一 荊州より天下を眺む
ついに、ここまできたという思いがある。
袁術軍を掌握した孫堅は、返す刀で黄忠を中心とした敵軍を撃破し、江陵を陥落させていた。
どこかに、今度は慎重を期するべきだ、という考えがなかったわけではない。それでも、孫策をはじめとする、孫家の面々は燃えに燃えていたのである。天すら焼き尽くさんとする喚声。それに突き動かされるように、孫堅はひたすら馬を駆けさせたのだった。
江陵の城塔に、孫堅は登っていた。
周囲には、だだっ広い原野が拡がっている。見下ろしていると、ちょっと胸が熱くなっていく気がしていた。ここにきて、荊州のほとんどを、自分は制するに至っているのだ。前回は、死の間際まで追い詰められた襄陽攻めも、あっけなく終わった。黄祖がこの世を去り、その後劉表軍の中心を担っていた黄忠は、江陵にて自軍に捕縛されていたのである。
残っていた将など、もとより孫堅軍の相手になるとは思っていなかった。五万の軍勢で包囲してやっただけで、劉表は城から逃げ出してしまったのである。行方はまだつかめていなかったが、隠密たちを方々に放ち、その足取りを追わせているところだった。やがて、その消息はつかめるだろう。
荊州南部に残党が残っているものの、そちらは自分の影響が色濃い土地でもあった。ゆえに、北部をしっかりと固めてしまえば、平定にはそれほど時間はかかるまい、と孫堅は踏んでいるのである。
城塔に、上がってくる者の姿があった。孫策と、周瑜である。
「こちらでしたか、
「もう、母さまったら、すぐひとりでどこかへ行ってしまうんだから。
孫策の小言を笑い飛ばし、孫堅は視線を再び原野に向けた。
腰には、孫家伝来の南海覇王を佩いている。
どうせ、いつかは剣を継承しなければならない時がやってくる。だから、そのまま孫策に預けておいてもいいと思っていたのだが、帰参と同時に突き返されてしまったのだ。
南海覇王を所持しているかぎり、自分は孫家の長としてあらなければならない。
それは、意味を変えれば束縛とも取れるものだった。堂々としているように見えても、孫策にはまだ子供っぽいところがある。南海覇王を持たせておけば、自分がいきなり風のように消えることはない。剣の返却は、そうやって考えてのことなのかもしれなかった。
「おう、
「それは、もちろん。ですが、いまはまだ道半ば。この国全土に孫家の武名を行き渡らせることが、炎蓮さまのお望みなのではありませんか?」
「冥琳の言う通りね。わたしたちは、荊州なんかじゃ止まらない。それに袁術ちゃんの旧領だって、抑え直す必要があるんでしょ? だったら、ここで悦に浸っている暇なんてないわよね、母さま」
「なんだ。ふたり揃って、オレに
「そうではありませんが、雷火殿は現在、文官を引き連れて各地を忙しく回られておりますでしょう? わたしはその出立の際に、炎蓮さまをきちんと補佐するよう、言付かっているのです」
「うふふ。残念だったわね、母さま。雷火がいなくなって、羽根を伸ばすつもりだったのでしょうけど、冥琳がしっかりお目付け役をしてくれるそうよ?」
「チッ、馬鹿を言え。目付けが必要なのは、オレではなくおまえのほうではないのか、雪蓮?」
「ふふん。こう見えて、わたしはきちんと仕事をこなしてきてるんだから。今朝だって、袁術軍出身の兵たちを、
軍団の再編成を、孫堅は急いでいた。
包囲戦ならばまだいいが、袁術から奪った兵は練度が甘く、野戦で使うにはいかにも心許ないのである。体力の限界まで打ち込んだ調練が、兵らに最後のひと踏ん張りを生むと言っても過言ではないのだ。
それに、元気があるうちは不満も出やすいものなのである。そんな反抗心すら叩き折り、孫家の軍律に染めきるのが、孫策らに与えられた使命なのだった。
「そういえば、黄忠の様子はどうなのですか、炎蓮さま? 劉表に義理立てして、なかなか首を縦に振ろうとしない、と聞いておりますが」
