両軍がぶつかり合うまで、それほど時を要さなかった。喚声があたりを覆っている。風を裂く刃の音。戦場特有の熱気が、曹操の肌を打っている。
青州兵の果敢さは、匈奴の兵にも負けていない。前進しながら陣形を変化させ、襲い来る騎馬を迎え撃った。
乱戦である。曹操孟徳はここにいる。俺を殺したければ、大将自ら出てくるがいい。裂帛の気合いとともに、曹操は剣を抜いた。騎兵。前方から突っ込んでくる。凶刃をかわしながら、ひとりを打ち落とす。絶影が横に走る。その跡を、匈奴の馬が駈けて行くのが見えていた。敵兵の前に、
鶴翼の中心。そこに於夫羅がいることはわかっている。敵軍の両翼を押し留めるかたちで、星と
血と見紛うような、
「殿。敵の本陣が動きました。於夫羅は、ようやく殿と勝負をつける気になったようです」
「うん、待ちに待ったぞ。
「すでに。拙者は手が空きましたゆえ、このまま殿の護衛に加わります」
「任せる。於夫羅の軍勢が出てきたら、気取られぬように前線を下げていく。耐えるのも、あと少しだ」
敵軍の勢いが増している。
本隊の援護を受けて、大いに戦意を高揚させているのだろう。まともな新兵であれば、敗走していてもおかしくはなかった。それだけ、青州兵はよく耐えていると言っていい。
紅波の直刀が、接近を試みる敵兵を斬り伏せている。退くにしても、潰走するわけにはいかないのである。戦場の匂いを吸い込み、曹操は絶影を駈けさせた。
†
森林の中に、呂布軍は身を潜めていた。
深紅の呂旗もいまは巻かれ、その姿を隠している。兵馬とも寡黙に、闘いの時を待っていた。
赤兎に跨ったまま、恋はじっと森の外を見つめていた。合図があるまで待機していろと、曹操から命令を受けている。どうして自分を側に置いてくれないのか、と思わなくもない。これでは曹操のことを守ってやれないし、少々退屈でもあるのだ。それでも、これもまた戦なのである。その瞬間がやって来れば、存分に原野を駈け回ればいい。なんといっても、自分たちは仕上げを任されているのである。
「むむむ……。これはもしや好機ではないのでしょうか、恋殿? いま曹操軍の後背を突けば、多大なる戦果を見込めますぞ? だいたい、恋殿のお力を持ってすれば、一国に号令をかけることなど容易いのです。それを、あの男にいいように使われて、ねねは悔しくてなりません」
「一刀のこと、そんな風に言っちゃだめ。それに、恋は国なんて欲しくない。毎日お腹いっぱい食べられたら、それだけでしあわせ。ねねは、そうじゃない?」
「違うとは言いませんが、しかしですなあ」
ぞんざいな言葉を吐く
戦場から流れてくる雰囲気が、なんとなく変わったような気がしていたのである。自分の反応が見えたのか、
「ねね、出撃の準備はできてる?」
「恋殿のお下知があれば、いつでも。匈奴の軍勢など、呂布軍の敵ではありません」
「うん、それでいい。霞?」
「おっしゃ。ほんなら、いっちょぶちかましてやろうやないか。あんたは敵将目がけて突っ込むつもりなんやろ、恋?」
「んっ……。霞、部隊の指揮をお願いしてもいい?」
「おう、任せとき。恋は、思いっきり暴れてきたらええ」
頷き、恋は手のひらで赤兎の馬体を軽く打った。
駈け出す。後ろから、深紅の騎馬隊が続いている。森を抜けたところで、『呂』の一字の軍旗を掲げさせた。戦場の匂い。さらに近くなっている。曹操はどこにいるのか。喚声の聞こえてくる方角を目指して、呂布軍は疾駆を続けた。
「いた。一刀の兵が、こっちに退いてくる」
曹操の麾下は、方円のかたちに小さくまとまっている。その後退に釣られて、匈奴の騎馬隊の中央が突出するような格好になっている。
鶴翼の陣の真ん中だけが勢いに乗って出っ張っていて、両翼がついて来られなくなっているのだ。痛撃を与えられる位置に、恋は騎馬隊を移動させていた。伸び切った横腹を食いちぎる。方天画戟を敵軍に向けて差し向けた時には、もうそのことしか頭になかった。
突き抜ける。必死になって曹操の首を狙っていた匈奴の軍は、やはり反応が遅かった。一度突き抜けたところで、恋は部隊から飛び出した。護衛として、十騎がついて来ようとする。その追従を歯牙にもかけずに、赤兎は加速を強めていく。匈奴の将軍はどこだ。手当り次第に敵兵をぶった斬りながら、恋は於夫羅の姿を探していた。匈奴の兵がいくら戦慣れしていようが、恋には関係のないことだった。方天画戟が唸る。それだけで、周囲の騎馬兵が一瞬にして沈黙する。
呂布軍の奇襲を受けて、於夫羅の軍は足が留まりかけていた。突出しすぎていることにも、ようやく気がついたのだろう。すぐに引き返せば、まだ陣形を建て直せる。そうやって於夫羅は、周りの麾下に下知を飛ばしているのだろう。だがそのおかげで、恋はその姿を視界に捉えることができたのである。
