呂布軍の到来する少し前。
澄みきった空気を断ち切って、騎馬が駆け抜けていく。
全軍での出撃である。絶影の背の上で、曹操は静かに闘志を燃やしていた。周囲は、典韋と楽進に率いられた旗本たちがかためている。
「雑兵には目もくれるな。叩くべきは、敵軍の精鋭のみである」
「いよいよですね、殿。
総勢で五万の曹操軍。その先鋒を務めているのは、夏侯淵だった。
片眼を失って日が浅い夏侯惇を、自分の側に置くことを曹操は決めていた。その補佐として、許緒が一時も離れずついている。負傷をさせてしまったという負い目があるのだろうが、夏侯惇の武威に憧れる部分が大きいのだと思う。曹仁がそうであるように、許緒も夏侯惇に武人としての理想の姿を見ているのである。
「一刀さま。この戦、きっと勝てますよね? 勝てば、村のみんなも安心して畑を耕すことができる。ボク、そのための力になりたいんです」
「無論、勝つ。勝って、俺は兗州に平穏をもたらしてみせる。これが、第一歩となるのだ。この国全土を、平らかにするという野望のな。それよりも、無理に固い口調を使わなくともよいのだぞ、
「そ、そうかな? でも、そう言ってもらえるなら、兄ちゃんの言う通りにするよ。ボクも、こっちのほうがしゃべりやすいし」
照れくさそうに鼻をかいて、許緒が口調をくだけたものに戻した。
「一刀さま、嬉しそうですね。もともと、
「わたしは、いまのままでいい。しかし、うらやましいと感じているのであれば、一度お願い申し上げてみればどうなんだ、
「ええっ!? で、でも、いまはそんな場合ではないような?」
楽進たちの会話が聞こえてくる。
どちらも、これまでの経験によって肝が座ってきているのだろう。特に楽進は、敵に対して果敢に立ち向かう姿勢を備えていた。身体を使った組打ちをもっとも得意としているから、生傷が絶えないのがいつものことなのである。
全身を流れる氣を練り上げ、拳を先の先まで飛ばすつもりで敵を撃ち貫く。そんな使い方ができるのは、楽進くらいのものなのだろう。
「敵軍とぶつかれば、こんなことを話す余裕もなくなってしまう。なにか要望があるのであれば、いまのうちだぞ、流琉」
「は、はいっ! でしたらその、一刀さまのことを、えっと……兄さまとお呼びしてみてもよろしいでしょうか?」
「いつも言っているだろう? 呼び方など、好きにすればいいと。それに秋蘭は、おまえのことを実の妹のようにかわいがっているではないか。であれば、流琉は俺にとっても妹同然の存在なのだと言えるのではないかな」
「そんな、わたしが妹だなんて。ですが、とってもありがたいお言葉です、兄さま。えへへ、凪さんにも、お礼を言わないといけませんね。背中を押してもらっていなければ、きっとできないことでしたから」
前方から流れてくる土煙。駆け続けていると、少しずつ濃くなっていく。旗本たちの発する、緊張感が伝わってくるようだった。絶影は、臆せず快速を飛ばしている。わかりきっていることだったが、いい馬だった。
夏侯淵の率いる無数の騎兵。それが、黄巾軍の陣地に突っ込んでいるのだ。一撃食らったくらいでは、堅陣は揺るがない。死力を尽くして闘っているのは、どちらも同じだった。それでも、雲霞の向こうにある勝ちを掴むのは自分たちだ。
分厚い壁を突き崩そうと、曹純や馬超たちの部隊も攻撃を開始しているようだった。難しいことなど考えず、ひたすら敵を打ち倒す。できることは、それだけだった。
数人の敵兵が向かってくる。それを斬り払って、曹操はさらに声を振り絞った。飛来してくる矢。典韋が前に出て、懸命に打ち落としている。
