孫権の隣にいた女が、先駆けとして店内を進んでいく。
切れ長の眼から放たれる視線は、研ぎ澄まされた刀剣そのものだった。連合軍として闘った際には見かけなかったから、その後麾下となった者なのかもしれない。
明確に威圧を感じさせる振る舞い。曹操が口走った名を聞いて、
足音が、段々と自分たちの席へと近づいてくる。
たぶん孫権は、眼の前にいる焔耶を探してこの店にやって来たのだろう。おおかた陳珪との会談の間、連れてきた武官に休息を与えていたのだと思う。だとすれば、焔耶の話していた『姐御』というのは、殺気を撒き散らしている褐色の女のことなのか。
「失礼。愉しまれているところに水を差すようで申し訳ないのだが、そちらにいる魏延はわれらの連れでな。そろそろ、このあたり……で」
背後から声をかけられ、曹操は振り返った。
思わず、孫権は言葉を失ってしまったようなのである。その意味が、従者の女にはわからなかったのだろう。鋭利なだけだった雰囲気。いまはそこに、いささか困惑が混在しているのだ。
「曹操……。まさかとは思ったが、貴殿は曹操殿ではあらせられぬか」
「はははっ。いかにも、俺は曹操孟徳だ。壮健そうでなによりだ、孫権殿。よければ、一献どうかな?」
狼狽している最中の孫権に、曹操は酒杯を差し出した。
鼻っ柱が強そうなところは母親譲りだが、踏んだ場数としてはまだまだこれからというのが実情なのだろう。もしこの場に孫堅がいたとすれば、わが物顔で座り込み、酒をかっ食らっていったに違いない。そこまでの剛毅さは、この孫権にはまだないようだった。
魚の素揚げにかじりついていた
しびれを切らした孫権の従者が、剣の柄に手を伸ばしかけているのが見えていた。
「こ、困りますぜ、お客さん。荒事なら、表に出でやってもらわねえと」
自分たちが睨み合っているのに気づいた店主が、慌てて外を指差しながらまくし立てている。
少し多めの銭を机に置き、曹操は腰を上げた。
壁となるかのように、春蘭と翠が前面に立っている。焔耶はまだ完全に状況を飲み込めていないようで、自分と孫権の顔を交互に見つめていた。
「か、一刀殿が、あの曹操だったなんて……。だったら、
「悪気はなかったんやけど、正体そのまま明かすわけにもいかんやろ? しかしまあ、翠と春蘭はそうやけど、ウチはまだ居候のお客さんみたいな状態やねん。くくっ……。こっちの
「あ、ああっ。ワタシは、またとんでもない失態を……。これでは、姐御に顔向けが……」
机に突っ伏した焔耶と、おもしろがって慰める霞。
その二人に加えて闘えない詠を店内に残し、曹操たちは表の路地に場所を移していた。
「孫権さま。なにとぞ、この甘寧にご命令を。ここで曹操を討ってしまえば、豫州平定は成ったも同然となりましょう。われら孫家の躍進のため、この男だけはなんとしてでも葬り去らなければ」
「威勢がいいな、甘寧とやら。毎日左様に気を張っていては、疲れもするだろう」
「ぐっ……。貴様は黙っていろ、曹操。その首、すぐに孫権さまに捧げてやる」
「ほう、そうなのか? ならば、俺も用心しておかねばな」
むき出しになった闘気が、こちらを威嚇し続けている。
従者の女は、名を甘寧というようだった。焔耶の反応がなかったから、件の『姐御』はまた別の人物なのだろう。
いつ闘いとなってもいいように、気構えだけは常にできていた。だが、肝心の孫権は渋面をつくって黙りこくったままなのである。
気性は激しくとも、孫権に対する忠誠心だけは確かなのだと理解できる。それで、甘寧も完全には剣を抜けないでいるのだった。
「ご決断を、孫権さま。こうして曹操と
「ははっ。そんなに俺を斬りたいか、甘寧よ。しかし、よしんばその企てが成功したとして、おまえは必ずや後悔することになるが、よいのかな」
「なに? 貴様、それはどういう意味だ」