「うむ。あれは、なかなかの堅物よ。
「だったら、頑張って説得しないといけないわね、母さま。時々、璃々ちゃんがシャオたちと遊んでいるのを見かけるけど、とっても素直で利発そうな子なのよ。そんな子を、ずっと人質みたいに扱うのは、さすがに心苦しいもの」
「わたしも、雪蓮に同意いたします。黄忠の帰順が成り、表舞台に復帰したとなれば、襄陽周辺の慰撫は迅速に進むことでしょう。そうなれば、さらなる兵員の確保も期待することができるというもの。われら孫家としては、いち早く揚州の制圧に向けて動き出したいところですから」
「わかっている。今日もこれから、黄忠のところへ出向くつもりだ。これは、あやつとの根比べのようなものなのかもしれん。しかし、それもぼちぼち終わりにせねばな」
原野を見つめながら、孫堅はそうもらした。
揚州を完全に奪ってしまえば、江水(長江)の水運を使えるようになる。そうすれば、兵員や糧食の輸送が、いまよりもずっと楽になるのだ。ただ、それで守りに入るべきではない、と孫堅は思っている。
国の北部を狙うのであれば、騎馬隊をさらに増強する必要があるのだろう。牧場を各地に設け、自分たちで馬を生産することも、これからは考えるべきなのかもしれない。
城塔から景色を眺めていると、そうしたことが次々と浮かんでくるのである。あの時死していれば、それもないことだった。そして、自分を救った華雄への信頼は揺るがぬものとなり、いまでは孫家に欠かすことのできない将となっている。
拾った縁が、思いがけない力を出すことがあるものだ。ちょっとほほえんで、孫堅は城塔を後にした。ふたりは、もう少し景色を眺めているつもりなのだという。
「あっ。炎蓮さま、こちらにいらしたんですね。ご報告したいことがあって、ちょうどお探ししていたところなのです」
「
姿を見せた周泰を引き連れ、孫堅は大路を堂々と歩いていく。
傍から見れば単身出歩いているようだったが、その実周囲には護衛が十人ほどついている。全員が、かなりの手練だった。
「曹操が、ついに青州黄巾軍を下しました。ほとんどは青州に帰されたのですが、五万ほどはそのまま残り、曹操の麾下に加わったようなのです。帰った者たちに関しても、なにか約定があるのかもしれません」
「ハハッ。ついにやりやがったな、曹操め。あいつがドでかい戦を制したとなりゃあ、こちらも悠長にはしていられまい。それから、劉表の追跡についてはどうなっている、明命?」
「はい。おおよその居所はつかめているのですが、まだ捕縛には至っていないというのが現状です。もし発見できた際には、斬り捨ててしまっても?」
「ああ、好きにしろ。劉表など、オレがわざわざ首を刎ねなければならん相手でもないのでな。むしろ、どこぞで野垂れ死んでくれたほうが、面倒がなくてよいくらいなのかもしれん」
「了解です、炎蓮さま。では、またなにかわかりましたら、参上するのです」
雑踏の中に、周泰は消えていく。
泰山で黄巾軍を一度打ち破った時点で、曹操の勝ちは決まっていたようなものなのだろう。それにしても、百万なのである。相手にすると考えただけでも、得も言われぬ感覚が、身体全体を駆け巡るようだった。
兗州を奪った曹操が、次はどこに鋒先を向けるのか。徐州、あるいは豫州と考えるのが、妥当なのだろう。
冀州の袁紹とは、微妙な距離感を保ったままのようにも見える。手を取り合っているわけではないが、戦になっているわけでもないのだ。
曹操の立場に自分がいれば、徐州の攻略を優先するのかもしれない。陶謙は利己的な男で、人望があまりない。それに隠密からの報告で、なにやら徐州に調略の痕跡があるとも聞いている。
「黄忠への手土産に、酒でも買っていってやるとするか」
歩いていると、酒瓶が眼についた。
