※この作品はR-18です。

恋姫異天記~曹操伝~   作:KKS

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閑話 惑う伏龍

 朝の仕事を終えて草庵に帰ってから、夢中になって駒を動かし続けていた。時間など、あっという間に過ぎていってしまうものだ。集中していると、余計にそうなるような気がしてならなかった。

 ぬるくなった白湯(さゆ)を口に含む。朱里(しゅり)は真剣な眼差しで、向かい合って座っている雛里(ひなり)の挙動を観察していた。数度迷う指。駒代わりとなっている木の実を、雛里が動かした。やられた。そう感じていても、表情には出さないように努めた。自身の優勢を確信しているのだろう。鋭かっただけの雛里の視線に、少しだけやわらかさが見えている。

 ここまでの勝敗はほとんど五分で、ずっと拮抗してきているのだ。いくら気の置けない親友相手であっても、負けたくはない。互いにそう感じているから、自分たちは高めあって来られたのだろう。私塾に通っていた頃から、変わらない関係だった。願わくば、いつまでもそうあり続けたい、というのが朱里の本心からの思いだった。

 

「今回は私の負けだね、雛里ちゃん。迂回への対処が、少し遅れたのがよくなかったかな。だけど、次は同じようにはいかないよ?」

「えへへ。私だって、もっといい手を思いついてみせるもん。けど、実際の戦場では、盤面以上に目まぐるしく情勢が変わるものだから。この前あった戦だと、曹操さまは耐えに耐えられてから、最後に黄巾軍の中枢を一気に打ち破って勝利なされたよね」

 

 曹操の勝利を、雛里は嬉しそうに語っている。

 散らばった木の実。片付けながら、朱里は心を落ち着けようとしていた。元来、雛里は曹操のやり方に対して否定的ではなかったのだ。先日の訪問を受けてから、その傾向はより顕著なものとなっている。

 保護者のような立場をとってくれている燈も、危急の時が迫れば曹操の味方となるのだろう。曹操にはそれだけ人を惹きつける魅力があり、乱世に抗うだけの力を持っている。それは、朱里自身もよく理解していることだった。

 

「ねっ。曹操さまがまたここを(おとな)われる機会があったら、朱里ちゃんはどうしたい? やっぱり、お会いしたくないのかな」

「わからないよ、そんなの。あの方はいまの帝を廃して、新たな国を打ち立てようとされている。そんなことを、私は」

「苦しいんだね、朱里ちゃん。だけど曹操さまのこと、嫌いにはなりきれないんでしょう? だったら、私はもう一度お話してみるべきだと思うな。それに曹操さまは、朱里ちゃんの元気な姿を見られれば、それで十分なんだと思うよ。んっ……。私にも、とっても優しく接してくださったし」

「ちょっと、羨ましいくらいだよ……。いつか私も、雛里ちゃんみたいに思える日が来るのかな」

「うふふっ。それは、どうなんだろうね。朱里ちゃんが、私と同じになる必要なんてないんだもん。だから、神さまに毎日お願いしておくね。朱里ちゃんが、一番いい結論にたどり着けますようにって」

 

 曹操に身体を預けたまま、馬上でうたた寝をした日のことを朱里は思い出していた。

 あの出会いがなければ、こんな思いをすることもなかったのだろう。そもそも、曹操が軍勢を率いて通りがかっていなければ、自分は賊の慰み者になっていたかもしれないのだ。良くて奴隷。悪ければ、殺されていてもおかしくはなかった。

 運命の交わり。意見の対立がなければ、きっとそうなっていたのではないか。仕えるべき主君を探して放浪を続けてみたものの、結局決めきれず燈の庇護を受けることになっているのだ。そこには、曹操の存在が多大に影響を与えていると言ってよかった。

 

「そろそろ、お昼の準備にしよっか」

「うん、雛里ちゃん」

 

