板張りの間の中心に、囲炉裏が設けられている。火にかけられて煮える鍋。その中身が気になっているのか、
床の上に座り込み、曹操は自らの脚を揉んでいた。数日駈けっぱなしだったから、多少は疲れが溜まっている。
客用の食器を選ぶために、鳳統は先ほどから前かがみになっている。そのおかげと言ってはなんだが、瑞々しい太腿に加えて、かわいらしい下着が見え隠れしてしまっているのだ。
脚を揉みながらその様子を眺めていると、ちょっとほほえましい気分にもなってくる。鍋に意識を向けている春蘭は、そのことに気づく素振りすら見せてはいない。
ふと、ここにはいない諸葛亮の顔を、曹操は思い浮かべていた。
年相応のくだけた笑顔。それが一度思考を深めだすと、人が変わったように鋭くなるのである。
眼前でかわいらしく尻を左右に振っている鳳統にも、諸葛亮と似通った気質があるのだろうか。どちらも、司馬徽のもとで学を修めてきた、俊英なのである。だからこそ、幼さの残る外見とは裏腹に、頑固な一面があったりもするのだろう。
「あのっ……、お待たせしてしまいましたが、どうぞお召し上がりください。んっ……。曹操さまのお口に合えば、よろしいのですが」
「そうやって、いちいち構えずともよい、鳳統。俺は、おまえがこうしてもてなしてくれただけでも、素直に嬉しいのだよ」
「うむ、一刀の言った通りだな。なにもわれらは、諸葛亮や貴様を取って食いに来たわけではないのだぞ? それに、うまそうな見た目をしているではないか、この煮物は。どれ、まずは一口」
「ああ、いただくとしようか。馳走になるぞ、鳳統?」
「は、はいっ、どうぞ曹操さま」
器に盛られた根菜の煮物を箸でつかみ、口に運んでいく。
少し甘めに味をつけるのが、二人の好みなのだろうか。隣で食べ進めている春蘭を横眼に、曹操はそんなことを思っていた。
鳳統が、上目遣いに見つめてくる。
何事かを、言い出そうとしているような雰囲気なのである。じれったく擦れ合う指先。そんな鳳統を意に介さず、春蘭は煮物を頬張り続けている。
「あの、曹操さま……?」
「うむ。なかなか、よい味をしているではないか。俺の連れも、いたく気に入っているようだ」
「あ、ありがとうございますっ! って、そうではなくてですね……。すう……、はあ……」
見当違いであっても、料理の味を褒められたこと自体は、やはり嬉しかったのかもしれない。鳳統は大きな帽子を抱きしめて、浮かんできた恥じらいを隠しているようでもあった。
何度かの深呼吸のあと、居住まいをただして鳳統が言った。
「えと、まずはご戦勝お慶び申し上げます、曹操さま。あのまま青州黄巾軍が無法を働いていれば、その戦乱はこの豫州どころか、さらに多数の地域にも及んでいたことだと思います。ですから、その……」
「ほう。おまえが、わが軍の勝ち戦を祝ってくれるというのか。どういう風の吹き回しなのかな、これは?」
「あうっ……。曹操さまも感じていらっしゃるはずですが、黄巾軍への対処は、この国全体の課題と言っていいものなんです。でも、武力だけですべてを解決しようとすれば、最後まで大きな衝突は避けられない。そこを、曹操さまはうまく解決に導かれましたから」
「ははっ。そうやって褒められるのは、俺も嫌いではないがな」
「あわわっ……。わ、私なんかが、申し訳ございません。いまのは、出過ぎた物言いでした」
「別に、皮肉で言っているわけではない。しかし、これで諸葛亮の期待にも、少しは応えることができたのかな。劉備が言っていたのだが、俺のもとに向かうよう進言したのは、あの子なのだろう?」
鳳統が、小さく頷いた。
たとえ目指す場所が違っていたとしても、力を合わせることは可能なのかもしれない。かつて反目した相手であっても、必要とあらば支援をする。それだけ、諸葛亮は広い視野で国のことを見ているのだろう。
「はい。諸葛亮ちゃんだって、お腹の底から曹操さまのことを敵視しているわけではありませんから。これは勝手な想像なんですけど、ほんとうだったら素直にお慕いしたいのかもしれません。だけど、どうしても天子さまのことで踏ん切りがつけられない。劉備さんへの進言は、そんな気持ちがちょっぴり出た結果なんじゃないかな、って私は思っているんです」
