あの夜の出来事があってから、曹操のことを考えない日はなかった。
大切な友人をなぶった、悪辣な男。そうやって簡単に切り捨てることができれば、どれほど楽なのか。
館を
そこには、やわらかに笑んでいる
「行ってらっしゃい、
「うん、ありがとう、月。しばらく会えなくなってしまうけど、戸締まりだけはきちんとしておくように。いいわね?」
「もう、私は小さな子供じゃないんだよ、詠ちゃん? でも、そうやって心配してくれるのは嬉しいかな」
困ったように首を傾げる月。曹操から与えられた輪環が、揃って揺れている。
あれから数日おきに館に渡ってきては、曹操は月を犯していく。それを、自分はなにも言わずに看過しているだけだった。
情交の前。ともに食卓を囲むことも、最近では普通になっている。火がついた瞬間以外は、静まった波のようにこちらをじっとうかがっているのが、あの男だった。変幻自在というか、まだ全貌を掴みきれていない気がしている。そのように感じてしまうのは、頭で考え過ぎているためなのか。
豫州行きに同行すれば、それを確かめることもできるのだろう。自分の申し出を、曹操は快く受け入れてくれていた。
「ねっ、詠ちゃん?」
「んっ……。なあに、月?」
不意に、月の顔が近くなっていく。
唇。気づいた瞬間には、押し当てられていた。
やわらかく、温かい。好きだという気持ちはあったが、月とこのような行いをするのは、はじめてだった。なにより、口づけ自体をこれまでしたことがなかったのである。
「はあっ、はむっ……。んんっ、詠ちゃん……」
「んっ、んむっ……。ちゅ……、はあっ……。月、んくっ……」
自分と違って、月はきっとはじめてではないのだろう。
唇の輪郭を食む動きは丁寧で、性格をよくあらわしているようだった。
「んはあっ、はあっ……。月、急にどうしたのよ」
「ごめんなさい。迷惑、だったかな?」
「そ、そんなことないってば。ボクだってその、月のことをほんとに大切に思っているんだから」
「ふふっ。ありがとう、詠ちゃん。私も、詠ちゃんのことが大好きだよ」
「ううっ。ここまで面と向かって言われると、ちょっと恥ずかしいかも……」
口づけをした感覚。当分、消えることはないはずだった。そのくらい、月との行為は衝撃的だったのだ。
月はほほえみながら、指で首輪を愛おしそうに撫でている。
変化の根源には、きっと曹操がいるのだろう。考えると、ぞくりとするようなしびれが、身体を通り抜けてしまう。
「一刀さまが、おっしゃっていたの。詠ちゃんなら、きっと受け入れてくれるだろうって。それに、しばらく顔を見られないって思うと、ちょっと寂しく感じてしまったのかも」
「そっか。一刀殿が、そんなことをね。なんだか、ますますわからなくなってきたな。ボクも、
月の顔が、恥ずかしげに赤らんでいる。
曹操に後押しされたとはいえ、多少は緊張を感じていたのだろう。それを嬉しく思えてしまうのは、自分勝手が過ぎるのだろうか。
「詠ちゃん。いいんだよ、私に遠慮なんかしなくたって。詠ちゃんやみんなには、これまでずっと無理を聞いてもらってきたんだもの。だから、これからはやりたいことを、自由にやってもらいたいんだ。だけど、ずっと友達でいて欲しいって思ってしまうのは、私のわがままなのかな?」
「そんなの、わがままとは言わないって。ボクは、大好きな月を支えてあげたくて、一緒に手だって汚してきた。だから、立場がどんなに変わったとしても、生涯友達でいるって誓えるもの。月も、それだけは絶対に忘れないように、いいわね?」
「うん。約束するよ、詠ちゃん。ずっと、ずっと一緒にいようね」
気持ちの昂ぶりにまかせて、今度は自分から月に口づけてみる。
一度やってしまえば、簡単なものだった。思いの丈をぶつけるように、唇を吸い上げてみる。下手くそだろうが、どうだってよかった。ただ、好きだという気持ちを、月に伝えられればそれでいい。
夢中になるとは、このことを言うのだろう。月と触れ合っていると、時間すら忘れてしまえるようだった。それで、近づいてくる足音にも気づかなかったのだと思う。
「おうおう。なんや、二人して愉しそうなことしてるやないの。詠がさっぱり姿見せへんから様子うかがいに来たんやけど、もしかしてウチお邪魔やったかなあ?」
「はへっ!? し、
「ううーん。ほんとのこと話すと怒られそうやから、いま来たってことにしといてくれるか? それよか、一刀がお待ちかねやで、詠」
「あうっ……。ごめんなさい、準備はできているから、すぐに行くわ。それじゃ、月」
「うん。今度こそ、ほんとに行ってらっしゃい、詠ちゃん。霞さんも、気をつけて」
「月も、達者でな。あんまり、恋のやつ甘やかし過ぎたらあかんで?」
「へう……。そんなに、甘やかしているつもりはなかったんですけど」
「あははっ。十分、甘々やとウチは思うけどなあ。まっ、そんなことはなんでもええねん。豫州土産でも愉しみにしといてな、月っち」
「はい。ありがとうございます、霞さん」
霞の言っていることは、もっともなのである。月やねねだけでは、恋の旺盛な食欲をたしなめることなど、できるはずがないのだろう。曹操は笑って許してくれるのだろうが、客分ゆえにほんとうならばもう少し節制するべきではあるのだった。
まとめた荷物を手に持ち、詠は歩きはじめた。月は館の門のそばに立ち、手を振って見送ってくれている。
†
集合場所につくと、曹操の側近である夏侯惇から声をかけられた。
