持ち込まれた書簡を点検し、
最近になって、新しく入ってきた人員が増加しつつある。それだけ、曹操のやり方を理解した文官が、地方に多数出向いているということだった。
自身が、他人の経歴をとやかく言えるような立場の人間でないことはわかっている。
その曹操が、戦を終えて本拠に帰還してきているようだった。
援軍として出撃していた
平気だと信じていても、なにせ相手は圧倒的な大軍だったのである。数としては、自分たちが以前洛陽で対峙した連合軍よりも、多いくらいだったのだろう。曹操は、青州黄巾軍を一度大きく打ち破ってから、うまく折り合いをつけて和睦してきたようだった。
戦の才覚があり、多数の人間を惹きつけるほどの器量がある。思い返せば、かつて袁紹を取り逃がした時も、曹操が一緒だった。誰かに従い、安穏な暮らしを得ようなどという気は微塵もないのだろう。抗い、闘い、欲するものを追い続ける。それが、曹操という男の進む道なのか。
こちらで世話になるようになってから、恋と何度か相談していることがある。
それに生きているとはいっても、すでに月は乱世に対する野心をなくしている。賭けと言えば賭けだったが、恋の直感を信じるという意味でも、詠は決意を固めていたのだ。
「賈駆さま。曹操さまが、こちらにお越しになられているようですが」
「そう、ありがとう。ボクは少し席を外すけど、仕事の手は止めないように。いいわね?」
今朝、役所に曹操の来訪があることを、
たとえ月のことがなくとも、目通りはしておくべきなのだろう。まだ、曹操に仕えるということに関して、踏ん切りがついたわけではない。しばらくは、気楽な身分で働くのもいいだろう、と
だが、その判断の柔軟さも、曹操の度量の広さがあってのことなのである。ただし、風だってなにも主君のことを軽く見ているのではない。そこには、いい意味での気安さと、確固とした信頼関係があるのだ。それがあるから、あの風も留守居として、自由に采配を振るうことができているのだろう。
ちょっとした緊張のようなものを感じながら、詠は廊下を歩いていく。
曹操のいる一室の前には、護衛らしき兵士が数人たむろしている。護衛に事情を話していると、部屋の中から声をかけられた。どうやら、曹操が自分の存在に気づいたようなのである。
「そなたが、賈駆だな。俺は曹操だ。もしかすると、洛陽で会ったことがあるのかもしれぬが」
「はい、曹操殿。ですが、こうしてお目にかかるのは、おそらくはじめてではないかと。ボクは、裏方に回っていることが多かったものですから」
「そうか。して、鄄城での暮らしに、不自由はないか? 気になることがあれば、すぐに申すがよい」
「ご配慮、ありがたく存じます。とはいえ、程昱殿や荀彧殿のおかげで、役所での仕事を得ることができているのです。流浪をしていた身でこれ以上を望むのは、過ぎたことかと」
「二人とは、真名を許し合ったと聞いている。ははっ、それにだ。ここは、なにをするにも窮屈な、あの宮殿ではないのだぞ? だから、もう少し楽に振る舞うといい」
「はっ、はあ……。それでは、ボクの詠という真名をお受け取りください、曹操殿。それが流れ者にできる礼儀だと、恋のやつに教えられましたので」
「そうなのか? 恋というのは、不思議な魅力をもった女であるな。茫洋としているようで、見るべき部分はしかと見ているのだ。俺も、その力で
曹操が、恋のことを語りながら柔和に笑っている。
その身体のどこに、膨大な闘志を隠しているのか。長安に移動する自分たちを、わずか一部隊で追撃してきたと聞いた時には、さすがに正気を疑ったものだ。軍才があるが、負ける時は派手に負ける。それでいて、次に立ち上がった時には、以前よりも多くの麾下を従えているのが、曹操だった。
曹操は、あの追撃戦の中で死んでいてもおかしくなかったのである。それが恋の恩返しによって生き延び、兗州を
「一刀だ、詠。ふっ、
「い、いえ、さすがにそれは。ボクからは、一刀殿と呼ばせていただきます」
