だったら、ひとまずは安心かな」
ここにきて、真名をあずかることが多くなっていた。
夏侯惇と馬超。どちらも、気のいい軍人だった。自分のやった素人同然の治療に対する、感謝のしるしなのだという。そう言われてしまうと、人和としても拒絶はできなかった。
「はにゃ? おまえ、誰なのだ」
「そっちこそ、誰なのさ。ボクは、曹操さまに用があってきたんだけど?」
「お兄ちゃんに? むむっ。春巻きみたいな頭して、おまえなんだか怪しくないかー?」
「はあ? ちょっと、言ってる意味がわからないんだけど、このちびっこ!」
「なにをー!? 春巻き、おまえやっぱり怪しいのだ。変なことをする前に、
「ちょ、ちょっと、
仲裁する間もなく、取っ組み合いがはじまってしまう。
鈴々と名乗った少女は、許緒に劣らないほどの腕力を備えているようだった。どちらも、一歩も退かないつもりなのである。
曹操の陣屋の前であるから、すぐに護衛の兵が駆けつけてくる。相手は、曹操軍の将軍なのかもしれなかった。
「ぐぬぬっ。こ、こいつめー!」
「おまえ、あんがい力もちなのだ。でも、このくらいじゃ鈴々は負けないもんね!」
ふたりの取っ組み合いは、さながら一騎討ちの様相を呈している。
集まってきた兵たちも、下手にとばっちりを食らいたくないのだろう。ほとんどが遠巻きに見ているだけで、誰かが止めにくるのを待っているようなのだ。
「張飛、おまえなにをやっている」
「うぅうう……。鈴々いま忙しいから、姉者はちょっと黙ってて」
「馬鹿者。ここが、曹操殿の陣屋の前だと理解していないのか。おまえが軍勢の和を乱せば、劉備さまにだって迷惑がかかるのだぞ。そのことを、よく考えてみろ」
「お、お姉ちゃんに? だったら、鈴々もうやめる! 春巻きも、今日はここまでにしておいてやるのだ」
「ちびっこめ、無茶苦茶なことばっかり言いやがってぇ……!」
鈴々というのは真名で、少女は張飛というようだった。
その張飛がいきなり力を抜いたために、許緒は前のめりになって地面に倒れ込んでしまう。
「まったく、なんなんだよ、もう」
「鈴々、お兄ちゃんを守らないとって思ったの。お姉ちゃんが大切なのは当たり前だけど、お兄ちゃんにだって傷ついてもらいたくないんだもん」
「というか、おまえの言うそのお兄ちゃんって、曹操さまのことなんでしょ? さっきも言ったけど、ボクは曹操さまに呼ばれて会いにきただけなんだよ。それを、邪魔するなんてさ」
「曹操殿に? わたしの妹分が、失礼なことをしてしまったようだ。そのことを、どうか謝らせてもらいたい。わが名は関羽、こっちの小さいのが、張飛という。そちらの名を、聞かせてもらってもよいだろうか?」
「まっ、いいけどさ。ボクは許緒。よろしくね、関羽さん。張飛も、一応よろしくしてあげたって構わないけど?」
「うむ、許緒か。そなたの広い心に、感謝せねばな。ほら、おまえも頭くらい下げないか、張飛」
「ううっ、ごめんなさい、なのだ」
一件落着、と言っていいのだろうか。
とにかく、ふたりの争いは収まった。関羽はほんとうに申し訳なさそうにしており、上からものを言っているような感じはしなかった。
「騒ぎが聞こえたからきてみたが、これはどういうことなのだ」
陣屋のなかから、ひとりの男が姿をあらわした。
振る舞いからして、あれが曹操なのだろう。張飛も、関羽に叱られた時以上に縮こまっているようだった。
「この許緒と申す者ですが、曹操殿がお呼びになったということに、相違ございませんか?」
「ああ、そうだ。夏侯惇から、話は聞いている。見どころがあるから、一度会ってやって欲しいとな」
「やはり、そうでしたか。あろうことか、張飛がその許緒の邪魔立てをしてしまったのです。人を見る眼を磨け、と普段から言ってはいるのですが、あまり効果がでていないようで」
「ごめんなさいなのだ、お兄ちゃん。鈴々、悪いやつを通しちゃいけないと思って、それで」
「気に病むことはない。その様子だと、許緒はおまえと対等に闘ってみせたのだろう? であれば、よい力試しになったのだと思う」
「ふえっ……。お、怒ってないのだ、お兄ちゃん?」
「よい、と言っているだろう。それにおまえを叱っていいのは、この関羽殿か劉備殿くらいのものだ」
「むっ。いつ仲良くなられたのかは存じませんが、あまり張飛を甘やかさないでいただきたいものですな、曹操殿。張飛、おまえも、劉備軍の将のひとりだという自覚をいま一度持つようにせよ」
笑っている曹操に対し、関羽は怒り心頭といった様子なのである。
両者の間には、微妙な関係性があるのだろう。劉備が率いている軍というのは、ほとんど義勇兵の集まりなのだと聞いている。それだけに、関羽は求心力の低下をおそれているのかもしれない。