「親友のおまえが、そう感じているか。であれば、諸葛亮と会えぬことが、余計に残念でならんな。あの子は、どこぞに出かけているのだろう?」
「ええっと……。見分に出たのが二日前なので、曹操さまが逗留されている間には、まず帰ってこないと思います」
「むう。せっかく一刀がこうして顔を見に来てやったというに、なんとも間の悪いやつだ。それなら、遣いを出してひっ捕まえてくればよいではないか」
「よいのだ、春蘭。それに無理に会ってみたところで、なにかが急に変わるというわけではあるまい」
春蘭の意見を制し、曹操は箸を持ったままの手を膝に置いた。
諸葛亮と対するのは、もういくらか風向きが変化してからでも遅くはない。それよりも、いまは鳳統のことだった。
「以前から気にはなっていたのだが、おまえはこの先のことをどう考えているのだ、鳳統? それを、ここで訊いておきたい」
「そう、ですね……。淘汰と再生。その繰り返しこそが自然の摂理なのであれば、誰もその流れに逆らうべきではないのかもしれません。私が言えることは、ただそれだけです」
「なるほどな。おまえの考え、しかと承知した。だが、ここで俺に仕えよと迫るのは、無粋なことなのであろうな」
「曹操さまのお気持ちは、嬉しく思います。ですが私と諸葛亮ちゃんは、お互いに支え合ってきたからこそ、ここまでやってこられたんです。甘いと断じられても仕方のないことかもしれませんが、いまさらどちらかが欠けるだなんて、私は考えたくありません。ですから、どうか曹操さま」
「おまえの胸の内を知れただけでも、今日は十分だ。しかし、よい友人に恵まれているのだな、諸葛亮は」
ほほ笑む曹操の表情を見て、鳳統は安心したかのように吐息を洩らしている。
おそらく鳳統は、覇者が帝位に就くことに対して、否定的ではないのだろう。
むしろ、それで世の流れが正されるのであれば、歓迎すべきことだと考えている可能性すらあるのだ。長くともに過ごしてきた二人。それでも、考え方には違いがあるようだった。
一方の考えが正しくて、もう一方の考えが間違っている。そんなことを言うつもりなど、曹操には少しもなかった。
誰もが、おのれの理想のために闘えばいい。そこに熱量があるかぎり、人は後から自然とついてくるものなのではないか。あるいは、ぶつかることでしか理解し得ない感情もあるはずだった。
合間に、煮物をひとつ口に放り込んだ。食材から生まれた自然な甘さ。それに包まれ、舌が癒やされていくようだった。
「あう……。お褒めいただき、ありがとうございます。そのっ、もう少し召し上がられますか、曹操さま?」
「うん、そうするとしよう。春蘭も、まだ食い足らんのではないか?」
「おうっ。先ほどから言い出す隙をうかがっていたのだが、一刀たちが小難しい話をしているものでな。それで、私も空きっ腹を我慢していたのだ」
「ははっ。いい子なのだな、春蘭は。それとも、なにか褒美がもらえるかもしれないという魂胆があったから、黙って耐えることができたのか?」
「やっ……。そ、それはだなあ? しかしまあ、一刀がくれると言うのであれば、私はなんだって甘んじて受け入れる覚悟があるのだぞ?」
「あわわ、なんでもっ!? お、お二人は、とっても仲がよろしいんですね」
「ふふん、当然であろう。私と妹は、誰よりも長く一刀と一緒にいるのでな。それこそ、互いのことは隅々まで知り尽くしていると言っても過言ではないくらいだ」
「あうぅ……。なんだか、大人の関係って感じがしてすごいです」
鳳統は顔を赤らめさせながらも、春蘭の言葉を熱心に聞き入っていた。
それからしばらくの間、曹操は草庵で時間を過ごしていた。
他愛もない話を肴にしては、鳳統の出す料理を平らげていく。荒れ地を苦労して耕したこと。そのために、
鳳統と諸葛亮の二人は、案外ここでの暮らしを満喫しているようだった。主君に縛られることもなく、自由に才を伸ばすことのできる空間。それを許している陳珪は、二人の今後に期待している部分が大きいのだろう。でなければ、これほどまでの待遇を、流浪の少女に与える理由などないのである。