「うむ。それで、詠は俺になにか話があって、ここに来たのではないのか?」
「ご明察のとおりです、一刀殿。いま少し、近くにいっても?」
「好きにしろ。それに俺も、おまえの顔をもっとよく見たいと思っていた」
椅子に深く腰かけ、曹操は落ち着き払っている。
時が時ならば、自分はその生命を狙っていたのかもしれない、と賈駆はふと思う。だが、いまの曹操は害すべき対象ではなく、むしろ協力を仰がねばならない存在だった。
鄄城に流れ着いた日、桂花は曹操にあまり気を許すなと言っていた。あとから知ったことだが、桂花はあの時すでに曹操の子を孕んでいたのだ。どのような気持ちから、桂花はそのような言葉を自分にぶつけたのだろうか、と詠は考えることがある。
男に対する独占欲。あるいは、一度嵌まり込んでしまうと簡単には抜け出せなくなるような深さを、曹操は備えているのか。それは、身も心も許して、はじめてわかることでもあるのだろう。
確かに曹操には、わずかな油断から呑まれてしまいそうな雰囲気がある。しかし曹操は、純粋さを絵に描いたような恋が、懐いているような相手でもあるのだ。それだけに、人となりに対する理解が、余計にむずかしくなっている。
洛陽時代から面識のある月は、曹操のことをどう思っているのだろうか。敵対はしたものの、それは正面からのぶつかり合いだった。誰にだって、志や夢がある。それを追って、自分たちも多くを犠牲にしてきたのだった。
「単刀直入に言うと、一刀殿に引き合わせたい者がいるのです。それで、一度ボクたちの館を
「ほう、引き合わせたい者がいるとな。面白い、そちらの都合さえよければ、今夜にでも参るが」
「ありがとうございます。重ねてお願いがあるのですが、館には少人数、できればおひとりで来ていただきたいのですが」
曹操は、すぐさま提案に乗ってきた。
長安で起きた事件について、違和感のようなものをもっていたのかもしれない。恋の普段の様子を知っていれば、そう感じていてもおかしくはないのである。
月の存在を、表立ったものにはしたくない。そんな考えがあるとはいえ、ひとりで訪問しろというのは、自分でも無理な提案だと思っていた。心を通わせつつあるとはいえ、世間的に言えば恋は主君殺しをしてきた将軍だった。だから、普通は曹家の麾下に、その受け入れに疑念をもつ者がいるものなのである。
その反対を無視してまで、曹操は自分の願いを聞き届けてくれるのか。問題は、そこだった。
「少数にとどめるつもりだが、近くまでは護衛の者と行くことになる。そのくらいは、許せよ」
「へっ……? ほ、ほんとに、いいの? それともボク、なにか聞き違いでもしてしまったんじゃ……」
「ふっ。なんだ、おかしな顔をして。しかし、あの董卓の軍師をしていた詠であっても、そのような顔をするのだな」
曹操の表情が、不敵なものへじわりと変化していく。
自分の腹の中を、見透かされているのではないか。曹操に見つめられていると、どうしてもそんな気分になってしまう。
これが、桂花の言っていたことの意味なのか。
跳ね上がりそうになる胸を抑えて、詠はなんとか居住まいをただそうとしていた。
「も、申しわけありません。一刀殿が、あまりにも簡単に了承してくださるので、驚いてしまってつい」
「無理に、かたい言葉を使う必要はないのだぞ? 人間、楽なようにするのが一番だ。それに、俺は誰かに気を遣わせたくて、こんな立場にいるわけではないのだよ」
「うぅ……。わかりました、ちが……わかった、わよ。一応確認しておくけど、ほんとに今夜来てくれるのよね、一刀殿?」
「嘘など申さぬ。それとも、みなを連れて大々的に訪問したほうがよいのか、詠?」
「それだけは、勘弁してほしいわね……。だったら、ボク待ってるから。一刀殿の悪いようには、決してしないつもりよ」
「心得た。ならば、もう仕事場に戻るがいい。あまり詠をここに引き止めると、部下たちが困ってしまうだろう」
「うん、そうするわ。まかされた仕事は、ボクも途中で投げ出したくはないもの。風や桂花、それに一刀殿の信頼を裏切らないためにもね」