心というのは、熱しやすく冷めやすい。そして熱しすぎた心は、想定をこえてどこまでも突き抜けてしまう。そのことを、人和はよく知っているのだ。
「とにかく、ここでは落ち着いて話もできん。許緒、おまえもなかに入れ」
「い、いいの? えと、人和ちゃん」
「行ってくればいいわよ。わたしは、このあたりで待たせてもらっているから」
去り際、人和は曹操と眼が合った。
どうして、いままで気づかなかったのだろうか。激しさすら感じさせる、鋭い視線。それは、忘れられるものではないはずだった。
雨のなかで、出会った男。打ちひしがれていた自分を、汚してくれた男。それが、すぐ近くにいるのである。
「そんな、そんなことって」
あっという間のことで、うまく声が出せなかった。
曹操が、あの時の男だったのか。信じられないという思いが、まだ強かった。それに、鮮明に記憶しているのは自分だけで、相手は覚えていない可能性もあるのだ。
むなしくなるとわかっていても、感情は大きく揺れ動いていく。願っていても、実際に会えるとは思っていなかったのである。
馬超の言葉を、人和は思い出していた。やってみなければ、わからない。確かに、そうだと思わされている。馬超と遭遇し、夏侯惇の怪我を見なければ、こうなり得ることはなかったのである。
許緒は、曹操に仕官すると決めたようだった。
自身をかばうようなかたちで、夏侯惇が眼を失ったという事実もある。それで、なにか役に立てればと考えているようだった。許緒の武は、村にいたのでは活かせない。ここで曹操と出会ったのは、許緒にとっても天命のようなものであるのかもしれなかった。
そしていま、許緒と入れ替わるようにして、人和は曹操の陣屋のなかにいた。
警護についているのは、典韋と呼ばれた将だけだった。その典韋も入り口近くに立っているから、大声で話さないかぎり詳細が聞こえることはない。
「あの、曹操さま」
「まさか、あの時の女とこのような場所で再会するとはな。元気にしていたようで、嬉しく思う」
「覚えてくれていたの? わたしなんかのことを、ほんとうに」
「忘れられるはずがなかろう。俺も、そなたに会いたかった。しかし、探す手立てがなかったのだよ」
当たり前だと言うように、曹操はほほえんでみせている。
嫌味な感じのしない男だった。雨の日のことを、変にねちっこく語ろうとはしない。ただ、自分が息災にしていたことを、素直に喜んでくれているようだった。
「俺のことは、一刀と呼べばいい。人和といったな。あの日のおまえを、俺は放っておくことができなかった。寂しそうでいて、苦しんでいるようにすら見えてしまったのだよ。それで、あのようなことをした」
「一刀さん、か。さっきのあなたの真似をするわけではないけど、謝る必要なんてどこにもないの。あの時のわたしは、潰れかかっていた。だから、一刀さんの行いによって、逆に助けられたようなものなのよ。それに、無理矢理ではあったけれど、あなたは温かかったもの」
「無理矢理だったというのは、否定しないのだな。だが、そうか。男の身勝手な振る舞いが、なにかを救うこともある。わからぬものだな、人というのは」
「誰だってわかるはずがない。わからないから、みんなもがくのよ」
曹操と話していると、身体の奥のほうが熱くなっている。たぶん、気のせいではないはずだった。
「一刀さんに、聞いてもらいたいことがあるの。あなたの闘っている黄巾軍。わたしは、かつてそこに属していたのよ。というより、信奉される対象のひとりだったと言うほうが、より正確なのかもね」
曹操の眉が、かすかに跳ねた。
自分が張梁だということを知られて、殺されてしまう可能性がないわけではなかった。だが、それでも伝えるべきだと思わされてしまったのだ。曹操の度量。そこに、人和は賭けてみたくなってしまったのかもしれない。
らしくないとは思う。それに、自分は一度黄巾軍を捨てているのである。いまさら、なにができるのか。なにかをする、資格があるのか。
いまの黄巾軍は、力の向ける先を見失ってしまっている。
かつて蜂起した時は、漢を確実に打倒することを狙って、各国で一斉に立ち上がったのである。だが、青州黄巾軍の進む先に、なにがあるのか。きっと、待っているのは破滅なのだろう。人和には、そうとしか思えなかったのである。
現在ですら、片田舎にある村を襲わなければならないほど、黄巾軍は食料不足に苦しんでいるのだ。それにかつてとは違って、乱世は群雄の時代を迎えつつあるのではないか。
民衆の叛乱。やがてそれは徹底的に締めつけられ、壊滅させられるのだろう。その見せしめとするには、黄巾軍はうってつけだった。そうなってからでは、打てる手などなにもないのだ。