「俺の麾下の腕を、甘く見ないことだ。二人のどちらかが、俺を斬ることに必死になっているおまえを、まず殺す。そして残りが、守りの薄くなった孫権を殺す。ただ、それだけのことなのだよ」
「おのれ、曹操っ……。孫権さま、こやつの詭弁に惑わされてはなりません。それに、もうすぐこちらには援軍も……」
悲壮さすら感じさせる声色で、甘寧が下知を懇願している。
それでも、孫権は動こうとはしなかった。
美しい碧眼に、先ほどからじっと見据えられている。猛りを静かに抑え込んだけもの。いまの孫権の姿は、どこかそれに近しいものがある。
「控えよ、甘寧。曹操殿も、どうか挑発はそこまでにしていただきたい」
「なっ……!? しかし、孫権さまっ」
「聞こえなかったのか、甘寧。私が、控えよと言っているのだ」
「はっ……。承知いたしました」
孫権に一喝されたことで、甘寧は引き下がることを余儀なくされている。
相手が向かって来ないのであれば、こちらからわざわざ斬り結ぶ理由はなかった。治安を乱せば、陳珪に与える心象を悪くするだけなのである。そういう意味では、孫権が冷静で助かったと言うべきなのか。
「こちらの曹操殿は、わが孫家にとって窮地を救っていただいた恩人でもあるのだ。その恩人に対し、市中で刃を向けることなど、私にできるはずがあるまい。どうしても闘いたいのであれば、
「はい。私の考えが、浅はかでありました。武門の家として、守るべき道理は守り抜く。孫家の将として、そうあるべきだったように思います」
「わかってくれたのであれば、それでよいのだ。おまえの忠義は、私もうれしく思っている」
「いえ……。わが身にはもったいなきお言葉です、孫権さま」
甘寧から発せられていた、突き刺すような闘気が霧散していく。それがわかったのか、春蘭と翠の二人も構えを解いていった。
深々とした吐息。孫権にも、多少の迷いはあったのかもしれない。けれども、一度断を下したからには考えを曲げることはない。そうした潔さを、孫家の女は備えている。
野次馬の輪が割れたかと思うと、そこから女がひとり飛び出してきた。
色素の薄い短髪が、凛々しい印象を放っていた。その手にあるのは、
「どうした孫権。なにか、揉め事でもあったのか」
「いいや、それはもう済んだのだ、華雄。われらは魏延を見つけたのだが、そこでこちらの曹操殿と出くわしてしまってな。それで、少々厄介なことになっていた」
「むっ? 曹操というのは、連合軍にいたあの曹操のことか。ふっ、ならば惜しいことをしたようだな、私は」
華雄という名には、聞き覚えがあるような気がしていた。
だが、どうしてか正確に思い出すことができないでいるのだ。喉に小骨が刺さっているような感じがして、いかにももどかしい。その間に、店内に残してきた三人が、外に姿を見せていた。
「ああっ、姐御ではありませんか! 先刻はぐれてから、散々お探ししたんですよ? しかし、こうして無事に再会できてなによりです」
「ええい、鬱陶しい。だから、姐御と呼ぶなと何度も言っているだろう」
「そんなあ……。だったら、そろそろワタシに真名を教えてくださってもよろしいではありませんかぁ。そしたら、もう姐御とはお呼びしませんから」
「だから、武人にそのような馴れ合いはいらんのだ。ちっ……、子供のようにくっつくのはそろそろやめぬか。しかも貴様、酒臭いぞ」
「ううっ……。申し訳ありません、姐御ぉ……。あんまり動かされると、ちょっと気分が……」
子犬のようにじゃれつく焔耶のことを、華雄は疎ましく感じているようだった。
それでも無理やり引き剥がそうとしないのだから、頼りにされると弱い部分があるのかもしれない。華雄がそういう女だから、焔耶もつい甘えてしまうのではないか、と曹操は思っていた。
「おおっ? アンタ、華雄やないの。汜水関で孫堅に敗けてそっから音沙汰なかったから、ウチらも心配してたんやで」
