いまここに、戦機は熟しつつあった。
堅陣を敷いていた黄巾軍の備えに、ほころびが見えつつある。それには、冀州内での軍勢の動きが、少なからず影響を与えているのだろうと曹操は読んでいた。
袁紹軍の行動を、どこまで素直に受け取っていいものなのか。斥候の報告によれば、袁紹の軍勢は自領からは出ずに、調練をしているだけのようだった。兵力としては約五万で、率いているのは顔良と田豊である。
「袁紹軍に、青州黄巾軍と闘うつもりがあると思うか、
「おそらく、それはないでしょう。今回の動きに関しても、袁紹殿が主体となって軍を派遣されたのではない。一刀殿は、そうお考えなのではありませんか?」
「稟には、お見通しということか。だが、もしあいつがやる気になったのであれば、敵を間近にしての小細工などする意味がないはずだ。だとすれば、発案者は田豊か顔良と見るのが、自然なのではないかな」
「御意。文醜殿を寄越されてきたこともありますし、田豊殿は一刀殿にかなり好意を持たれているのではありませんか? わたしが仕官する以前の関係はあまり存じあげておりませんが、
「共謀などと、そんな大それた事件を起こしたつもりはないのだがな。ははっ。宦官連中の怒りを買ったのは、間違いではないが」
並べた胡床に座り、曹操は郭嘉と言葉を交わしていた。
田豊は、自分と袁紹の間を取り持って、どうしようというのか。青州黄巾軍を打ち破り、このまま領土を拡げていくことになれば、いずれは冀州ともぶつかるようになる。天下に覇を唱えるためにも、人口の多い冀州はなんとしてでも抑えなければならない土地だった。
会話が途切れるのを待っていたかのように、陣屋内に曹純が入ってくる。
「兄さん。劉備軍の方々が、お見えになっているのですが」
「わかった。
「承知いたしました。あの、それとですが、兄さん」
「
「いえ、そのようなことは。春蘭さんは、わたしたちにとっても頼れる姉さんのような存在なんですから、心配になって当然です」
陣屋に顔を見せた曹純だったが、またすぐに駆け出していってしまう。
夏侯惇は、なんといっても曹操軍を支える柱のようなものなのである。呂布の援軍は確かに追い風となるのだろうが、夏侯惇の戦に立ち向かう姿勢というのは、やはり曹操軍にとって特別なものだった。曹純だけでなく、一門の者はみな、その復帰を待ち望んでいるのだろう。
夏侯淵たちを呼びに行った曹純と入れ替わるようにして、劉備たちが姿を見せていた。
胡床は円形に並べられており、どこも主座でないようなかたちとなっている。
これも、無用な軋轢を生まないための工夫だった。砦を取り仕切っているのが曹操であることは明白だが、その力関係を無闇に押し付ければ必ず角が立つ。それについては、郭嘉も同様の意見を持っていた。
前のめりになりながら、劉備が言った。
「曹操さん。いよいよ、決戦の時がやってきたんですね」
「いくらか討ち取っているとはいえ、相手はまだ雲霞のごとき大軍を有している。こわいか、劉備殿?」
「えへへ、ばれちゃいましたか? 正直に言ってしまうと、ちょっぴりこわいんです。だけどわたしの周りには、関羽ちゃんや張飛ちゃんみたいな豪傑がいてくれる。それに、今度は曹操さんのような強いお方も、一緒なんです。だったら、きっと平気。それにわたしにできることなんて、覚悟を決めることくらいしかありませんから。麾下のみんなには、命を懸けて闘ってもらわないといけません。だからせめて、胸を張って堂々としている姿を見せてあげたいと思うんです。曲がりなりにも、わたしは劉備軍の大将ですからね」
「つまらない風聞をたてる者もいるらしいが、劉備殿は将としての器量を確かにお持ちなのではないかな。関羽殿たちが慕いたくなるのも、わかる気がする」
「そ、そうなんでしょうか? けど実は、曹操さんみたいに堂々としていられればいいな、っていつも思っているんです。ふふっ。といっても、たぶんあまりうまくいっていませんけどね」
将には、それぞれのやり方があって当然なのである。
所領すら持たない劉備だったが、その人柄を慕って三千人もの兵士が集っているのだ。それに、劉備に欠けている部分は、義妹たちがしっかりと埋めている。それで劉備軍は一体となれているのだから、在り方としては間違っていないのだろう。