「何年も前のことだけど、あなたには聞き覚えがあるんじゃないかしら? 張梁。それが、わたしの名よ。ほんとうは、人和というのが真名でね」
「張角の妹だという、張梁か。その眼、嘘を言っているわけではなさそうだな。おまえには、なにか秘めていることがあると思っていた。それがあるから、より魅力的に見えてしまったのかもしれん」
「おかしな人ね、一刀さんは。わたしが張梁だと教えてあげても、なにもしてこないのだから」
「名を捨てた女を殺したところで、なにが変わる。黄巾軍はおまえたちの手を離れ、けものになったと言っていい。ははっ。兗州を背負う者として、俺は大地を食い荒らすけものを、駆逐せねばなるまい」
「あれだけの数になった黄巾軍を、本気で駆逐できると思っているの? いいえ。その顔、もっとべつなやり方を考えているのではないかしら」
捨て去ったはずの感覚。身体の奥底から、蘇ってくるようだった。
武力だけでは、百万の黄巾軍を止められない。敗走させ、青州に追い返したところで、また結束されて反撃にあうのが眼に見えているからだ。
曹操が、ちょっとほほえんでいる。どのような反応を返すか、自分は試されていたのか。
「あの者たちには、力がある。しかし、そこに志がなければ、力はなんの意味もなさぬのだ」
「自分には、その志がある。そう言いたいのかしら、一刀さんは。傲慢だけど、乱世を駆けるためにはそのくらいの覚悟が必要なんでしょうね。わたしには、わからないことだわ」
「世を変えたいと思うのは、悪いことではない。されど、黄巾軍の闘いは乱世を呼ぶだけだ。その
「口がうまいのね、一刀さん。でも、その考えは間違っていないのかもしれないわ。黄巾軍のみんなは、乱世を終わらせる方法を知らない。そして、少なくともあなたは、それを知っているのね」
「講和に持ち込むにしても、まずはやつらの自信を砕かなくてはならん。そのための戦を、俺はするつもりなのだ」
曹操に、瞳の奥底までのぞき込まれているようだった。
やはり、敵わない。抱かれ、肉欲を呼び覚まされた時から、こうなることは決定づけられていたのかもしれない。
「抱きしめてもいいか、人和。ははっ、そんなに身体を強張らせるほどのものではないぞ? 安心しろ。それより先のことは、なにもしない」
「んっ……。わたしをからかって愉しんでいるのね、一刀さん?」
「そうではない。おまえといられた時間は、ほんの一瞬でしかなかったのでな。こうしていなくては、また消えてしまうのではないかと、急に心配になってきたのだ。どこにも、いくまいな?」
すべてを捨てた自分に、なにができるのか。恨まれていても、おかしくはなかった。それに、どこかで生きているかもしれない二人の姉は、自分の行いをどう見るのだろうか。
けれども、自分はここにいる。不可思議な縁で、曹操と結ばれてしまってもいる。そんな自分でなければ、できないことがあるはずだった。
それをやるための勇気。曹操から、少しわけてもらいたいと思っているのか。
胸が高鳴る。曹操の顔を、まともに見ることができなかった。
「ねっ、一刀さん。くち、吸ってもらいたいな。あっ、そのっ、もし嫌でなければだけっ……、んっ、んふぅ、ちゅむ……。ふはぁ、あっ。かずと、さっ……んぅ」
「力を抜いていろ、人和。案ずることはない。俺が、ずっと抱きしめておいてやる」
心に秘めていたはずの声。それが、不意にもれてしまったとでも言えばいいのか。
唇。曹操に覆われた熱で、焦がされていくようだった。自分の求め方など、児戯に等しいのではないかと人和は思う。おずおずと唇を甘く噛み、唾液をねだってみた。曹操には、なにもかもを見透かされているのかもしれない。舌が入ってくる。唾液を口内に塗りつけられていると、かすかな甘い痺れが全身に拡がっていくようなのである。
不安に思っていた心。それが、急速に温められていく。
実を言うと、自分はずっとこうされたがっていたのかもしれない、と人和は思うのである。あの日と同じか、それ以上に力強い抱擁。曹操には、今日まで積み重ねてきたなにかがあるのだろう。それが骨子となって、人を大きく映し出すのである。自分は、小さかった。だからこそ、こうして誰かの胸に
口づけを終えてからも、しばらくのあいだ抱擁は続いた。
言葉は、もはや必要ないように思えていた。曹操の大きな手のひらで、頭を何度もなでられている。それだけで、自分は胸を満たされてしまうのである。
「一刀さん」
曹操の真名を呼んでみる。
長い間、知り得なかった名前だった。
「どうした、人和?」
「いいえ、なんでもないの」
間の抜けたようなやりとり。そんな何気ないことを喜んでいる自分がいることに、人和は気がつくのだった。
歩哨たちの合図し合う声。陣屋の外からは、それだけが聞こえている。