朝の仕事を終えて草庵に帰ってから、夢中になって駒を動かし続けていた。時間など、あっという間に過ぎていってしまうものだ。集中していると、余計にそうなるような気がしてならなかった。
ぬるくなった
ここまでの勝敗はほとんど五分で、ずっと拮抗してきているのだ。いくら気の置けない親友相手であっても、負けたくはない。互いにそう感じているから、自分たちは高めあって来られたのだろう。私塾に通っていた頃から、変わらない関係だった。願わくば、いつまでもそうあり続けたい、というのが朱里の本心からの思いだった。
「今回は私の負けだね、雛里ちゃん。迂回への対処が、少し遅れたのがよくなかったかな。だけど、次は同じようにはいかないよ?」
「えへへ。私だって、もっといい手を思いついてみせるもん。けど、実際の戦場では、盤面以上に目まぐるしく情勢が変わるものだから。この前あった戦だと、曹操さまは耐えに耐えられてから、最後に黄巾軍の中枢を一気に打ち破って勝利なされたよね」
曹操の勝利を、雛里は嬉しそうに語っている。
散らばった木の実。片付けながら、朱里は心を落ち着けようとしていた。元来、雛里は曹操のやり方に対して否定的ではなかったのだ。先日の訪問を受けてから、その傾向はより顕著なものとなっている。
保護者のような立場をとってくれている燈も、危急の時が迫れば曹操の味方となるのだろう。曹操にはそれだけ人を惹きつける魅力があり、乱世に抗うだけの力を持っている。それは、朱里自身もよく理解していることだった。
「ねっ。曹操さまがまたここを
「わからないよ、そんなの。あの方はいまの帝を廃して、新たな国を打ち立てようとされている。そんなことを、私は」
「苦しいんだね、朱里ちゃん。だけど曹操さまのこと、嫌いにはなりきれないんでしょう? だったら、私はもう一度お話してみるべきだと思うな。それに曹操さまは、朱里ちゃんの元気な姿を見られれば、それで十分なんだと思うよ。んっ……。私にも、とっても優しく接してくださったし」
「ちょっと、羨ましいくらいだよ……。いつか私も、雛里ちゃんみたいに思える日が来るのかな」
「うふふっ。それは、どうなんだろうね。朱里ちゃんが、私と同じになる必要なんてないんだもん。だから、神さまに毎日お願いしておくね。朱里ちゃんが、一番いい結論にたどり着けますようにって」
曹操に身体を預けたまま、馬上でうたた寝をした日のことを朱里は思い出していた。
あの出会いがなければ、こんな思いをすることもなかったのだろう。そもそも、曹操が軍勢を率いて通りがかっていなければ、自分は賊の慰み者になっていたかもしれないのだ。良くて奴隷。悪ければ、殺されていてもおかしくはなかった。
運命の交わり。意見の対立がなければ、きっとそうなっていたのではないか。仕えるべき主君を探して放浪を続けてみたものの、結局決めきれず燈の庇護を受けることになっているのだ。そこには、曹操の存在が多大に影響を与えていると言ってよかった。
「そろそろ、お昼の準備にしよっか」
「うん、雛里ちゃん」
出会ったのは、自分が先だった。それなのに、雛里に追い越されてしまったようで、ちょっと悔しさが募ってくる。
自分がそんな感情を得ていることに少し驚きながら、朱里は昼食の仕度をはじめるのだった。
†
翌日。朱里は、
飽きるまで、いつまでも逗留してくれていい。普通ならなにか裏があってもおかしくない提案だったが、燈はただ自分たちをあたたかく迎えてくれているのである。それだけ遇されているからには、恩返しのひとつでもしなくてはならない。そんな思いがあったから、朱里はたびたび草庵を空けているのである。
「いらっしゃい、朱里ちゃん」
「こんにちは、燈さん。いくつか気づいたことがあったので、報告に参りました。もしかして、いまってお忙しいですか?」
「ええ……。特別忙しい、というわけではないのだけれど。ちょっと、ね」
きっと、自分は燈が好きなのである。
燈の声を聴いていると、なんとなく懐かしい気分になれてしまうのである。それにはどこか、母の声と似た響きがあるせいなのかもしれない、と朱里は感じているくらいだった。燈の飄々とした性格には、軍師を目指す身として見習うべき点も少なくなかった。女の色香を漂うわせる風貌。そこにも、強い憧れがあるのは確かなのである。
長い嘆息。普段あまり表情を曇らせることのない燈が、今日は悩みを抱えているようなのである。机の上には、一通の書簡が拡げられている。中身は見えなかったが、それが燈の嘆息の元なのだろう。
「なにか、問題があったのですか? 差し支えがなければ、私にもお聞かせください、燈さん」
「うん、そうね。曹操殿についてのことだから、朱里ちゃんにも伝えておくべきかしら」
曹操のことと聞いて、朱里は少し身体を強張らせた。
豫州について、あちらからなにか言ってきたのだろうか。曹操は、荊州にいる孫堅と探り合いをしている段階なのだという。それが終われば、待っているのは戦だった。
「曹操殿のお父上が、亡くなられたの。それも、徐州からの旅の途中でね」
「お父上が? 燈さんのその言い様、まさか徐州の誰かに殺されたのですか?」
「ええ、そのまさかよ。詳細は探っているところだけど、どうやら陶謙殿のつけた護衛がよくなかったようね。曹嵩殿の持つ財産に眼がくらんだのか、それとも曹家に媚びを売ることが許せなかったのか。いずれにせよ、取り返しのつかないことをしてくれたわ」
陶謙は、曹操の機嫌を取りたくて父親の護衛を申し出たのだろう。今回は、それが裏目に出たのだ。
徐州はまったく一枚岩ではなく、陶謙自体の人気もあまりなかった。朱里はもともと徐州の生まれで、そのあたりの情勢についてはよく知っていたのである。
民衆の支持は黄巾軍との闘いで戦果をあげた劉備たちに集まり、豪族は命令を無視することも少なくないと聞いている。そうした事情もあって、陶謙は曹操との融和を求めようとしたのかもしれない。自分が暮らしていた時よりも、徐州の状況はかなり悪くなっていると言うべきだった。
時が熟せば、いずれ曹操は徐州に攻め入ってくる。そして、その侵略を防ぎ止める力は、陶謙には残されていなかったのだ。
燈の組織する間諜は手広く各地を探っており、日々様々な情報が入ってくる。隣接している徐州のことだから、その精度は信じられるもののはずだった。
「どう動かれるのでしょうか、曹操さまは」
「戦になることは、間違いないでしょう。
表現しようのない不安。それが、胸の隅々にまで拡がっていくようだった。
窓の外に視線を向けて、燈は無言で佇んでいる。朱里の小さな胸を支配する恐れ。それは、留まることなく肥大し続けている。