別れ際、曹操は鳳統から真名を預けられていた。
†
まだ日は高く、どこも人が多い時間帯だった。
絶影を曳きながら歩いていると、食事処の多く立ち並ぶ区画が見えてきた。見当違いでなければ、三人もどこかで腹ごしらえをしているはずである。
「あっ、一刀。あそこにつながれている馬を見てみろ。あれは、翠たちのものではないのか?」
「そのようだ。よく見つけたぞ、春蘭」
褒められて喜ぶ春蘭。その頭を何度か撫でてから、曹操は目当ての店に向かっていった。
予想通り、翠たちは時間つぶしに酒を飲んでいたようだった。しかし、同じ席には見知らぬ女がひとりいる。一緒になって盛り上がっているのだから、どこかで知り合って食事をすることになったのだろう。
「ああん? そこの貴様、どうしてワタシたちのことをじろじろと見ているんだ」
近づいただけで、見知らぬ女が啖呵を切ってくる。
瞬間的に反応しそうになった春蘭を押し留め、曹操は翠たちが気づくのを待った。飲み始めてから結構な時間が経っているのか、
最初に振り返ったのは、
「話していたでしょう、
「ああ、そうだった。三人には、先に休んでいるように言いつけてあってな。それで、こちらのご客人は?」
どうやら詠は、自分たちのことを沛国に来た商売人だと偽っているようだった。
とっさに話を合わせて、曹操は輪の中に入っていく。それで合点がいったのか、焔耶と呼ばれた女は牙を剥くのをやめたようだった。
「失礼な物言いをしてすまなかったな、主人殿。女ばかりで愉しんでいると見て、妙な色目を使ってくる男がいてもおかしくはないだろう? いや、しかしまた、軽率なことをしてしまったな。ほら、主人殿も早く座ってくれ。詫びと言ってはなんだが、酌をさせてくれないか」
「気にするな。俺のことは、一刀と呼んでくれ。商談のあとにちょっと食事を出されてな。腹は減っていないのだが、酒ならばいただこう」
「商人にしておくのがもったいないくらい、一刀殿は気持ちのいいお方なのだな。ワタシの名は魏延というのだが、焔耶と呼んでくれても構わない。三人には、それだけ困っているところを世話になったのだ」
「ほう。なにがあったのか、訊いてもよいか?」
「やっ、それはその、だなあ……」
急に歯切れの悪くなった焔耶から酌を受け、曹操は口の中を酒で潤した。
気の強そうな目鼻立ちをしているが、それぞれが整っており器量はいい。それに、おそらく武芸の嗜みがあるのだろう。鍛えられた二の腕は、引き締まっていて緩みを感じさせなかった。
「あははっ。やったらウチが教えたるかあ」
「ちょ、ちょっと、霞っ!?」
「まあまあ、旅の恥はかき捨てとも言うやろ? それに、わんこ相手に怯えてるアンタの仕草、たまらんくらいかわいかったで」
「そ、それ以上は言わないでくれっ! ワタシにだって、守りたい尊厳くらいあるんだっ」
「えー? ここまで話したんやし、もうどこまでいっても一緒ちゃうの? わんこに囲まれて身動き取れなくなってた、焔耶ちゃん?」
「ぐぬぬぬっ……。貴様、ワタシのことをからかって面白がっているのだろう。しかし、助けてもらった手前、ワタシにはどうすることも……」
どちらも酔いが回っているのか、気分の抑揚がおかしなことになっている。
事情はよくわからないが、野良犬に詰め寄られてどうにもならなくなっていた焔耶を、三人が救出してやったのだと思う。霞にいいようにからかわれても我慢しているのだから、本人はかなりの恩義を感じているのだろう。
「翠。それで、霞の言っていることは正しいのか? 俺の直感が間違ってさえいなければ、焔耶はとても犬に遅れを取るような女には見えぬのだが」
「ははっ……。一刀殿、あんまり言ってやらないでくれよ。誰にだって、苦手なものがひとつくらいあるもんだろ?」
「そうそう。ボクだって、部屋にでっかい虫が出てきた時は、人を呼ぶかどうか迷ってしまうくらいなんだもん。焔耶からしてみれば、かわいい犬がそのくらいおそろしいものに見えてしまうのよ、きっと」