「いずれは、直臣として迎えたいものだな。詠のような能吏が、いまはひとりでも多く必要なのだ」
曹操の言葉に返答をする代わりに拝礼をして、詠は部屋を退出していった。
鼓動。まだ、どこか早くなったままだった。
曹操に、欲されている。物心がついてから、仕えてきたのは月ひとりだった。その間、誰かに仕官を誘われたこともない。あったとしても、誘いに乗るはずがなかった。
いまは、どうなのだろうか。自分を縛るものは、なにもないと言っていい。それに、曹操のもとで力を示すことができれば、それが月のためになるのかもしれない。だが、すぐに決められるものではなかった。もう少し、曹操のことを見極めたい。きっと、それが自分のためになり、月のためにもなるのだと思う。
今夜、曹操が館に来る。対応については、すべて月に一任するつもりなのである。
なにを話し、なにをぶつけるのか。月は、しがらみから解放されたように見えてはいるものの、細部に影を落としたままなのである。それが、曹操と会うことによって、どう変わっていくのか。詠には、まだわからないことだった。
†
夜半。
曹家から与えられた館で、詠は静かに待ち人をまっていた。
刻限で言えば、もうそろそろやってくる頃合いなのである。ちょっと落ち着かないのか、恋は門のあたりを先ほどからくるくると歩き回っている。当事者である月は中にいて、その表情すらうかがい知ることはできなかった。
やがて、かがり火が見えてくる。
浮かび上がった人影は、ひとつだった。待ちきれないと言うように、恋がかがり火に向かって駆けていく。曹操。約束していたように、護衛とはどこかでわかれてきたようだった。
「待っていたわよ、一刀殿。さっ、あがってちょうだい」
「ああ、そうさせてもらおうか。詠、これを」
曹操が、腰に佩いていた剣を差し出してくる。それには、さしもの恋も面食らっているようだった。
驚きが、顔に出てしまってはいないだろうか。剣を受け取りながら、詠は思わず押し黙ってしまう。
こちらからはなにも言っていないのに、曹操の方から剣を預けてきたのである。そもそも身ひとつで館に来ているというのに、豪胆にもほどがある。もしくは、これが曹操なりの信頼の示し方なのかもしれない。
どこかに、隠密の技に長けた護衛が潜んでいるのかもしれない。けれども、こちらには天下無双の武を誇る恋がいるのだ。恋が本気を出しさえすれば、曹操の首などいとも簡単に飛ばしてしまえるのである。
そこまで考えて、詠は無意識に息を呑んだ。
このような感情を抱いているのは、もはや自分だけではないのか。身分を捨てた時点で、月は世間に対する欲を失っている。恋にしても、そうだった。なにより、曹操のもとに身を寄せることを決断したのは、他ならない恋なのである。
「参るぞ、詠。引き合わせたい人物とやらが、中にいるのだろう? そこまで、
「わっ……。ぼ、ボクったら、ごめんなさい。ほら、恋も行くわよ」
「んっ……? 詠、顔がすごく赤い。もしかして、熱がある?」
「な、なんでもないってば。だからアンタは、そんなこと気にしなくてもいいの!」
動揺を隠そうと、詠は大股で館の中を進んでいく。
恋と曹操は想像していた以上に親密そうであり、先導役を買って出ていなければ、ちょっとした疎外感すらあったのかもしれない。
とにかく、落ち着け。
月の居室まで曹操を連れていけば、それで自分の役目は終わりなのである。廊下のきしむ音。それが、いまはやけにうるさく聞こえている。
「ついたわよ、一刀殿。ボクの仕事は、これでもうおしまい。恋とボクはここで待っているから、あとはお願い」
「承知した。さて、なにが出てくるのか、愉しみになってきたぞ」
曹操が、月の待つ居室に足を踏み入れていく。
自分には、それを見守ることしかできなかった。これまでは愉しげに話していた恋も、いくらか不安を感じているようである。その手を握ると、詠は廊下の片隅に座り込んだ。