近くでは、劉備たちも奮戦を続けていた。三千の兵が、手足のように動いているのだ。関羽と張飛に率いられた劉備軍は、時折前後が回転するように入れ替わることで、損害を減らしているようだった。
「斥候からの報告です、一刀殿。先ほど、西方から呂布の騎馬隊があらわれました。これで、流れが変わってくれればよいのですが」
「変わるさ、間違いなく。呂布の強さを、俺は肌で知っているのだ。生半可ではないぞ、あれは」
砦で待っていることも可能だったのだが、曹操に随身することを郭嘉は望んでいた。
剣さばきは、一言であらわすなら必死そのものだった。それでも、気迫は十分に伝わってくる。気持ちで押し負けさえしなければ、容易く討たれることはない。だから、危ういと感じたときは、誰かが護ってやることもできる。
前線での闘いは、わずかに自分たちが上回っていると言っていい。そこに、呂布がやってくる。赤で染め抜かれた騎馬隊が、けものとなって黄巾軍に襲いかかる。
夏侯惇が言った。左方向の感覚は、まだうまく掴めていないのだと思う。そちらから来る敵は、許緒が前面に立って請け負っている。
「その呂布と率先して斬り結ぼうとされたのですから、殿も大した御方です。普通の者では、気圧されて近寄ることすらできなかったでしょう」
「あまり褒めるなよ、
「いけませんな、それは。されど、ここには流琉や凪、それにわたしだっているのです。ですから、決して殿を討たせたりなどいたしません」
「ははっ。やはり、春蘭はそうでなくてはな。呂布がきたら、俺たちは敵軍の側面に部隊を移動させる。伝令を飛ばして、劉備軍にもそれを徹底させておくのだ、
一歩も退かずに、曹操軍は十万の精鋭に攻撃をかけている。これまで突撃を繰り返し行っている箇所は、確実に守りがもろくなってきているはずだった。
呂布軍には趙雲がついているし、なにより呂布がその手の嗅覚に長じている。どこを突けば、敵軍に痛撃を与えることができるのか。それがわからない呂布ではなかった。
丘の頂上に、深紅の旗が立ったという報告が届けられた。勢いを利用しての、逆落としである。
撹乱することだけを狙って、呂布の騎馬隊は駆け回っているようだった。
黄巾軍の意識が、しだいに分散されていく。駆け抜けているだけでも、呂布の騎馬隊は黄巾軍にかなりの損害をもたらしているようだった。呂布に張遼、そこに趙雲を加えた三人が、敵を斬りまくっている姿を容易に想像することができる。巨大な嵐のごとき武は、とどまるところを知らないのだった。
数騎の護衛と一緒に、劉備が近くにやってきた。赤く色づく桃の花を想起させるような、長い髪。それも、戦場にいることで汚れてしまっていた。
「呂布さんの部隊、来たみたいですね。こちらの準備はできていますよ、一刀さん。合図をもらえれば、いつでも動けます」
「ならば、いこうか。ここで決着をつけるぞ、
「はい、いきましょう。わたしも、頑張らなくちゃ。いまは、躊躇している場合じゃありませんもんね」
呂布軍からの急襲を受けたことで、敵の統制にも狂いが生じはじめていた。
いくら精兵だといっても、いつまでも持ちこたえられるはずはない。攻めに攻め、曹操自身も多数の敵兵を斬っていた。損害としては、黄巾軍のほうが遥かに大きいはずなのである。あたりには、無数の死体が転がっている。それを踏み越えて、曹操軍は突撃を敢行しているのだった。
壮絶な闘いを繰り広げていた夏侯淵らの部隊も、防衛線の突破に成功したようだった。
呂布の姿は見えなかったが、斥候からの報告は逐次あがってきているのだ。それで、呂布軍の活躍ぶりはよくわかっていた。
