想像以上に競っていて、どのくらい反映していくのか自分でも謎ですが、頭には入れておこうと思います。
のどかな情景が拡がっている。
田畠で働く農夫たち。馬上から見送りつつ、曹操たちは街道を進んでいった。
沛国へ来たのは、董卓との闘いに備えるために、兵を集った時以来なのである。
涼州を飛び出してきた
翠に関しては、麾下となることを先日誓ってくれている。母のことは、悩みに悩んでいたようだった。自分のそばにいることで、いつかは身内と干戈を交えることにもなりかねない。そんな不安を振り切って、翠は臣従を決めてくれたのだと思う。であれば、その思いに応えるためにも、自分は天下静謐への道を進み続けるべきなのである。
そして、自分自身の置かれている状況も、まったく違うものに変わっている。
かつては軍勢すらろくに持っておらず、気持ちばかりが先行することが多かったように思う。
兗州を抑えるところまでは順調だったが、青州黄巾軍との戦でつまずいていれば、それも水泡に帰していたのではないだろうか。あの闘いをうまく乗り切れたことで、曹操軍は飛躍的に力を増すことができている。それは兵力だけでなく、兵たちひとりひとりの自信にしてもそうだった。
絶影をゆるりと駈けさせていると、なにやら農夫たちの集まりが見えてきた。その中心にいる、ひとりの娘。なんらかの指導を行っている最中なのか、盛んに手を動かしている。
「
「あれ? もしかして、一刀さん? ずっと顔を見られていなかったけど、元気そうだね」
「ほんとうに、久しぶりだな。前に訪れた時は、喜雨の顔を見に行く暇もなかったのだよ」
農夫たちの輪から抜け出して、娘が絶影に駈け寄ってくる。
喜雨というのは、陳登の真名だった。喜雨は陳珪のひとり娘であり、農業に対する知見から、年若くして領民からも慕われている。いまも、それで人を集めていたのだろう。
曹操が下馬すると、ならって詠も地面に脚をつけた。あとの三人は、後ろで会話を楽しんでいるようである。このあたりのことを知っている春蘭が、翠と霞に話を聞かせてやっているのだろう。豫州といえば、自分たちの故郷でもあるのだった。
「ええっと。一刀殿、こちらは?」
「ああ。この者は陳珪殿のひとり娘で、名を登という。農業に関する知識が豊富でな、俺もその力を借りるために、一度領内に招きたいと思っていたくらいなのだよ」
「へえ、そんなになんだ? ボクも、時間があったら話を聞いてみたいくらいかも。よろしく。ボクは賈駆っていうんだけど、詠って呼んでくれていいわよ。色々とあって、一刀殿のところで働かせてもらっているわ」
眼鏡の縁を持ち上げながら、詠が興味深そうに喜雨のことを観察している。
「よろしく、詠さん。だったら、ボクのことも喜雨でいいかな。それと、話くらいだったらいつでも歓迎するよ。何日か、滞在していくんでしょ? だったら、どこかで時間をつくれると思うから」
「たぶん、そうなるのかな。でしょ、一刀殿?」
詠の問いかけに首肯しつつ、曹操は絶影の身体を撫でている。
毛並みから、かすかな疲れが見えている。短い道のりではなかったから、馬を少し休ませてやる必要があるのかもしれない。
「一刀さんが来ることは、一応母さんから聞かされていたよ。だけど、まさかこんなに少人数になるとはね」
「それなりに事情があってな。それで、先ほど言ったことについてだが、考えてみてはくれないだろうか?」
「ボクを招きたいっていう話? うん、べつに構わないけどさ。なにか、したいことでもあるの?」
「喜雨には、将卒への指導を頼みたいと考えている。黄巾軍との闘いでは、睨み合う時間がかなり長かったのでな。今後、さらなる長期戦をすることもあり得るだろうし、滞陣中に糧食を自足できればいいと思ったのだ」
「ふうん、そっか。戦の手助けをするのはあまり気が乗らないけど、ひとまず考えておくことにするよ。一刀さんとは、知らない仲でもないからね」
「そうしてもらえると、助かる。屯田の成果があがれば、それだけ国力は富むことにもなろう。平時には、浮いた兵を動員して新たな土地を耕す。さすれば、無駄もあるまい」
素っ気なく返事をしながら、喜雨は衣服についた土埃を払っている。
「へえ。城に帰ってからは女のケツばっかり追いかけ回してるもんかと思ってたけど、一刀は一刀でいろんなこと考えてるんやなあ。なあ、翠もそう思うやろ?」
「いいのか、霞。下手なことを口走って、春蘭に手を噛まれたってあたしは知らないからな?」
「なんだと? 私がそのような節操のない女に見えていると申すのか、翠は。ひとつ言っておくが、私は一刀以外の手を舐めるつもりなど微塵もありはせんぞ。どれだけ頼み込まれようと、それだけは曲げられん」