胡床に座ったまま、関羽が訝しげな視線を飛ばしてくる。自分と気安く接している劉備のことが、心配でならないのだろうか。関羽とは対照的に、張飛は軍議の席であっても自然体のままである。気合は乗ってきているのだろうが、曹仁と愉しげに会話をしているのが印象的だった。
「関羽殿。いま少し、肩の力を抜いてみてはどうかな? わが殿は実に女たらしだが、同時に愛情深きお方でもあるのだ。警戒心を張っているばかりでは、見えてこない側面もあるとわたしは思うぞ?」
「夏侯淵殿には悪いが、それは大きなお世話だな。わざわざ忠告してもらわずとも、立場をわきまえることくらい、わたしだってできるに決まっているではないか。いまは、劉備さまが曹操殿との共闘を望まれているのだ。それに、ここで黄巾賊を打倒できなければ、民たちの苦しみはいつまでも続いてしまうのだろう。であれば、わたしのやるべきことはただひとつ。青龍偃月刀を振るい、世を乱す賊を討ち果たすだけだ」
「やれやれ。おぬしの強情さは、荀彧以上なのやもしれぬな。だが、その義心は頼もしいものだよ」
「当然だ。世を正し、平和な暮らしを取り戻す。それが劉備さまの願いであり、われらの願いでもあるのだからな」
関羽への助言を試みた夏侯淵だったが、取り付く島もないとはまさにこのことなのだろう。特に劉備のこととなると、関羽のかたくなさはより顕著となってしまうようなのである。
苦笑する劉備を横目に、曹操は軍議を進めていく。
「聞いてはいるだろうが、あの呂布を含める援兵がこちらに向かっている。その援兵の力を最大限に発揮するためにも、俺はこちらから総攻めをしかけるべきだと考えているのだ」
「呂布軍は総員で五百に過ぎませんが、小勢と侮ることなどできません。うまく扱うことができれば、五千、もしくは一万くらいの働きを見せてくれるのではないでしょうか? その力は、劉備軍の方々もよくご存知だと思います」
「虎牢関でぶつかった時も、呂布直属の騎馬隊は凄まじい動きを見せていました。それに、われらは三人がかりでやっと、あやつを追い返すことができたのです。あの武を止められる者など、黄巾軍にはおりますまい」
郭嘉の言った見立てに、関羽は同意しているようだった。
本能のままに闘うけもの。呂布というのは、そういった存在なのかもしれない。呂布の気迫が端々にまで伝わった時、麾下の騎馬隊もまた獰猛なけものとなる。その強さは、筆舌に尽くしがたいものがあった。
関羽の言葉を継いで、曹洪が言った。
「雑兵には眼もくれず、中核をなす精鋭を撃破する。わたくしたちがすべきことは、そんなところでしょうか、お兄さま?」
「そうだ。袁紹軍が動いたことによって、相手方にはいくらか動揺が見えている。敵の堅陣を崩す好機は、いましかあるまい」
時が経てば、袁紹軍の意図に黄巾軍も気づくことになる。そうなる前に、曹操としては勝負を決めてしまう必要があるのだ。
百万という数には誇張があるにせよ、敵の大軍団を殺し尽くすのには無理があった。しかし、その支柱となっている精鋭を狙うというのであれば、また話は違ってくる。
黄巾軍の精鋭部隊は、数にしておよそ十万程度だということがわかっている。それらを打ち砕き、黄巾軍の為す術を奪った後に、講和交渉にもちこむ。それが、曹操の思い描いているところだった。
「陣立てはいかがいたしましょう、殿。できれば、姉者の無念を晴らしてやるためにも、わたしが先鋒を賜りたいのですが」
「燃えているようだな、夏侯淵。だが、いま少し待つのだ」
逸る夏侯淵を抑え、曹操は一拍の間をとった。
陣屋内に並べられた胡床。そのひとつが、空席のままになっている。夏侯惇が、このままで終わるはずがない。そんな予感が、時を追うごとに強くなっている。
外が、少し騒がしくなっているような気がしていた。熱気が、段々と近づいてくる。それが錯覚でないことを、曹操は確信するに至っていた。そんな雰囲気をつくりだせる者など、自分の麾下においてひとりしかいないのである。