恐縮しきりの店主に銭を渡し、孫堅は上機嫌に去っていく。決して、自分が飲みたくなったからではない。誰が見ているわけでもないのに、孫堅は風の中につぶやいたのである。
†
黄蓋の館に、黄忠は軟禁されていた。
年頃も遠くなく、互いに弓を得意とする武人同士だから、話が合うこともあるのではないか、と孫堅は思ったのである。
娘と会わせるのは、十日に一度というのが取り決めだった。寂しさが募れば、心が傾きやすくもなる。そうした狙いがあったが、黄忠はまだ麾下となるのを良しとしてはいない。
次女の権と出会ったのは、黄忠のいる部屋に足を運んでいる途中でのことだった。
「なんだ。おまえもきていたのか、
「これは、母さま。璃々のこともありますし、なんとか孫家に力を貸してもらいたいと思ったのですが、やはり黄忠の説得は難しく」
「ハハッ、そう気に病むな。オレとて、何度失敗しているかわからんような相手なのだからな。それはそうと、外に出て見聞を広めたいという気持ちはあるか、蓮華?」
「見聞を、ですか? 孫家はいま、大事な局面を迎えているのです。そんな時に、遊んでいるつもりなどわたしには……」
「待て、蓮華。なにも、遊びに行けと言っているのではないのだぞ? 揚州獲得に力を割くのは当然として、北を睨むのであれば、これからは豫州にも手を伸ばしていく必要がある。それは、おまえも理解していよう」
「はい。豫州であれば、まずは汝南でしょうか。かの地は袁家の影響色濃く、叛逆も予想しておかなくてはなりませんし」
「うむ。汝南統治のためにも、軍勢を派遣しなければならんのだろうが、オレがいま荊州を動くわけにはいかんのでな。今後の展開を考えていく上で、荊州支配は確固たるものにしておかねばならぬ」
「では、汝南のことは姉さまに?」
「フッ、早まるでないわ。雪蓮は、揚州に向かわせるつもりだ。揚州は、袁術という圧力が消えたことで、太守どもが互いに牽制し合うようになっている。その隙をすかさずつけば、あやつであっても平らげることくらいできようて」
「それは、よきお考えですね。雪蓮姉さまであれば、どこへ向かおうと力を発揮されると思います。わたしにも、姉さまくらいの戦才があれば、もっと孫家に貢献することができるのですが」
なにも戦が強いばかりが、才ではない。
姉のような武人としての素質がなくとも、権には民衆を治める才能がある、と孫堅は見ているのである。早急に切り取ってしまう必要がある揚州はともかく、豫州は腰を据えての攻略が求められる土地でもあるのだ。
「ここまで話せば、もうわかったであろう、蓮華? 汝南、さらには豫州制圧を目指し、おまえには励んでもらうつもりだ」
「ほんとうなのですか、母さま? 豫州制圧。できるのでしょうか、わたしに」
「その程度のことを、案じてどうする。だがまあ、荊州のことが済みさせすれば、オレも後援として出ていくことが可能になるだろう。そうだな……。まずは、沛国の陳珪あたりと話をしてみることだ。万一、陳珪が孫家に転ぶようなことでもあれば、豫州の形勢は一気に傾くことになるであろうしな」
「陳珪殿、ですか。承知いたしました、母さま。期待に応えられるよう、努力する所存です」
「おう。頑張ってきな、蓮華。だが、無茶だけはするなよ? まずは、汝南をしかと手懐けることだ。孫家としちゃ、戦線が拡がりすぎると、苦しくなる一方だからな。しばらくは、守りに徹していればいい」
「はっ。早速、編成に取り掛かろうと思います。報告は、また改めて」
言葉に緊張を滲ませる孫権。腹は、決まったようだった。
生真面目な性分の中に、孫家の人間らしい燃え盛る本能を宿している。それがあるから、策や宿老たちも、権には一目置いているのだろう。
豫州の先には、曹操のいる兗州がある。争奪戦となって曹操が出張ってくることがあれば、自分が相手をするしかない、と孫堅は考えているのだった。そして、その時は必ずやってくる。曹操こそが、孫家による天下平定の、最大の障壁となる。