「いや、春蘭。誰も、手を舐めるなんて言ってないだろうが」
「なにっ!? では、どこを舐めるのか、はっきりと言ってみるがいい。だが、返答次第では覚悟しておくことだな」
「あははっ。ほんま、春蘭はおもろいやつやなあ。ええで、腕っぷしの勝負なら、ウチがいつでも受けて立ったろうやないの」
「だああ……、ったくもう! おまえら、話をややこしくするのはやめろっての!」
翠たちのじゃれ合っている声が、後ろから聞こえている。
話題を変えようとしていたところで、喜雨が先に口を開いていた。どうやら、なにか言い忘れていたことがあったようなのである。
「そういえばさ。母さんが、今日はどこかからお客さまが来るって言っていたんだ。だから、すぐに行っても取り合ってもらえるかわからないし、明日までのんびりしているといいよ、一刀さん」
「客人か。気になりはするが、喜雨に訊ねても無駄なのだろうな」
「うん、正解。ボクは、政治になんてさっぱり興味がないからね」
小さな時分から、喜雨の世の中に対する姿勢は同じだった。
そのせいで、母との微妙な距離感が生まれてしまっていることも、曹操は知っている。ただ、当人がそれで問題なく過ごしているのだから、他者である自分が口出しすることなどなにもない。
とはいえ、予定がずれてしまったのは事実なのである。
ならば、と曹操は切り出した。沛国には、喜雨の母以外にも、会いたいと感じている人物が二人いる。
「こちらに、諸葛亮が居着いているらしいな。黄巾軍と闘った折に劉備からそう聞かされたのだが、違いないか?」
「うん、鳳統と一緒だよ。一刀さんは、あの子たちと知り合いなんだよね? 接している感じだと、あんまり仲がよかったとは言えないみたいだけど」
「ちょっとした、すれ違いのようなものだ。せっかく沛国まで来たのだから、顔を見ていこうと思ってな。この近くで、暮らしているのだろう?」
「わかってるとは思うけど、こわがらせたらだめだからね? 信じてはいるけど、それだけは約束してもらわなきゃ」
「無論だ。諸葛亮が会いたくないと申すのであれば、俺はそれでも構わない」
「いいよ、だったら教えてあげる」
農作業に戻った喜雨と別れ、曹操は諸葛亮の住む草庵を目指していた。
喜雨とは、農業について意見を交わすこともあるようだった。司馬徽のもとで、そうした領域に関しても学んできたのだろう。役所には時々出仕するくらいで、土地を見分していることがほとんどだ、と喜雨は話していた。
「一刀殿がわざわざ足を運ぶくらいなんだから、諸葛亮って子すごいんだ?」
「荊州の私塾で学んでいたようだが、知識を活かせるだけの才がある、と俺は見ている。たまたま、賊に囚えられているところを救うことがあってな。それで、しばらく一緒に過ごしていた」
詠は、諸葛亮のことが気になっているようである。
離れてから、もう一年近く過ぎている。
その間に、諸葛亮はなにを思っていたのだろうか。乱世は、当分終わる気配がない。それは、いまの帝に国全体を抑え込む力がないあらわれでもあった。
諸侯は独立心を強めており、自領の経営に腐心している。この状態が続けば、ますます漢は各国に分裂していくことが予想された。
「
涼州で暮らす母のことを思って、翠は嘆いているのだろう。
それだけ、現在の帝室は連綿と続いてきた。
年月をかけ、継承されてきた血。尊きものであり、侵しがたいものにすらなりつつあると言えるのかもしれない。
しかし、その尊さだけでは、国がまとまらない時期が来ているのである。董卓という重しが消えた長安は、政争に明け暮れていると聞いている。その中で、帝は日々怯えているだけなのである。
「すまないが、諸葛亮のところにはやはり春蘭と二人で向かおうと思う。翠たちは、しばらく城郭で自由にしてくれていい」
「なんや、ウチらはお供失格かいな。まっ、さっきの嬢ちゃんもあんまりびびらせんなって言ってたことやし、その方がいいのかもしれへんな」
「一刀殿が決めたことなら、ボクはそれに従うよ。城郭を見て回るのも、いい経験になりそうだしね」
「んんっ? 詠、やけにしおらしい態度とるやないの。ははあ、もしかしてアンタも一刀のこと……?」
「な、なに余計なこと言ってんのよ、霞!? ボクは、ただ客分として従っているだけであって……」
「いや、変なこと聞いたウチが悪かったわ。ふふん、せやけど詠がなあ」
「アンタ、絶対わかってからかってるんでしょ。もう、一刀殿もどうせ連れてくるんだったら、
「ううっ、ぐすっ……。そんな悲しくなるようなこと言わんとってや、詠。ウチら、これまで助け合ってやってきた仲やないか」