扉が開かれる。陣屋外の護衛にあたっていた典韋が、夏侯惇の来訪を伝えてくる。嬉しさを隠しきれていない顔は、ちょっとほころんでいるように見えていた。
「夏侯惇、ただいま参上つかまつりましてございます。到着が遅くなったこと、なにとぞお許しください、殿」
「姉者。そうか、戦場に戻る気になってくれたのだな。これほど、心強いことはないぞ」
「うむ。殿が黄巾
ふっ切れたようないい表情をしている、と曹操は思っていた。
失った左眼部分を覆うように、顔には布が巻かれている。そのおかげか、風貌だけで言えば以前よりも迫力が増しているくらいだった。
「やれるのだな、夏侯惇?」
「殿に不要だと言われないかぎりは、死ぬまで闘い続ける所存です。ですから、どうかこの身を好きにお遣いください、殿」
「おまえの存在は、わが軍にとって必要不可欠なものだ。だからこそ、俺も復帰を喜ばしく思う。よく戻ってくれた、夏侯惇」
「あまり、嬉しくなってしまうようなことをおっしゃられないでください。かような場所で、みなに泣いている姿を見せるわけには参りませんので」
「そうか、ならばもう座るがいい。話の続きは、二人になった時にまたしよう」
「は、はいっ。それでは、失礼いたします」
大きく頭をさげてから、夏侯惇は胡床に腰を落ち着けた。
これで、役者は揃ったと言っていい。曹操は一度うなずくと、郭嘉に陣立てを読み上げるよう促した。編成は、二通りのものを用意してあった。夏侯惇が戦列に戻ることを信じて、準備だけはしておこうと思っていたのだ。
「よかったですね、曹操さん。夏侯惇さんが、戻ってきてくれて」
「ン……。心を分かち合える存在というのは、やはりいいものだ。劉備殿ならば、よくわかるだろう?」
「えへへっ、そうですね。わたしも、関羽ちゃんや張飛ちゃんと、離れ離れになるなんて考えたくもありません。生まれた日は違っていても、死ぬ時はきっと一緒でいよう。そう、誓い合った仲ですから」
「なるほど。さしずめ、桃園の誓いとでも言うべきものか」
「ふえっ? だけど、よくおわかりになりましたね、曹操さん。確かに、あれは桃の花がきれいに咲いている時期でしたけど」
自分でも、無意識のうちに口走っていたように思う。
あの夢を見たのも、もう随分と前のことだ。
満開の桃の木に囲まれた、少女たち。そして、そのなかにいた男は、自分とひどく似通った姿をしていたのだ。関羽に興味を抱くようになったのは、間違いなくあの夢がきっかけなのである。
劉備の瞳には、様々な色が入り混じっているようだった。
知るはずのないことを、どうやら自分は言い当ててしまったようなのである。そのことを、劉備が不審に思うのは当然だった。納得のいく説明など、到底できはしないのだろう。そのくらい、あの夢は不可解なものだった。
ご主人様と呼ばれていた男。それと、自分になんの関係があるのか。その答えは、おそらくずっとわからないままなのだろう。
「ええっ……!? もしかして、曹操さんって……? でも、まさかそんなことって、あるわけないもんねぇ?」
何事かを言おうとして、劉備はそれを途中でやめてしまう。
自分と同様に、なにか引っかかっていることがあるのだろうか。腕組みをしているせいで、ただでさえ豊満な乳房が余計に強調されてしまっている。
「戦に出る前だというのに、つまらぬことを言ってしまったようだな。忘れてくれるか、劉備殿」
「あはは……。ごめんなさい、わたしのほうこそ、おかしなことを考えてしまって」
劉備の言う、おかしなこととはなんなのか。気にはなったが、曹操はその気持ちを胸の奥にしまい込むことにするのだった。
陣立てを説明し終えた郭嘉が、曹操の指示を待っている。
立ち上がり、曹操は鼓舞するように言った。
「総攻撃は、明日早朝とする。いままで我慢を強いられてきたが、それもこれまでだ。各人の奮戦を、期待しているぞ」
そう締めくくり、曹操は軍議を解散した。
人の気配の少なくなった陣屋。それを確認してから、どこか遠慮がちに夏侯惇が駆け寄ってくる。腕を引いて、曹操はその身体を抱き留めた。
「あっ……。よろしいのですか、殿?」
「陣中ではあるが、いまくらい一刀と呼べばいい。もっとおまえの声を聞かせてくれないか、春蘭」