「ぐっ、ううっ。わ、ワタシは、もうだめなのかもしれん。姐御とはぐれてしまったかと思えば、いきなり野犬に追われるような始末なのだ。そして、その恥をこれだけの人間に知られてしまったのだぞ。くうぅう……。こうなったからには、飲まなければやっていられん!」
「あちゃあ……。ウチ、ちょっと焔耶のこといじめすぎたんかいな。にしても、その姐御ってのもひどいもんやなあ。はぐれたアンタのこと、さっぱり探しに来てくれへんやないの」
湧き上がる悲しみ。
それを打ち消そうとして、焔耶は際限なく酒を飲みまくっている。
「うう、姐御のことを悪く言うんじゃない。あの方は、そうした馴れ合いを好まないというだけなんだ。きっと、きっとそうなんだあ……」
「あー、はいはい。焔耶がかわいそうやから、ここはそういうことにしとこうなあ?」
涙混じりに訴えかけられては、さしもの霞も折れるしかないようだった。
その二人からは一歩引いて、翠と詠はゆるりと飲食を愉しんでいたようである。あまり絡まれると面倒だと思い、曹操も自然とそちらに席を寄せていった。
「それで、首尾はどうだったの? 件の少女とは、会えたのかしら」
「いいや。運悪く、あの子は家を留守にしていてな。だが、代わりにその友人と話をすることができた。感触は、まずまずといったところか」
「ふうん? せっかくだし、ボクも直接会ってみたかったな」
「会えるさ、いずれ詠たちともな」
場所が場所なだけに、すべてを明かすことは避けた。
いくつか疑問が残っているのか、詠は果実をかじりながら小さく首をかしげている。
気持ちを吐き出して少しは落ち着いたのだろう。焔耶は、粛々と杯を重ねるようになっていた。姐御というのが、どこの何者なのか。それが気になって、曹操は語りかけた。
「焔耶は、豫州に住んでいるのか?」
「んくっ、いいや。ワタシは、さる仕事があって荊州からここまでやって来ている」
「荊州から。あの地は、いまはほとんど孫堅さまが治めているのであったな。かの御仁の評判は、どうなのだ?」
荊州と聞いたからには、捨て置くことはできなかった。
汝南には、孫堅の軍勢が入ったばかりなのである。部隊を率いているのは、次女の孫権だという話だった。硬軟をうまく使い分け、袁家の旧臣たちの懐柔にかかっている、と細作たちからの報告が上がってきている。
「んう……? 孫堅さまは、優れた武人であるのと同時に、巧みな政治手腕をお持ちになっているお方だ。黄祖さまが討たれ、劉表さまが州牧の地位から追い落とされたことは無念の極みだったが、荊州はよき治者を得たのだと思う。それに姐御と出会えたのも、孫堅さまのおかげでもあるのだし……」
「焔耶のいう姐御というのは、孫堅軍の部将の誰かのことなのかな? そうなのであれば、俺もお顔を拝してみたいものだ。いずれは、荊州とも商いをしたいと考えているのでな」
「はふう……。んっ、姐御は、そうしたことに興味のないお方だ。おおかた口利きを狙っているのだろうが、会ったところでそれは無駄だぞ」
「やはり、そうなのだな。ならば、喜雨の言っていた客人というのは……」
酔の勢いにまかせて、焔耶は洗いざらいしゃべってくれている。
詠は自分の考えにいち早く気づいたようで、酒を飲む素振りを見せながら聞き耳を立てているいう状態だった。
付近に、孫堅の軍勢が駐屯しているという知らせはない。ということは、相手も自分たちと同様に、密かな行動を心がけているということなのか。部将が護衛に動いているとなれば、それなりの地位にいる文官が、沛国までやってきているはずなのである。
よもや、孫権自身が直に乗り込んできていることもあるのか。そこまで考えたところで、曹操は翠によって意識を外に向けさせられた。
「なあ、あれ見ろよ。あの二人、常人とは明らかに雰囲気が違うぞ」
「ははっ。まさか、向こうからお出ましになるとはな。やはり来ていたか、孫権」
不敵に笑い、曹操は店の入り口に立つ二人に視線を向けていた。
あの明るい髪色、それに深い水のような碧眼を、忘れるはずがない。
連合軍で闘っていた頃と比べて、大将としての振る舞いを
孫権仲謀。その堂々たる姿が、まさしくそこにあったのである。