やはり、故郷で感じる風はいいものだ、と曹操は思う。これまで、幾度となく駆けてきた道だ。小さい頃、遊びと称して野山で合戦の真似事をしていたこともある。そうして駆けずり回ってきたから、目をつむっていても迷うことはない。大袈裟だと笑われてしまうかもしれないが、そのくらい慣れ親しんだ土地なのだ。
乗馬の腹を蹴りながら、曹操は景色を見渡している。屋敷までは、あと数里といったところか。
馬蹄が地面を叩く音が、大きくなっている。並走していた
「殿。先に行って、みなに殿のお帰りを知らせて来ようかと思うのですが」
「そうか。
柳琳。従妹である
旅先で味わう土地の料理も悪くはないが、柳琳は自分の好みをよくとらえているのだろう。とにかく、塩梅がいいのである。そのあたりにも、柳琳の細やかな心遣いが表れているのかもしれない。
「承知いたしました! それでは、さっそく行ってまいります!」
あれでは、屋敷に着く前に馬が潰れてしまうのではないか。曹操がそうぽつりともらすくらい、春蘭は乗馬に気合を入れ続けている。
土煙。視界を遮るほどに、舞い上がっている。春蘭の姿が見えなくなってしまうまで、あっという間だったという気がしていた。
いつものことだ、と言わんばかりに
†
「おおーい、誰かおらんのか! 夏侯惇だ、殿がもうすぐお戻りになるぞ!」
まるで戦場にいるのかと錯覚してしまうほどの、大音声である。門扉のうえで屯していた鳥たちが、一斉に飛び立っていく。
城郭の外に築かれている分、曹家の屋敷は堅固な造りをしていた。周囲には堀が切られ、その内側には丈夫そうな壁が建てられている。さながら、小さな砦だった。
敷地内にある建物の屋根から、ひょっこりと顔を覗かせている少女がいた。春蘭も、すぐに気がついたようだ。
「
「なんだ
春蘭が、
華侖の瑞々しい素肌。陽光に照らされ、光り輝いているようだった。文字通り、華侖は生まれたままの格好で、屋根から春蘭のことを見下ろしているのだ。ほどよい気候に釣られて、昼寝でもしていたのだろう。春蘭が呆れつつも厳しく注意しないのは、これが日常茶飯事であるからなのだ。
華侖からみて、柳琳は実の妹なのである。
貞淑を絵に描いたような妹。頼りにしているのは、華侖も同様だった。妹と違って、この姉は感性で生きているといってもよい。とにかく、悩む前に行動してみる質なのだ。それが成功につながることもあったが、こんな調子ではいつか手酷い失敗を犯すのではないか、と柳琳には心配されてもいるのである。
「あははっ、ごめんっす」
「ついでだから尋ねるが、柳琳の居所を知らないか。一刀は、あいつの作る飯が好きだからな。こうして旅から帰ってきたときには、いつもそうだ」
春蘭の口調が、段々と砕けたものになってきている。夏侯家と曹家は代々付き合いがあるから、このふたりも親族同然なのである。
それに、気質が似通っているということもある。その分、気を許しやすいのだろう。
「うーん、それは仕方ないんじゃないっすか? 春姉だって、柳琳のご飯、いつもおいしーって言いながら食べてるっす」
「むむ、それもそうか。しかし、飯のことばかり考えていたせいか、なにやらわたしまで腹が減ってきたではないか。華侖、お前はやはり
「はーい、了解っす!」
素早く服を身にまとった華侖が、屋根から軽快に飛び降りてくる。活発さにかけては、曹家のなかでもずば抜けているといえるのだろう。
すでに、春蘭は屋内に向かって歩きはじめていた。柳琳をつかまえれば、なにか有り合わせのものを用意してもらえるかもしれない、と考えているのだ。
どれだけ押さえこもうとしても、腹の虫は言うことを聞いてくれそうにもなかった。それで、普段は覇気に満ちている春蘭の背中が、心なしか小さくなってしまっている。
†
使用人に馬をあずけ、曹操は屋敷の土を踏んだ。どこか気が抜けてしまうのは、人間の性なのだろう。
前方から、何人かの声が聞こえている。一番に飛び出してきたのは、やはりというか華侖だった。
「華侖か。出迎え、苦労である」