「あれが、一刀の敵。恋が斬る。斬って、戦を終わらせる」
感情。方天画戟を握り込むと、ぞっとするほどに冷え切っていく。
於夫羅からも、向かってくる自分の姿が見えているのだろう。護衛と思わしき兵たちが、周辺をかためている。その壁に向かって、恋はまともにぶつかっていった。五人の首を斬り飛ばし、突破口を強引に開けた。赤兎が駈ける。打ち合う気になったのか、於夫羅が槍を構えて馬首を自分の方に向けている。
最初から、何合も打ち合う気はなかった。
方天画戟を横に倒し、恋は於夫羅目がけて突っ込んだ。力任せに薙ぐ。その一撃を、於夫羅が冷静に受け止めている。反撃。そこに隙が生まれることは、感覚で分かっていた。殺意の宿った槍の穂先。鞍の上で跳躍してかわし、恋はもう一度力任せに武器を叩きつけた。なにかを潰したような感触が、柄を通じて伝わってくる。悲鳴。逃げ散る敵兵が、洩らしたものだった。
絶命した於夫羅を一瞥して、恋は騎馬隊のもとに戻っていく。両翼では、星たちが押し込みにかかっている頃合いなのだろう。曹操も軍勢を反転させ、崩れた敵兵の追撃に移っている。
†
於夫羅を失って潰走する敵軍を、討てるだけ追い討った。降伏の意を示した者は許し、自軍の力とすればいい。領土が広大になれば、同時に守るための兵が多く必要になってくる。戦闘経験のある兵士は、それだけで貴重だった。
今回の叛乱が成功するとは、孫堅も考えてはいなかったのではないか、と曹操は思う。しかし、戦が起これば多少なりとも領内は揺らぐ。それに、自分たちの軍の動きを見ておきたい、という意図もそこにはあったのかもしれない。孫堅の影は、紅波であっても追いきれなかったくらいなのである。いまもどこかで、この戦場の様子を探っていてもおかしくはなかった。
陣中で、曹操は戦後の見分にあたっていた。最終的には圧倒することになったが、死傷者が五百ほど出ている。その報告を、
「見事な戦をしたようだな、曹操」
男の声に呼ばれ、曹操は振り返った。
貴公子然としている、鼻筋の通った顔。ちょっと甲高い声が、陣内によく響いている。
「なんの。陳留攻めの失敗で、敵軍は落胆していたのではないか? ならば、この戦の勝利は、おまえの軍の働きおかげとも言えよう」
「ははっ。私をそんなに褒めて、どうするつもりだ。それにしても恐れ入ったぞ。あの呂布までもが、おまえに従うことになるとはな」
「時の流れが、たまたま俺に向いていたのだろう。兗州統一のために、おまえが力を貸してくれたのは小さくなかったのだ、張邈」
「よしてくれ。私は、おまえでなければ兗州はまとまらないと思ったから、つなぎ役となったのだ。実はそれが、少し情けなくもある」
張邈には名声があり、実力も確かなものがある。
つい頼られるような人の良さがなければ、自分に成り代わって兗州をひとまとめにできていたのではないか。そう考えると、どこか不憫でさえあるのだ。
「それはそうと、袁紹とは便りを交わしているのか? 冀州との仲が拗れることになれば、兗州はまた危うくなるぞ。孫堅とは、いずれ戦になるのだろう? そうなれば、黄巾賊と闘った時とは比較にならないくらい、苦しくなる」
「小舅のようなことを言うなよ、張邈。しかし同盟を結べば、俺はまた袁家の下風に立たねばならなくなる。それは、嫌だな」
「おまえこそ、子供のような駄々をこねるな。それとも、孫家と袁家、その二つを同時に敵に回しても、勝つ自信があると言うのか、曹操?」
「ははっ。闘えと言われれば、やるしかあるまい。そうやって、俺はこれまで生き抜いてきた」
「まったく……。そうなる前に手を打てと言っているのだ、私は」
大きく嘆息し、張邈が地面に顔を向けている。
袁紹はいまのところ、領内の経営に注力するつもりらしい。靡いてきた并州の仕置に、時間が必要なのだと思う。それが終われば、行動する余地が出てくる。北に進出して幽州の公孫賛を潰すか、それとも南下して来るのか。その動向については、眼を配っておくべきなのだろう。
「南北のことはあるが、まずは徐州をどうにかしたいな。陶謙のじじいにいつまでものさばらせておくのは、癪ではないか」
言葉にこそしなかったが、領土のこと以上に徐州には関心があるのだ。
陶謙に感じている恩義という枷が、劉備軍を縛っている。そこからあの三人を解き放ち、なんとか自らのもとに迎えたいと曹操は思っていた。あれから触れていない、
「戦になるな、また」
張邈の声に、曹操は頷いて返した。
天を覆い尽くす分厚い雲。それを見たせいか、曹操の心にはおかしなざわめきが生じていた。