穏やかな早朝。肌に伝わってくる温もりを快く思いながら、
すぐ隣には、曹操が眠っている。二人ともに、裸だった。寝顔にかわいらしさを感じてしまうのは、いけないことなのだろうか。顔に触れようとして、月はゆっくりと手を伸ばしてみた。不意に身体が引っ張られる。首につけた輪環。そこから伸びた細い紐が、身体の自由を奪ったのである。はじめて交わった後に、曹操が用意してくれたものだった。夢の中でも、曹操は自分を愛してくれているのだろうか。嫌な気など、するはずがなかった。
ここで死んでも構わない。そう言った自分に、生きろと命じてきたのが曹操だった。包み込むような優しさと、理性を焼き尽くすような激情。その相反する両方を、曹操は一身に宿している。天下平定。覇業を成し遂げるだけの器量を、きっと曹操は備えている。それとも、備えているのだと、自分は思いたいだけなのか。一度は捨てたはずの夢。まだ、途絶えることなく道は続いているのか。
誰かに続く地ならしを、することができたのかもしれない。そう思えば、かつての日々に悔いなどなかった。流れた血。決して、少なくはなかった。戦が終わらないかぎり、国の痛みは
「おはようございます、一刀さま」
「起きていたのだな、月。まだ、時間は平気そうか?」
「少しだけなら。あまり過ごされますと、朝ごはんを急いで食べる羽目になってしまいますよ」
「なら、もう少しだけだ」
眼を覚ました曹操が、身体を寄せてくる。
乳房の先を吸い上げられる。こうしていると気持ちが落ち着く、といつか曹操が話していたことを憶えている。幼少の頃に両親と離別し、曹家に行き着いたのが曹操なのである。そのせいで、余計な苦労が多かったことも、想像に難くない。どこかで、母の愛情に餓えている部分があってもおかしくはなかった。その気持ちを、自分が少しでも埋めることができればいい。曹操の頭を撫でながら、月はそんなことを考えていた。
居室に、足音が近づいてくる。
扉が、無遠慮に開かれる。館に慌ただしい雰囲気はない。こんな
「ふふっ。やっぱり、
「おはよう、月。一刀を迎えに行ってこいって、
「もうちょっとしたら、着替えて朝ごはんにするつもりだったんです。恋さんも、一緒にどうですか?」
「……そうする。お腹が空いてると、ちっとも力がでないから」
かすかに顔を赤らめて、恋は縦に頷いた。曹操の守りの心配など、するだけ無駄なのだろう。恋の指揮する騎馬隊には、揺るぎのない信頼がある。あれほど見事な動きを見せる軍勢を、月は知らなかった。
曹操は、恋の訪問を気にかけず、乳を吸ったままだった。胸を中心に、温かな感情が拡がっていく。乱れるだけではない。正反対のつながり方も、曹操とはすることができているのだ。その背中を精一杯抱きしめ、月は優しくほほえんでいる。
†
総勢一万二千を率い、曹操は
軍勢の半数が青州兵であり、ほかは加えてから日の浅い兵士たちである。青州兵は曹操が指揮を執り、その補佐として
実戦での行軍を叩き込むために、ほとんど休まず駈け続けている。少なくとも、
疾駆する絶影に、一騎が縫うようにして寄ってくる。騎乗しているのは、
「殿。お耳に入れておきたいことがあり、参上つかまつりました」
「よい、このまま話せ」
「はっ。拙者、
「あり得る話だな。わが方も、豫州にはちょっかいを出しているのだ。孫堅が、兗州の動きを探ろうとしていても、おかしくはあるまい。それで、尻尾はつかめたのか、紅波?」
「それが、まだ。孫堅は腕の立つ影を使っているようで、いまだ足取りをつかみきれてはおりません。ですが、近いうちに必ずや」
「いや、深追いする必要はない。孫堅が、こちらに仕掛けてきていることがわかれば十分だ。風も、そう思うだろう?」
軍師として伴っている風に、曹操は言葉を投げかけた。
風はちょっと危なっかしい手付きで手綱を操ると、馬を並ばせてくる。当分戦闘にはならないから、周囲には主だった将が集まっていた。星や柳琳も、自分と紅波の話に耳を傾けている。
「んんー、ですねえ。叛乱煽動という目的を果たしたんですから、孫堅さんの手先はもう周辺にはいないのではないかと。それでええっと、敵将の名前はなんでしたっけ? おふ、おっ、んんっ……。おぷーな?」
「
「くふふー。正解した星ちゃんには、ご主君さまを一日好きにしていい権利でも差し上げないといけませんかねえ?」
「ほう、それはいい。最近、いい酒が手に入ったのです、主よ。私に日がな一日お付き合いくださるのであれば、空けることもやぶさかではありませんぞ?」
星の切れ長の眼が、情熱的な視線を送ってくる。