「えへへっ、久しぶりの一刀っちっす! ぐりぐりー」
隣りにいる秋蘭が、柔和に微笑んでいる。どれだけ身体が大きくなろうとも、華侖の心は幼き頃のままだった。こうして抱きついてくるのだって、いつものことなのである。
それでも、臀部は女らしい曲線を描き始めていた。指を使って、その丘陵をそっと撫でてみる。きょとんとした表情。華侖には、尻に触れられた意味がわからなかったのだろう。
笑ってごまかしながら、曹操は秋蘭のことを流し見た。くだらないことはやめておけ。動きとしては頭を左右に振っているだけなのだが、そう言っているように思えてならなかった。
「ほえ……。どうしたんっすか、一刀っち。あたしのお尻に、なにかついてるっす?」
「ふっ……。ほら見ろ、華侖を困らせてしまったではないか。だから、戯れはそのくらいにしておくのだな、一刀」
「俺なりに、親愛をあらわしてみたつもりだったのだよ。しかし、華侖にはいささか早すぎたようだ」
「早い? 早いって、なにがっすか?」
華侖が、曹操と秋蘭の顔を交互に見やっている。結局、曹操の行動を理解することについては諦めたようだ。
笑いながら、曹操はもう一度従妹の尻に手をやった。先ほどの触れ方とは違って、今度は軽く叩いてみせる。それで、華侖は不思議そうにまた首をひねってしまうのだった。
「おかえりなさい、一刀さん。それと、楽しみにしていただいているのに、申し訳ありません。お食事のことですけど、いますぐにとなると、お昼の残りくらいしかお出しできなくって」
「ああ、それで構わない。外にいると、柳琳の手料理が無性に恋しくなってしまってな。
「うふふっ、そうなんですか? でしたら、出せるものだけでも、準備をしておきますね。一刀さんだって、汁物くらいは温かいほうがよろしいでしょうから」
「んっ……、柳琳。そういえば、春姉はどこにいっちゃったっすか? さっきまで一刀っちが帰ってくるからー、ってあんなに走り回ってたのに……」
「春蘭さんなら、まだ厨房ではないかしら。出会ったときに、食べるものがほしいと仰っていましたから」
柳琳の見事な金髪が、楽しげに躍っている。着物の裾からは、肉付きのいい腿が姿をのぞかせていた。
妻にするのであれば、こういう女がいい。そう思わせてしまうような魅力を、柳琳は持ち合わせている。
人当たりがよく、なにかにつけて気の利く性格をしているのである。美人であることは、いうまでもなかった。
自分と柳琳。そこには、親族という括りがある。しかし、それは仮初めのものでもあるのだ。秋蘭が、そっぽを向いてため息をついている。それは、曹操の心中をよく分かっているからなのだろう。
「あたし、春姉を呼んでくるっす! 一刀っちだってお腹がへってるのに、自分だけ先に食べちゃうなんてずるいじゃないっすか!」
「あっ、待って姉さんっ!? あはは、行ってしまいましたね……」
春蘭を彷彿とさせる直情ぶりを、華侖は発揮している。はつらつとした声。数瞬の間、耳の中で残響していた。
柳琳が、苦笑いを浮かべている。華侖には、自由に振る舞わせておけばいい。日頃から、曹操はそのように諭していた。失敗の中からしか、学べないこともあるのである。責任くらい、当主である自分が背負ってやればいい。そんな風に、割り切ってもいるのだ。
「帰っていらしたのですね、お兄さま。ふんっ、ご機嫌そうなことで。ですが、従妹と過剰にベタつかれるのは、そろそろお止しになられたほうがよろしいのではありませんの?」
「そういうお前は機嫌が悪そうだな、栄華。そうだ、栄華も旅をしてみるといい。普段とは違った風景を見ていると、心が晴れるぞ。それに、美しい女と出会うこともできるのだよ」
華侖と入れ替わるようにして出てきた
繊細な金糸のような髪。それが、指にくるくると巻きついている。栄華も、黙っていればかなりの器量良しなのである。それに、口では悪くいいながらも、これで自分のことを気にかけてくれているのだ。