孫権と別れ、さらに奥へと進んでいく。黄忠の軟禁されている部屋は、館の奥まった部分にあった。
護衛の兵をつけてあるものの、これまで黄忠が目立った動きをとったことはない。静かに毎日を過ごし、娘と会う日を愉しみに待っている。現状その繰り返しで、黄忠は生きていると言っていい。
「数日ぶりだな、黄忠」
「ああ、孫堅殿でしたか。今日は、来客が多くて退屈いたしませんわ」
「ククッ、言ってくれる。来る途中で、酒を買ってきた。どれ、べつに毒など入っておらんが、確認のためにオレも飲んでやろう」
「いえ、わたくしはそんな……」
「遠慮などいらん。いいから、付き合え」
館についてから用意しておいた杯に、酒を注いでいく。
酒が嫌いでないことは、黄蓋からの話で知っている。ただ、敗れた相手である自分と飲み交わすのが、いまいち釈然としないというだけなのだろう。
中身を、一気に飲み干した。酔うにはほど遠い量なのである。勧めると、黄忠も渋々杯を呷った。
「何度も言っているが、孫家の力となれ、黄忠。劉表は、おまえが義理立てするような男ではない。負けるとわかった途端、城を捨てて逃げ出したような男なのだ」
「それは……。ですが、劉表さまがどんなお方であろうと、わたくしには引き立てていただいた恩があるのです。それを、すぐに捨てるなどと……。そうだ、璃々はどうしているのですか? ご迷惑を、おかけしていなければよいのですが」
「上手く、話をそらされてしまったな。璃々であれば、今日もオレの娘と仲良く遊んでいたそうだぞ? ククッ、強情な母とは、大違いではないか」
さすがに、癇に障ったのだろう。ついでやった酒を、黄忠はやや乱暴な素振りで胃に流し込んでいく。
子供とは、素直なものなのである。母の所属している軍が負けたことを、璃々は理解しているようだった。それは、自分たちが必要以上に危害を与えない、という点についても同様なのである。
実の妹のように、尚香は璃々のことをかわいがっているようだった。そのことは、黄忠も度々聞かされているのだろう。でなければ、静かに日々を送ろうなどとは、考えられないはずだ。
「よく考えてみるのだな、黄忠。おまえが政に参加しさえすれば、荊州の民は安心して暮らしを営むことができるのだぞ? 黄忠将軍の評判は、このあたりではかなりのものでな。近頃その姿が見えないからと、不安がる者すら出てくる始末なのだ」
「民たちが、わたくしを……。そう、なのですね」
「それに、おまえのような優秀な武人をこんな館の一角で腐らせておいては、この孫堅の名が廃る。黄蓋も、同じ戦場でおまえと弓の腕を競ってみたい、と言っていたぞ?」
「孫堅殿……。そういえば
「魏延か。その者であれば、数日前にわれらに降ったばかりだな。
「魏延ちゃんが……。そう、だったのですね。けれど、ほんとうに無事でよかった。わたくしとは違って、あの子の人生はまだまだこれからなんですもの」
「なにも、おまえだって老け込むような歳ではなかろう、黄忠? それに、おまえの復帰を待ち望んでいるのは、民衆だけではなく璃々とて同じなのだ。その期待に、そろそろ応えてやれ」
追うべき背中。それを、親である自分たちは見せ続けているべきなのだと思う。
娘たちには、伝わっているのだろうか。伝えることが、できているのだろうか。世のことを考えれば、ちっぽけな願いだった。だが、自分たちのいる世界というのは、そんなちっぽけな願いが集まって、成り立っているのではないか。
「孫堅殿。もう一献、いただけますでしょうか?」
「フッ、いいだろう。おまえが望むのであれば、思う存分付き合ってやる」
黄忠の口もとに、それまでなかった優雅な笑みが生まれている。
酒。小気味のいい音とともに、杯の中に飛び込んでいった。曇り空に晴れ間がのぞくまで、あと少し。そう確信して、孫堅は黄忠と杯を合わせるのだった。