「うん。まさか、こんな場所で華雄と会えるだなんてね。ボクたちと同じで、そっちにも複雑な事情がありそうだけど」
「おお、張遼に賈駆ではないか。長安で乱を起こし、そのまま出奔したと聞いていたが、兗州に身を寄せていたとはな。ふむ……。おまえたちが一緒にいるということは、あのお方も息災なのであろう?」
「うん……、元気だよ。曹操殿が、よくしてくれていてね。今頃、
「そうか。ならば、思い残すことはなにもないのだ。いまの私には、孫家の将としてやるべきことがあるのでな。世話の焼ける時こそあれ、やつは乗り越えるべき壁でもある。そんな女と出会ってしまったのが、たぶん私の運の尽きなのだろう」
「へえ。華雄、しばらく顔会わさんかった間に、雰囲気変わったんとちゃうか? ウチ、なんや武者震いしてきたわ」
「確かに、霞の言う通りなのかも。洛陽で闘っていた頃よりも、ちょっと大人っぽくなったとか?」
「茶化すな、賈駆。変わったと言うのであれば、貴様だってそうであろうに。以前の貴様であれば、あの方のそばを離れてまで、沛国までわざわざ来たりはしなかったのではないか? それだけ、曹操が気になっていると私は見るが」
「そ、それは……! って、ボクのことなんていまはいいでしょ!?」
再会をよろこぶ三人を眺めていて、曹操はようやく華雄のことを思い出すことができていた。
華雄とは、孫堅軍を救援した際に、一戦交えたことがあるのだった。あの折は、騎馬を率いた
現在となっては、懐かしいことのようにすら思えてくる。あの頃は、恋の操る騎馬隊にどう対抗するか考えるので必死だった。深紅の呂旗。そのおそろしさは、味方となった現在でも骨身にしみている。
その華雄が孫家の軍門に下り、どうやら厚遇されるようになっていた。ほんとうに、縁というのはどこに転がっているのかわからないものなのである。
穏やかな顔つきに戻った孫権に、曹操は話しかけた。自分の動きを警戒しているのか、甘寧が再び蛇のように睨みつけてきている。
「孫権殿、少しよいかな」
「私になにか御用でも、曹操殿?」
「さしたる用ではないのだが、母御は元気にされているのか? なに、こんな時でもなければ、訊くこともないと思ってな」
「ふふっ。味方でもない相手のことを気にかけるとは、あなたも変わったお方なのだな。ともあれ、母は動きすぎだと言いたくなるくらい、元気にされているよ。私が荊州を出る前も、曹操殿に関する話をよくしていた」
「だろうな。あれは一度死んだくらいで、どうにかなる御仁ではないと思っていたのだよ。そうだ、文を書く機会があれば、母御によろしく伝えておいてくれ。曹操が、戦場で相見えることを愉しみにしていたとな」
「いいだろう。しかしここでは手出しをせぬが、私とて戦場では果敢に闘ってみせる所存だ。その時がやって来れば、孫家の武威をとくとお見せしよう、曹操殿」
「よかろう。望むところだ、孫権殿」
言伝の件を了承すると、孫権は朗らかに笑った。
成長途上にあるとはいえ、その立ち居振る舞いからは大器の片鱗を感じさせられる。もっとも、それは当然のことなのかもしれなかった。娘の将来に期待していなければ、孫堅が豫州路をこの次女にまかせるはずがないのである。
諸豪族の乱立する揚州は武辺者の長女に抑え込ませ、孫堅自身は荊州に腰を据えて国の北方をうかがう。いまだ荊州内部に敵を抱えている現状を考慮すれば、それが妥当と言えるのだろう。
「それにしても、俺たちは陳珪殿に一杯食わされたようだな」
「まったくだ。お会いになる際は、曹操殿も注意なさった方がよい。私も、今日はほとほと疲れた」
「ははっ、そうしよう。ご忠告、痛み入る」
「では、私はそろそろ失礼しようかと思う。宿に帰るぞ、甘寧」
「孫権さま。華雄殿らを置いていかれても、よろしいのですか?」
「なに、われらと一緒では、旧交を温めることもろくにできぬと思ってな。華雄には、母さまが日頃世話になっている。娘の私から恩を返すのも、たまには悪くあるまい」