 出会ったのは、自分が先だった。それなのに、雛里に追い越されてしまったようで、ちょっと悔しさが募ってくる。

 自分がそんな感情を得ていることに少し驚きながら、朱里は昼食の仕度をはじめるのだった。

 

 

 翌日。朱里は、(とう)の館にある私室を訪れていた。領内を巡察して、気づいたことがあれば報告する。特に命じられているわけではなかったが、沛国に滞在するようになってから自発的にやっていることだった。

 飽きるまで、いつまでも逗留してくれていい。普通ならなにか裏があってもおかしくない提案だったが、燈はただ自分たちをあたたかく迎えてくれているのである。それだけ遇されているからには、恩返しのひとつでもしなくてはならない。そんな思いがあったから、朱里はたびたび草庵を空けているのである。

 

「いらっしゃい、朱里ちゃん」

「こんにちは、燈さん。いくつか気づいたことがあったので、報告に参りました。もしかして、いまってお忙しいですか?」

「ええ……。特別忙しい、というわけではないのだけれど。ちょっと、ね」

 

 きっと、自分は燈が好きなのである。

 燈の声を聴いていると、なんとなく懐かしい気分になれてしまうのである。それにはどこか、母の声と似た響きがあるせいなのかもしれない、と朱里は感じているくらいだった。燈の飄々とした性格には、軍師を目指す身として見習うべき点も少なくなかった。女の色香を漂うわせる風貌。そこにも、強い憧れがあるのは確かなのである。

 長い嘆息。普段あまり表情を曇らせることのない燈が、今日は悩みを抱えているようなのである。机の上には、一通の書簡が拡げられている。中身は見えなかったが、それが燈の嘆息の元なのだろう。

 

「なにか、問題があったのですか? 差し支えがなければ、私にもお聞かせください、燈さん」

「うん、そうね。曹操殿についてのことだから、朱里ちゃんにも伝えておくべきかしら」

 

 曹操のことと聞いて、朱里は少し身体を強張らせた。

 豫州について、あちらからなにか言ってきたのだろうか。曹操は、荊州にいる孫堅と探り合いをしている段階なのだという。それが終われば、待っているのは戦だった。

 

「曹操殿のお父上が、亡くなられたの。それも、徐州からの旅の途中でね」

「お父上が? 燈さんのその言い様、まさか徐州の誰かに殺されたのですか?」

「ええ、そのまさかよ。詳細は探っているところだけど、どうやら陶謙殿のつけた護衛がよくなかったようね。曹嵩殿の持つ財産に眼がくらんだのか、それとも曹家に媚びを売ることが許せなかったのか。いずれにせよ、取り返しのつかないことをしてくれたわ」

 

 陶謙は、曹操の機嫌を取りたくて父親の護衛を申し出たのだろう。今回は、それが裏目に出たのだ。

 徐州はまったく一枚岩ではなく、陶謙自体の人気もあまりなかった。朱里はもともと徐州の生まれで、そのあたりの情勢についてはよく知っていたのである。

 民衆の支持は黄巾軍との闘いで戦果をあげた劉備たちに集まり、豪族は命令を無視することも少なくないと聞いている。そうした事情もあって、陶謙は曹操との融和を求めようとしたのかもしれない。自分が暮らしていた時よりも、徐州の状況はかなり悪くなっていると言うべきだった。

 時が熟せば、いずれ曹操は徐州に攻め入ってくる。そして、その侵略を防ぎ止める力は、陶謙には残されていなかったのだ。

 燈の組織する間諜は手広く各地を探っており、日々様々な情報が入ってくる。隣接している徐州のことだから、その精度は信じられるもののはずだった。

 

「どう動かれるのでしょうか、曹操さまは」

「戦になることは、間違いないでしょう。鄄城(けんじょう)にも使いを出してみるつもりではあるけど、心配ね」

 

 表現しようのない不安。それが、胸の隅々にまで拡がっていくようだった。

 窓の外に視線を向けて、燈は無言で佇んでいる。朱里の小さな胸を支配する恐れ。それは、留まることなく肥大し続けている。

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