お兄さま。幼少の頃から、栄華からはそう呼ばれていた。当主となったいまも、それは変わらないことだ。変わったことといえば、こうして棘のある態度を、しばしば取るようになったことくらいなのである。可愛らしい反抗期。曹操からしてみれば、栄華の態度はその程度のことだった。
「栄華よ、その手はどういう意味だ。握るくらいであれば、いくらでもしてやれるが」
「ちっ、違いますわ! お兄さまだって、本当はわかっていられるでしょうに。はあ……。わたくしに、これ以上心労をかけさせないでくださいまし」
差し出された手を包み込んでやろうとすると、栄華は慌ててそれを引っ込めてしまう。
こうした部分があるから、からかいたくなってしまうのである。ほんのりと赤く染まった、栄華の頬。それを見て、柳琳は口もとを手で押さえて笑っている。
「うう、柳琳まで一緒になって……。ですがお兄さま、今日こそ観念していただきますわよ。旅銀の残りを、わたくしにしかと見せてくださいな。ほらっ、早くっ」
「なんだ、そのことか。だったら、受け取るがいい」
銭の入った袋を、栄華に手渡した。
まだ、いくらか重みが残っているはずだった。いつも結構な量を持ち歩いているから、使い切ってしまうことはそうありはしないのである。
ちゃりちゃりと、銭が擦れる音がしている。袋を振っている栄華は、ますます機嫌を悪くしているようだった。厳しくなっていく眼差し。眉間に、しわが一本深々と刻まれてしまっている。
「わたくし、いつも言っているでしょう? お兄さまには、気前よく銭をばら撒きすぎるきらいがあるのです。曹家一門を代表するお方として、改めてくださいませと、何度も何度も……」
「そうは言うがな、栄華。吝嗇な男に、誰がついていきたいと思うか。曹家の将来のためにも、俺はいまのやり方を変えようとは少しも思わんのだよ。だから、おまえも自分のやり方を変える必要はないのだ」
「また、そんな言い方をなさって。お兄さまは、いつもずるいですわ……」
栄華が、悔しそうに奥歯をかんでいる。
この議論は、以前から度々行われていることなのだ。それでも、曹操は考えを曲げる気はなかった。
幾度の旅を経て、わかってきたことがあった。いつだって栄華は、自分がぎりぎりまで使ってしまうことを見越して、金を渡してくれているのである。要は、その範囲さえ越えてしまわなければ平気なのだ。
「ふっ、そう怒るな。栄華がいてくれるから、一刀は安心して放蕩の旅をすることができているのではないか。その信頼には、応えてやるべきなのではないかな、栄華は」
「まったく、秋蘭さんまで……。よろしいですか、お兄さま?」
姿勢を改め、栄華がじっと目を見つめてきている。琥珀色をした、綺麗な瞳だった。
おおよそ、言いたいことの予想はついていた。それでも、最後まで聞いてやるのが当主としての務めなのだろう。少々気疲れのようなものを感じつつも、曹操はひとまず聞く態度を崩してはいない。
「なにかな、栄華」
「また無茶な使い方をされたときには、わたくし叔父さまに言上して、お兄さまをたしなめていただく所存ですの。ですから、それだけはどうかご留意くださいまし。わたくしだって、一門当主であるお兄さまに、このようなことをあまり申し上げたくはありませんのよ」
「ははっ。栄華も、ずいぶんと意地悪なことを言うようになった。そうは思わないか、柳琳?」
「わ、わたしですかっ? でも、そうですね。栄華ちゃんの言うことに賛同するわけではありませんが、たまには叔父さまに文でも出されてはどうでしょうか。もうずっと、お会いされていないんですよね?」
栄華らのいう叔父さまというのは、前当主である
太平道による乱をきっかけに、曹嵩はすっかり隠棲するようになってしまっていた。いまごろは、連れの女と徐州琅邪郡でのんびりと暮らしているのだろう。向こうが寄越してこないから、曹操も音信を断ったままでいる。ただ、それだけのことだった。
特別に、仲が険悪というわけではないはずだった。むしろ曹嵩に対し、曹操は感謝の念を抱いてすらいるのだ。