五百でしかない騎馬隊。しかし、黄巾軍には呂布の騎馬隊がもっと大きなものに見えているはずだった。食いちぎられ、なぶられ、肌を削がれていく。そんな痛みを、ずっと受けさせられているのだ。
四方で、死が飛び交っている。
気力は、まだ消えていなかった。旗本たちに叱咤を加えつつ、郭嘉の制止を振り切って曹操は前線に立っていた。麾下には、苦しい戦をさせているのだ。それだけに、自分が一番に闘志を見せている必要があったのである。
無数にいる敵兵。いくらでも、湧いて出てくるような気になってくる。何箇所か斬られてはいるが、高揚のおかげで痛みは感じていない。ただ、前にだけ進む。無我夢中で、曹操は闘いを続けていた。死を越えた先にしか、生はない。そのことが、この戦場にいるとよくわかってくる。
重くのしかかっていた圧力が、急に軽くなる瞬間があった。潰走していく黄巾兵。それが、敵軍にかなりの混乱を及ぼしていく。
精鋭部隊を、打ち破ったのだ。そばでは、夏侯惇が雄叫びをあげている。その一方、郭嘉は馬上で疲れ切ったように項垂れていた。
手勢をまとめると、曹操は間断なく全軍に伝令を放った。
「休まず、敵を追い立てる。疲れているのだろうが、全軍にそう伝えよ。ここが、われらの踏ん張りどころなのだ」
方々で
体力の限界まで追い討ちをかけ、曹操は精鋭部隊を完全に瓦解させることに成功していた。
自軍にも五千ほどの死傷者がでているが、黄巾軍が失ったのは中核の数万なのである。逃げ散った有象無象も、かなりの数になっていることが予想されている。それを立て直そうと思えば、相当な時間が必要となってくるのだ。宣言していたように、勝ちと言っていい結果となっていた。
泰山で敗れた黄巾軍は、撤退した先の済北に立て籠もることを選んだようだった。あとは、徹底的に締め上げるだけだった。敵軍は傷つき、心の支えを失っている。それに、今後兵糧はさらに苦しくなっていくことだろう。
軍勢を集結させた曹操は、いち早く陣地の構築を開始させていた。
堅牢な構えを見せつけることで、敵軍の士気をさらに挫くことができる。状況が変わったことで、袁紹の動かしているだけの兵もより効いてくるはずだった。
自分たちの陣中に、呂布の真っ赤な旗が立っている。それを見ていると、曹操はちょっと変な感じがしてくるのだった。
着陣してすぐに、呂布が会いたいと言ってきた。趙雲からの口添えもある。曹操は、柵で囲っただけの簡素な本営に呂布を呼び寄せた。自分の暮らす陣屋の構築など、後回しにさせていい。優先させるべきことなど、ほかにいくらでもあるのだった。
「……あっ、曹操」
「いつぶりかな、こうして
「曹操も、元気そうでよかった。それと、
「一刀だ、恋。おかしなくらい義理堅いのだな、おまえは。あの時も、そうだった。まさか、以前に肉まんを食わせてやったおかげで、見逃してもらえるなどとは誰だって思うまい」
呂布が、不思議そうに小首を傾げている。それも、して当然のことだと思っているのだろうか。
変わっていないと感じたのは、戦場でのことだけではなかった。
濁りのない瞳。それも、洛陽で会った頃から少しも変わっていなかった。部隊を率いている時と、気を抜いて話している時の落差にも、違わず凄まじいものがある。
「おかしいのは、一刀だって一緒。自分たちよりもたくさんいる敵と闘うのが、一刀は好き? ……恋たちに攻撃してきた時も、同じだったから」
「ははっ。なにも、好きでやっているわけではないのだ。だが、まともな敵と闘っていたところで、乱世を変えるための力を得ることは叶わないのだよ」
「……やっぱり、一刀は変なやつ。けど、そういうのは嫌いじゃない。恋も赤兎も、思いっきり駆けられて愉しかった。長安はしんどいことが多かったから、闘ってるほうがずっと気持ちが楽になる」