「遅かったではないか、詠よ。殿を、あまり待たせるでないぞ」
「悪かったわね、春蘭殿。ちょっと、仕度に手間取ってしまったのよ」
「ふうん、仕度にな? まあ、素直に謝ったのだから、許してやろうではないか。もっとも、私は
そう言って、春蘭は豪快に笑ってみせた。
左眼を覆っている眼帯は、曹操からの贈り物なのだという。蝶を象った形状。それが愛らしく、とても気に入っていると長々と聞かされたのを覚えている。
そういう時にかぎって、あの妹は助け舟を出してくれないのである。こちらが困っているのを見て面白がっていたのか、それとも姉の語りに心底聞き入っていたのか。そのどちらとも取れないのが、秋蘭の厄介なところだった。
荷造りを妹まかせにしたことを、自慢げに話していいことなのだろうか、という疑問がふと浮かんでくる。話しの聞こえる位置に立っている霞が、苦笑しているのが見えていた。おそらく、自分と似たような感想が湧いて出ているのを、堪えているのだと思う。
「詠」
「あら。
曹操を見送るつもりなのか、桂花もこの場に来ていたようだった。
最初に出会った時はほとんどわからなかったが、いまではかなり腹が大きくなっている。出産まで、それほど日がないのかもしれない。館にいるのは落ち着かないからと出仕は続けているのだが、さすがに仕事の量は減らしているようだった。加えて、なにかあった時に対応できるようにと、近頃は医師が毎日役所にやって来る。それも、曹操が命じてのことなのである。
所構わず
しかし、それを言うと桂花が確実にへそを曲げてしまうのを知っている。
時々、
「まったく、あれだけ忠告してあげたってのに、どうしてこうなるのかしらね。あなた、残念だけどたぶんもう手遅れよ」
「へっ、それはどういう意味なの? ボクが、手遅れですって?」
「そっ。自分じゃ気づいてないんでしょうけど、もうダメね。一刀は、絶対に逃してなんてくれないわよ? まあ、詠が自分で決めたことなんだからしょうがないけど、旅路の間は覚悟をしておくことね」
「ちょ、ちょっと、おどかすのはやめなさいよ。でも、覚悟か」
「直臣になるのだったら、私は歓迎するけどね。これまで以上に、仕事をまかせやすくなるんだし。人手は、いくらでも欲しいのよ」
腕組みをしながら、桂花は曹操の背中を見つめている。厳しさと温かさ。その両方が入り混じった眼をしていた。
曹操が目指しているのは、この国の覇者なのである。
月はあくまでも、帝を頂点とした体制を維持しつつ、世の中の刷新を図ろうとした。
四百年続いた、帝の血。尊く、国を治める権威としては、間違いのないものだった。だが、それにもいつか限界は来る。太平道が乱を起こし、いまでは群雄が好き勝手に動くようになっているのだ。
乱世を
豫州路に同行することを決めたのは、曹操と個人的な話をするためというのが、大きな理由だった。
「賈駆。あたしは馬超、字は孟起だ。同じ涼州出の人間として、よろしく頼むよ」
「ああ。あなたが、あの錦馬超だったのね。ボクのことは、詠でいいわ」
「んっ、そうか。だったら、あたしのことも
「そうかもね。翠も、豫州にはともに行くんでしょ? 一刀殿の客分同士、仲良くしてもらえると嬉しいわ」
「客分か。でも、そんなの関係なしに、詠とは仲良くさせてもらうつもりだよ。戻ったら、月殿にも挨拶をしたいと思っているんだけど、いいかな?」
「そっか。月も、きっと喜んでくれると思う。涼州の風景も、長らく見ていないんだもの。翠の口から、故郷のことを話してあげてくれるかしら」
涼州のことを話題に出すと、ちょっと照れくさそうに翠は笑う。
同郷の者として、月に複雑な感情を抱いていても不思議ではなかった。それだけ、自分たちは苛烈な行いを進んでやってきたのである。後悔はなくとも、思うことがないわけではない。それだけに、翠の方から申し出てくれたのは嬉しかった。
「みんな、準備はできているようだな。秋蘭、桂花。俺が留守の間は、よく
「御意です、殿。われらに、万事おまかせください」
「アンタじゃなくて秋蘭と相談している方が、よっぽど気が楽でいいかもしれないわね。だから、あんまり急いで帰って来なくてもいいわよ?」
曹操の護衛として同行するのは、春蘭、翠、そして霞の三人である。
余計な兵を連れて回るよりも、よっぽど頼りになる面々だろうと曹操は話していた。それに、豫州南部には孫家の軍勢が入ったとの報告を受けてもいる。相手を刺激せず、なおかつ密かに動けることを優先した編成なのだと詠は思っていた。
「詠。乗馬の方は、どうなのだ?」
「ボクだって、涼州の女なんだ。馬くらい、いくらでも駆けさせられるよ」
「それは、少し残念だな。不得手ならば、絶影に乗せてやろうと思っていたのだが」
「そ、そんなのいいってば! ほら、行きましょう一刀殿」
曹操の乗馬が、駆け出していく。
足取りは非常に軽く、体格にも他にはない風貌がある。名を、絶影と言うようだった。
二日は、兗州内部を東に駆けることになる。途中で南に折れ、そこから陳珪のいる沛へ向かう。
霞と翠。二人の馬が、競うように先頭を駆けていた。領内ということもあり、少しくらい馬を遊ばせてやってもいいと思っているのだろう。
拮抗する二頭に追いすがってやろうと、絶影が加速していく。馬蹄の舞い上げた土煙。ほんの一瞬、見惚れてしまっていたようなのである。置いていかれないようにと、詠が慌てて馬腹を蹴り上げた。
また、少し胸が高鳴っているようだった。月と桂花による言葉。それが、頭の中で反復し続けている。