「こほん……。で、では、そのようにいたします」
胸のなかで、夏侯惇が一度咳払いをする。
ほんのりと色づいた頬。長い黒髪をなでながら、曹操はつぎの言葉を待っていた。
「すまなかった、心配をかけて。一刀。わたしの顔、おかしくはないだろうか?」
「なにも、おかしくなどないさ。勇ましくてかわいらしい、いつもの春蘭だ」
「なっ!? ははっ、しかしそうか。一刀がいつものわたしだと言うのであれば、きっとそうなのだろうな。これで、少しは安心だ」
戦場にいるとは思えないほどの、穏やかな時間の流れを曹操は感じている。
あふれてくる感情。それらを言葉にするのは、意外と難しいことだった。
「んっ、ふふっ。口づけが好きなのだな、一刀は」
「そうなのかもしれん。いいから眼を閉じていろ、春蘭。見られていると、むず痒くなってしまうだろう」
「よいではないか。右眼だけとなってしまったが、こうしておまえの顔をしっかりと見ることができている。それが嬉しいのだよ、わたしは」
「そうか。ならば、好きにするがいい」
そう言って、曹操は夏侯惇の唇を塞ぎにかかるのだった。
†
心配していた夏侯惇が曹操の前に姿を見せたことに、馬超は安堵していた。
片眼を失ったことは、武人としての屈辱であり、また苦痛でもあったはずなのである。それに夏侯惇には、曹操という最愛の人がいるのだ。武人ではなく、女として。そう考えてみた場合、夏侯惇の負った怪我は、より大きなものであるように思えてならなかった。
「春蘭のやつ、ほんとに嬉しそうだったな。まっ、そりゃそうか」
涼州で鑓働きをしていた頃は、考えもしなかったことだ。
曹操は、幾人もの女を虜としている。
それでも不満が起こらないのは、全員にくまなく愛を振りまけているからなのだろう。なにより夏侯姉妹を筆頭に、女性陣同士の連携がとれているのも大きな要因のひとつなのだと馬超は思うのである。
そして曹家には、派閥をつくろうとする者はおらず、個人的な権力の獲得に走ろうとする者もいなかった。
これには、曹操が一門やその縁者だけでなく、外部の優秀な人材を傘下に組み込んでいる影響が大きいのだろう。流浪の武辺者にすぎなかった趙雲が、夏侯惇らとならんで曹家の軍事を支えていることは、その最たる例だと言えるのだった。
乱世を生きる勢力として、曹家は理想的なかたちを取ることができている。曹操を中心に据えた、強力な軍事的組織。名門ではないゆえの優位性を、曹操はつくりだせていると言ってもいいのだろう。
美麗になびく黒髪。眼の前を歩く関羽に、馬超は不意に声をかけた。
「関羽殿、ちょっと付き合ってもらってもいいか?」
「むっ? べつに構わないが、わたしになにか用でもあるのだろうか」
「たいしたことじゃないさ。以前、話していたことがあったろう? あたしの鑓の腕を試してみたい、ってさ」
「ああ、そうであったな。ならば、しばし待っていてもらえるか。劉備さまに、断りを入れてこようと思う」
「承知した。すぐそこの広場まで、先に行っているよ」
単に、関羽と腕くらべがしたいわけではなかった。
実際のところ、関羽は曹操をどう見ているのか。馬超は、それが知りたくなったのである。劉備、それに張飛の二人は、曹操とも歩調が合っているように見えていた。だが、関羽だけはその埒外にずっといる。というよりも、埒外にいようとしている、と言ったほうが正しいのかもしれなかった。
「待たせたな、馬超殿。得物は、どうすればいい?」
「この棒を使おうぜ。お互い、戦の前に怪我でもしたら、なんにもならないからな」
「違いない。では、参るぞ」
関羽が、間合いを一気に詰めてくる。
突き出される先端。それを弾き返し、馬超は後方に飛んでみせた。
「さすがに、よい身のこなしをしているな。涼州では、錦馬超と呼ばれているのだったか?」
「よせっての。あっちでの話なんて、ここでは関係ないだろ?」
「すまない、馬超殿。だが、貴殿はその名に相応しい武をお持ちなのだと思うがな」
砂を踏みしめながら、ゆっくりと息を吐いた。
関羽の打ち込みには、かなりの力がある。速さでいえば趙雲に軍配が上がるが、それ以外は関羽がわずかに上回っていると言っていいくらいだった。