「あはは……。なぜだかあたし、詠の気持ちがわかるようだよ。だからほら、元気だして遊びに行こうぜ。霞も、ちょっとは反省しろよな?」
「しゃーないなあ。翠がそこまで言うんやったら、反省してやらんこともないで?」
ひと悶着あったのち、翠たち三人はにぎやかに城郭へと向かっていった。
曹操の心持ちがわかるのか、春蘭は静かに馬を併走させている。いまは、それがやけにありがたかった。
駈けていると、やがて素朴な草庵が視界に飛び込んできた。豪奢ではないが、そのぶん無駄なものが削ぎ落とされて、洗練されているようにすら見えてくる。付近には作付けをしてある畑があり、同時に小さな人影も確認することができている。
下馬して近づいていき、曹操はその人影に向かって声をかけた。
「鳳統ではないか。あれから、息災にしていたか」
「あ、あわわっ!? どうして、曹操さまがこんなところに」
「陳珪殿と、直接会って語らいたくなってな。それで、沛国まで足を伸ばすことになった。そのついでに、二人が元気にしているか見に寄ったのだが、やはり迷惑だったか?」
「そ、そんな、迷惑だなんて。
小柄な身体をさらに縮めて、鳳統は必死に言葉を紡ごうとしている。
あたりに、人の気配はなかった。
喜雨が話していたように、諸葛亮は見分のために家を空けているのかもしれない。しかも、どこかそれで安心してしまっている自分がいるような気が、曹操はしているのである。おかしな気分だった。意見が再び割れることを、自分はおそれているとでもいうのか。そのくらいのことは、これまでいくらでも経験してきたはずなのだ。
「あうっ、えとっ、そのっ……」
「このままでは、喜雨に叱られてしまいそうだ。さて、どうしたものかな」
それほどまでに、自分は高圧的に見えてしまうのだろうか。ここまで怖気づかれてしまうと、かえって申し訳なく思えてきてしまうのである。
曹操は膝を折り、鳳統の高さに目線を合わせてみた。
大きな瞳。おそるおそる、見つめ返してくる。ふるえは、少なくなっているようだった。
それまで佩いていた剣は、下馬した時に春蘭に預けてある。ほんとうに、害意など少しもない。それだけは、伝えたいと思っている。
「あの、ほんとうにすみません。曹操さまが、こんな急にいらっしゃるとは思っていなかったので、私すごく緊張してしまって」
「気にするな。深く息を吸って、ゆっくりと吐いてみろ。それで、多少は落ち着くはずだ」
「は、はい、曹操さま。んっ……、ふう……、はあ……」
胸に手をあてたまま、鳳統は深呼吸を繰り返す。
鳳統の様子を見ていて、思い出すことがあった。虜囚から解放してやった時、諸葛亮も同じくらい慌てふためいていたのを覚えている。
「あの、曹操さま」
「ン……。なにかな、鳳統」
「よろしければ、中でお食事をしていかれませんか? えと、ここで作ったお野菜で、いつも料理をしているんです。いまできるおもてなしといったら、そのくらいで」
「よいのか? ならば、遠慮なくあがらせてもらうとしよう」
「はい、どうぞ。あの、よろしければお連れの方も?」
「おお、私も相伴に預かってもよいのか? ありがたい、ちょうど腹が減っておったのだ」
狭い入り口。身をわずかにかがめて、草庵に入っていく。
一角には、雑然と書物が積まれていた。所持していたものに加えて、ここに居着くようになってから、揃えたものもあるのだろう。
二人の子供っぽい部分が見え隠れしているようで、ちょっとほほえましいくらいだった。
「あ、あんまり見ちゃだめです、曹操さま。お客さまが来ることなんてまずないので、つい読んでいるものをそのままにしてしまって……」
「ふうん。おまえたちは、一刀に負けないほどの読書家なのだな。ふむ、この絵草紙など少しおもしろそうではないか。なになに、気になる年上男性の手玉の取り方……。既成事実をつくって、そのまま押し切り編……、とな?」
「あ、あわわわわっ!? そ、それは、ほんとのほんとにだめなやつなんですー!?」
「うわっ。な、なんだあっ!?」
草庵に響き渡る絶叫。
顔を真っ赤に染めた鳳統が、ほとんど泣きそうになりながら全身全霊で春蘭にぶつかっていく。さしもの春蘭も、その異様な叫びに一瞬気圧されたようだった。咆える鳳統の姿は、さながら飢えた虎のようだったのである。
奪還に成功した絵草紙。それを大事そうに胸に抱えて、鳳統は疲れ切ったように肩で息をしている。
対して春蘭の方は、呆気にとられたまま立ち尽くしているだけだった。
ある意味、絶対的な意志が腕前以上の力を発揮した瞬間なのである。なんとなく事情を理解しつつある曹操は、笑いをこらえるので必死だった。