「御意。しからば、魏延だけでも引き剥がして参りましょう」
軽く一礼してから、孫権は颯爽と去っていった。
思わぬ遭遇ではあったが、その人となりの一端を知ることができたのは幸いだった。
生真面目な部分があっても、それだけに縛られているわけではない。甘寧の様子を見ていればわかるが、あの分だと将兵にも慕われているのだろう。
汝南への調略は続行するつもりだが、それがどこまで通じるのか。いずれ難敵になるであろう孫権の背中を見送りながら、曹操は顎を撫でていた。
「なあなあ、ちょっとええかな、一刀?」
話の輪から外れた霞が、いきなり身体を擦り寄せてくる。胸もとで頬ずりされると、酒気の中から女らしい香りが漂ってくるようだった。
火照った額を、指でちょっと撫でてやった。それがくすぐったいのか、霞は人懐っこい瞳を数度瞬きさせている。
「お願いがあるんやけど、夜までには戻るようにするから、華雄連れてさっきの店で飲んできてもいい?」
「好きにすればいいさ。宿が決まったら、遣いを出して知らせるようにしよう」
「ほんまかっ!? へへへー。一刀のそういう優しいとこ、ウチは好きやで。んっ、あむぅ……」
よろこびに弾む声。満面の笑みとなった霞は、さらに身体の密着を強めてくる。
不意な感触だった。唇が、なにかやわらかなものに包み込まれている。ねちっこく、それでいて何度も啄んでくるような動き。酔いで熱くなった霞の舌が、まさぐるように唇を割ってきていた。
「な、なななっ!? ちょっと霞、こんな往来のど真ん中で、なんてことしてくれちゃってるのよ!? アンタには、恥って概念が存在してないわけ?」
「くくっ。見せつけてくれるではないか、張遼め」
つま先立ちとなった霞の身体を支え、曹操は反撃を試みようとした。
だが、それは相手の予想の範疇だったようで、すかさずかわされてしまったのである。
「にひひっ。すまんなあ、一刀。続きはまた、時間があるときにゆっくり、な? ほんなら、恩に着るで」
いたずらっ子のような声で笑い、霞は後ろに飛び退いた。
呆れ気味の詠とは違って、華雄はずっと余裕を崩さずにいる。かつて自分に敗れたことなど、微塵も気にかけていないようだった。それだけ、華雄はいまを生きているということか。
武人にとって孫堅は、仕え甲斐のある主君なのだと曹操は思う。采配は果断であり、攻めるとなれば自ら烈火のごとく剣を振るう。そしてなにより、人間的な大きさを備えているのが孫堅だった。
「ったく……。なにぼさっとしてるんだよ、一刀殿。ほら、あたしたちも行こうぜ? せっかくだし、一刀殿といろんな場所を見て回りたい、なんて思ってさ……」
「それは結構だが、私が一緒にいることを忘れてくれるなよ、翠? くくっ。一刀を、そう易易と独り占めできるとは思わないことだ」
「あっ、いやっ……。いまのはその、つい勢いで言ってしまっただけで……」
「そうなのか? 私はてっきり、翠にもそういった欲が湧いてきたのかと心配していたのだが」
一夜をともに過ごしてからも、翠の初々しさは変わらず残っている。
あまりからかっても、そっぽを向かれてしまうだけなのかもしれない。そう思って、言い合う二人をよそに、曹操は絶影の手綱を取って歩きはじめた。
「ちょっと待ってくれってば、一刀殿! ちっ、こうしている場合じゃないぞ、春蘭」
「わかっておるわ。今宵どちらが一刀を独占するのか、宿についてからがわれらの勝負だぞ?」
翠の慌てたような声が、風に乗って聞こえてくる。
空を見上げ、曹操は深く息を吸い込んだ。久しく味わっていなかった、豫州の風なのである。もう少し足を伸ばせば、郷里がある。だが、用もなく立ち寄っている暇はない。そのことは、春蘭も理解しているはずだった。
孫堅との戦が、いよいよ現実味を帯びている。自分がいま考えるべきことは、それだけだった。