魅力的な誘いだったが、そこに柳琳が割り込んでくる。二人きりになればよく乱れるこの従妹も、公の場では油断なく背筋を張っているのだ。生真面目な軍人。直属の麾下などからは、特にそう思われているに違いない。
「もう……。二人とも、そのくらいにしてください。いくら敵軍が二万を下回るといっても、匈奴の騎馬を侮ることなどできません。兄さんも、それはお分かりのはずでしょう?」
「はははっ。戦の前から肩肘を張っていても、仕方があるまい。もっとも、そんな柳琳だからこそ、主の補佐が務まるのかもしれんがな。ほら、そこの恋を見てみろ。あれなど、まさしくなにも考えていないという顔をしているではないか」
「ちょ、ちょっと、星さん。いくらなんでも、それは言い過ぎなのでは」
柳琳が、馬上で慌てたような素振りを見せている。
そのくらいのことで、恋が怒るとはとても思えない。ただ静かに、赤兎を走らせ続けている。恋は、そのことを愉しんでいるようだった。
「んっ……。星、恋になにか用?」
「いいや、気にするほどのことではない。しかし、恋の無心の構えは、われらも見習わなくてはな。その境地には、どうすれば到れるのだ?」
「星は、すぐに難しいことを言う。だけど、敵が誰だろうと関係ない。一刀が斬れって言うなら、恋がその匈奴を斬ってやる」
「いやはや、頼もしいものだな。こたびの戦、これではわれらの出番などないのかもしれぬ」
軽口を叩いていても、星の眼差しは真剣だった。
恋と単身打ち合って、十にひとつでも勝ちを拾えれば、まだいい方なのだという。圧倒的な武勇だった。戦場に出れば、赤兎の脚がそこに加わる。鍛え上げられた騎馬隊と合わされば、恋は最強の矛となる。
於夫羅の軍を補足したのは、それから二日後のことだった。
陳留の防御を突破できなかった敵軍は、北に流れた。以前のように、東郡を狙うつもりなのかもしれない。その動きを阻止するべく、曹操は動いた。蓋をするように、北方から回り込む。周辺に飛ばした物見から、情報は逐次入っていた。
「どうするの、お兄ちゃん。命令さえもらえたら、シャンたちはいつでも突っ込めるよ」
「城攻めには失敗したが、匈奴を中心とした軍勢だけに、野戦には自信を持っていることだろう。力だけでぶつかれば、無益な損害を受けるだけだ。それは、避けたい。風、みなに説明を」
十里(約四キロ)も進めば、敵軍とぶつかる。於夫羅も、曹操軍の動きには気づいているはずだった。守りの陣形を組み、待ち受けるという考えを取ることはない、と曹操は思っていた。
間違いなく、決戦になる。勝たなければ、軍勢を維持していられないのである。於夫羅自身、匈奴の支配地域から流れて、中原にまで出てきているという事情がある。結びつきの弱い軍勢を、どうすれば引き留めておけるのか。於夫羅は、それを考え続けていることだろう。
他人事ではなかった。兗州の諸豪族も、すべてが従順なわけではないのだ。自分と、その麾下の力をここで見せつける。結ぶまでは厄介でも、崩れていく時は驚くほど早いものだ。
「敵軍は一万と七千ほど。その中で、騎馬隊はだいたい五千ほどでしょうか。その突進力は脅威ですが、それさえ止めてしまえば、逆にこちらの勝ちとも言えます」
「なるほど。矢を射掛けられたくらいでは、匈奴の騎馬隊は止まらぬであろうな。して、どうする。囮でも使うのか?」
「ふむふむ、さすがは星ちゃんですねー。今回はその囮として、ご主君さまを使ってしまおうかと。こちらが総大将を押し出せば、於夫羅さんも出てくるしかありません」
「兄さんを囮に? 危険ではあるけど、最上の餌であることは確かね。勢いづいた敵軍は、そう簡単には止まれない。そこを、伏勢で突いて崩そうという算段なのかしら、風?」
「正解なのですよ、柳琳さま。難しい役割ではありますが、青州兵の統率をよろしくお願いいたします。これでほんとうにご主君さまを討たれてしまうと、風も泣くに泣けませんので」
「柳琳。この作戦は、俺から提案したものでな。早期の決着を狙うには、これしかあるまい。おまえの力、頼りにしているぞ」
「わかりました。兄さんの御身だけは、なにがあってもお守りします。それで、伏勢には」
「はい。みなさん、もうお分かりになっているような気がいたしますが、それにはですねえ……」
かすかに笑みを浮かべた風。その視線が、恋の方に向いていた。
この戦で、兗州内部の憂いを断つ。重要なのは、於夫羅を討ち洩らさないことだった。すでに張邈にも使者を送り、軍を北上させるように伝えてある。
「騎乗」
曹操のかけ声から、軍全体に緊張が拡がっていく。雄壮に舞う曹の旗。土煙が、原野を覆っている。