呂布は、董卓のことを言っているのだろう。
心労とは無縁そうに見えても、悩んでいた部分が大きかったに違いない。それだけ、呂布は董卓に心を寄せていたのだ。
足音。誰かが、駆け寄ってきているようだった。振り返った先には、女がいた。人懐っこい瞳が、自分のことを見つめている。呂布が小さく名を呼んだことから、それが張遼だということが曹操にはわかった。
「ふうん。あんたが、曹操か。ウチは張遼、字は文遠。どうせ恋も許したんやろうし、ウチのことも
「承知した。霞も、よく働いてくれたな。おまえたちの働きもあって、俺はこうして黄巾軍を追い詰めることができている」
張遼と真名を交わし、曹操は彼方に視線を向けた。
黄巾軍を下すまで、どのくらいの時間がかかるのか。交渉は、おもに
反感も予想されるが、誰がやろうが乗り越えるべき壁は多いのである。それに、いまの黄巾軍の状態を、人和は案じてもいるのだ。荒んだ暮らしが続けば、かかげていたはずの大義でさえ、いずれ消え去ってしまう。ここが岐路であるのだと、人和は感じているのだろう。
青州黄巾軍を降伏させ、麾下に組み入れることができれば、自軍の力は飛躍的に大きくなる。難しい任務ではあるが、人和にまかせてみたいと曹操は考えていた。
誰も、過去にとらわれるべきではない。進むべき場所など、先にしかないのだった。
「へへっ、せやろー? ひっさびさに暴れまくったせいで、ウチもうへとへとなんや。だから、ちょっとばかし一刀の肩でも借りてみよかなあ」
言いながら、張遼が不意に身体を寄せてくる。戦をしたばかりで、人肌が恋しくなっているのか。柔らかな腰。そこに腕を回してやると、張遼は少し白い歯をのぞかせた。もっとも女を感じさせる部分。それも、遠慮なしに身体に押し当てられてくる。
張遼は、自分の反応を見て愉しんでいるようだった。その様子を見て、呂布がまた不思議そうに首をひねっている。
「ああ、ここにいたのか、霞よ。しかし、もう新たな女に手を出そうとなされるとは、誰も主には敵いませぬな。いやはや、この趙子龍、感服いたしました」
「あははっ。なんや
「一刀は、身体をぴたってくっつけられるのが好き? 恋も、やってみたい」
自分たちが、身体を寄せ合って遊んでいるとでも思ったのか。空いたままになっている右腕を抱き、呂布がすかさず寄り添ってくる。
ふたりの顔を見比べてみて、思ったことがある。張遼が気ままな猫なら、呂布は忠誠深い犬といったところなのか。
呂布の頭頂から飛び出た癖の強い髪が、上下左右にかわいらしく揺れている。意味を知らないまま、腕を挟み込んでいる乳房。その感触の良さに、曹操は思わず笑みをもらすのだった。
「ふむ。これは、想像していた以上の強敵なのやもしれぬ。狙ってやっている霞などより、よほどたちが悪いではないか。さりとて、主にとっては恋のその無垢なところこそが、男心をくすぐられてたまらないのでしょうな」
「なんや、これから愉しゅうなっていきそうやん? なっ、一刀。ウチにもあんたの色んなとこ、たっくさん教えてな?」
「……んっ。霞は、がんばり屋さん?」
「さてな。少なくとも、俺はふたりに俄然興味が湧いてきている。恋も、そうであればよいのだが」
低い声で、曹操が言った。
男女のことに関する知識など、呂布は持っていないのだろう。戦にしても、そうなのかもしれない。本能のままに動き、すべてをやってのけてしまえるのだ。それだけに、思いは純粋そのものなのである。
左右から感じる熱。それを心地よく思いながら、曹操はしばらくそのままでいるのだった。