まずは、正面からぶつかってみたいと思った。膂力には、馬超も自信があるほうなのである。上段から振り下ろした棒。それを、関羽は瞬時の判断で受け止めてみせている。さすがにやる、と馬超は小さくほほえんだ。
「なあ、関羽殿」
「なんだ? いまは、仕合っている最中なのだぞ」
「まあまあ、堅苦しいこと言うなっての。ちょっと訊いてみたかったんだけどさ、関羽殿は曹操殿のこと、嫌っているのか?」
「ちっ。なんだ、やぶから棒に。だが、わたしとて曹操殿を毛嫌いしているわけではないのだぞ? ただまあ、馬超殿からそう見えていたのならば、態度を改めるべきなのかもしれないがな」
「ははっ、そうだったのか? けど、自分じゃ気づいていないのかもしれないけどさ、さっきなんてほとんど睨みつけてるみたいだったぜ?」
「そ、そうであったか。しかし、馬超殿とて張飛の有様を知らぬわけではあるまい? あれほど義妹が懐いたさまを見せられては、不安に思うなと言うほうが無理があろう。曹操殿は、やはり油断のならないお方なのだ。であれば、わたしが劉備さまをお護りせねばと思うのも、必然たることではないか」
「そっか。関羽殿にそれだけ思われているのだから、劉備殿は幸せ者だな。でもさ、張飛だって劉備殿のことを、すっかり忘れてしまっているわけじゃないだろう? 曹操殿が手篭めにして、腕ずくで引き抜こうとしている、ってんなら怒るのも当然だけどさ」
「て、手篭めだとっ!? あやつは、まだ男女のことなどなにもわかっておらんのだ。そんなこと、あっていいはずがなかろう」
関羽の顔が、見る間に赤く変わっていく。それは怒り、もしくは羞恥のためなのだろうか。
確かに関羽からしてみれば、義妹を籠絡されてしまったようで、あまりいい気はしていないのだろう。
張飛が曹操に真名を呼ばせていることに関して、劉備がなにか言ってきたような形跡はなかった。おおらかさだけでいえば、劉備は曹操以上の器量を有しているのかもしれない。それが、関羽にとってはもどかしくて仕方がないのだ。
「ン……、こほん。劉備さまは、曹操殿をいたく気に入られておいででな。存外、馬が合うと感じられているようなのだ。しかし、われらのいまの関係は、いつまでも続くわけではないのだぞ。もしこの先なにかあれば、親しくなられたぶんだけ劉備さまは苦しまれることになる。それが、わたしには耐えられんのだ」
「先のことばかり心配していたって、どうにもならないさ。流れのままに生きるっていうのも、意外と悪くないものなんだぜ? それに曹操殿と劉備殿が、争わない可能性だってあるわけだろ?」
「わ、わたしは、なにもそこまで言ったつもりではないのだぞ? けれど、馬超殿の真っ直ぐさは、うらやましいかぎりだな。わたしには、どうも考えすぎてしまうきらいがあるようなのだ」
「それも、いいんじゃないか。関羽殿がきちんと目配りしているおかげで、劉備殿は自由にやれているんだろう? だったら、それをいい方向に活かせばいいだけさ」
「簡単に言ってくれる。だが、馬超殿と話したからか、胸のうちが少しすっきりとしているようなのだ」
「へへっ、そうなのか? なあ、あたしのことは
「不思議なやつだな、おまえも。しかし、承知した。わが真名は
「よろしくな、愛紗。難しい話はこれくらいにして、あとは愉しもうか。気分をすっきりさせたいのなら、身体を動かすのが一番だ」
「応。ならば、こちらからいくぞ」
鋭い一撃。棒を構えて突っ込んでくる関羽の表情は、確かに晴れやかなものとなっている。
柄にもないお節介を焼いてみたが、どうやら効果はあったらしい。誰かに頼まれたわけではなかったが、こうしたことができるようになったのも、自分の変化のひとつなのかもしれない、と馬超は感じていた。
無心のままに、ひたすら攻防を繰り返した。終わった頃には、どちらも衣服が汗でしとどに濡れてしまっていたくらいなのである。
帰り際、関羽は自然な笑みを見せるようになっていた。その笑顔を見せられて、やはり関羽には愛紗という真名が似つかわしいのだな、と馬超は密かに思っていたのである。