簡単にいえば、曹家は二代続けて養子が当主の座を継いでいた。だが、実子ではないとはいえ、曹嵩は曹家ともつながりの深い夏侯家の生まれなのである。それに、曹嵩の養父である曹騰は宦官だったから、どう転んでも跡継ぎを作ることができなかったという事情もある。
そういった意味では、曹操が継嗣となったのは異例なのだといえよう。曹嵩に子がないのであれば、ほかの親族から養子を迎えることもできたはずなのである。
わが子は、天からの授かりものである。
曹嵩が、周囲にそう語っていたと耳に挟んだことがある。自分が、どこからやって来た人間なのか。曹操にも、それはわからないことだった。
当初は、ここでの暮らしにかなりの違和感を覚えていたはずだった。それが、いまとなっては当たり前のことになっている。剣を振り、馬を駆けさせ、兵法を学んできた。それでも、自分はまだ小さいままだ。
曹家のひとりとなったのは、幼少の折だった。そのとき、自分はいくつだったのだろうか。もう、思い出そうともしないことだ。
それから、どのくらい後になってのことだったか。操の名を与えられ、孟徳という字を持つようになった。それでも、曹操は一刀という名にこだわりを持っていた。真名として用いているのも、そのためなのである。
顔すらうまく思い出すことのできない、本当の両親。元から持っていた名前くらいしか、もうつながるものはなくなってしまっているのだ。おそらく、二度と会うことはないのだろう。そのくらいのことは、かなり昔から察しが付くようになっていた。
「一刀? おい、どうかしたのか」
「いいや、なんでもない。秋蘭たちと出会った頃のことを、少し思い出していたのだよ。あれも、いまとなっては遠い話だ」
「ふっ、そうなのか? まだまだ、物思いに耽る歳でもないだろうに」
夏侯の二人と関係を持つようになって、もう何年になるのだろうか。
曹家に居着くようになってから、兄妹のように過ごしてきたように思う。
はじめから、二人とは仲が良かったわけではない。養父から命じられて、一緒にいてくれるだけの存在。最初は、そのくらいにしか思っていなかった。だから、近くにいても疎外感がないわけではなかったのである。
どこかから降って湧いたような自分は、案外おそれられていたのかもしれない。打ち解けるきっかけを作ってくれたのは、やはり春蘭だった。
「あ、一刀」
「ははっ。一刀、ではないぞ。なんだ春蘭、間の抜けたような顔をして」
「お行儀がよろしくありませんわよ、春蘭さん! お兄さまも、のんきに笑われている場合ではないでしょうに」
栄華が、こめかみに指を当てて呆れ返っている。
まるで、華侖に押されるような格好なのである。そうであっても春蘭は麺の入った器を手放さず、大事そうに抱えているのだ。これでは、どちらが年長者なのかわかったものではない。
「落ち着いて、栄華ちゃん……。あうぅ……。どうしましょう、一刀さん」
「どうもこうも、これが春蘭という女なのだよ。栄華、面倒な話はまた今度にしてもらうぞ。あまりのんびりとしていては、春蘭に全て食われてしまいそうなのでな」
「ちょっとお兄さま、わたくしの話はまだ終わって……!? はあ……。まったく、はぐらかすのがお上手なのですから」
栄華の恨み節。
聞こえていないふりをして、曹操は柳琳の手をそっと引いた。恥ずかしがる素振りに、つい心を惹かれてしまう。
「ああっ、あのっ、一刀さん……!?」
「ううーっ、柳琳だけずるいっす! 一刀っち、あたしもあたしも!」
控えめな妹と、強引な姉。手のひらの中で、曹操は二人の温度を感じている。
やわらかな髪。ふわりと、肩に当たっている。恥ずかしがってはいるものの、嫌がっているわけではないのだ。柳琳が、自ら身体をよせてくる。それを見て、華侖が自分もすると駄々をこねている。
もうしばらくは、この穏やかな日々が続くのだろう。しかし、牙だけは常に研いでおく必要があるはずだった。
にわかに、眼光を鋭く変化させていく曹操。その横顔を、柳琳は思慕の念をもって見つめていた。