浅い眠りが続いている。まぶたを閉じてみても、誘うようなまどろみがやって来ることはなかった。
寝付けない理由はわかっていた。
寝台。上体を起こし、曹操は眉間を指で揉んでいた。このところ、ひとりで眠ることが多くなっていた。気を遣われているのかどうかはわからない。ただ、情欲に溺れたい気分でないことは確かだった。
部屋の外に、人の気配がある。常に控えている宿直ではない。用があって
声をかけ、曹操は寝所に紅波を招いた。見事な足さばきで、ほとんど動きを感じさせることはない。音を立てているのは、むしろ存在を誰かに知らせたい場合だけだった。
紅波の手には、なにかが握られていた。見覚えがある。赤い人形。先日、
「秋蘭殿にお伺いしたところ、殿に急ぎお渡しするようにと仰せつかりました。御父上が、最期までお持ちになられていたものです。金目のものはなにも残っていませんでしたが、これは奪われずに済んだようです。どうか、お納めくださいませ」
「そうか。どこへ行ったものかと思っていたが、あの父がな。よく持ち帰ってくれた。おまえも、少し休むがいい」
「殿の御無念、お察しいたします。御下知は、いつでもお待ちしておりますので」
眼の前にあった気配が霧散していく。紅波の言葉に小さく頷きながら、曹操は手の中の人形をじっと見つめていた。ざらつくような感触。赤い表面に、もっと濃いなにかが付着しているのだ。よく触れてみると、血であることがわかった。
それだけ、養父はこの人形を大事にしてくれていたのか。胸中で蠢く苦しみ。それが、余計に大きくなっていくようだった。
人形を手にしたまま、曹操はいつの間にか眠っていた。
知らない光景が拡がっている。あたりは、妙なくらい明るかった。夢。自分になにを知らせようと言うのか。胸の中にある苦しみは、残ったままだった。
抱き上げられている。確証こそないが、そうとしか思えなかったのだ。小さな部屋。明かりに満たされていて、自分はそこに寝かされていたのか。部屋の中に配されているのは、見たことのないものばかりだった。箱のようなものに写り込んでいるのは、人なのか。明かりを発している器具。どうなっているのかわからないが、火は使われていないようだった。
自分を抱き上げている人物のほかにも、近くにもうひとりの姿が見えている。
眼前で、なにかが振られている。短くなってしまった腕を、必死になって伸ばした。赤い人形。血の汚れはなく、きれいなままだった。それでも、間違いなく自分の所持しているものだと思えた。一刀、という名前が黒い字で書いてある。それを見て、また苦しみが大きくなっていく。優しさで満たされている空間。いまはそれが、ひどく辛く感じられてしまうのだ。
自分のいるべき場所は、ここではない。苦しみの後に浮かんできたのは、在りし日の養父の姿だった。苦しみが、別のなにかに変化していく。衝動のままに、曹操は叫びたくなった。
目醒た時、手の中の人形は変わらず汚れていた。
早朝。麾下を集め、曹操は徐州攻めの方針を明かした。
「徐州に報いを受けさせる。侵攻は、雪解けと同時。軍勢と兵糧の準備を怠るな。攻略に際しては、すべて斬り捨てるつもりであたれ」
戦の宣言。いつものような高揚感は、どこにもなかった。
†
徐州は、揺れに揺れていた。
曹操が攻めてくる。それも、誰彼構わず斬り捨てると決めているようだった。自業自得の結果であり、和解する手立てはないと言っていい。脇が甘い、というような話ではなかった。派遣した護衛が、あろうことかその相手を殺し、金品を奪って逃げたのである。その話を聞かされた時には、
あれから、陶謙は毎日のように家臣を集め、評定を行っている。そこに
「兄上を、曹操殿をなんとかお止めせねば。このままでは、乱世はさらに混迷を極めることになりかねん」
曹操を慕う気持ちは小さくなかった。それは、桃香も同じなのではないかと思う。徐州にいれば、闘いは避けられない。かといって、守るべきものを捨てて逃げ出すわけにはいかなかった。
自分にできることは、なんなのか。わからないから、毎日調練に明け暮れた。曹操の宣言した内容を悲しそうに聞いていた
「関羽さま。劉備さまに会いたいという、客人が来ておられます。こちらに、お通ししても?」
「客人だと? わかった、会おう。調練は、ひとまず休止とする」
馬を返し、愛紗は陣所へと向かった。
劉備軍全体の練度は上がっているが、数としては知れている。曹操は侵攻にあたり、万余の軍勢を差し向けてくるに違いない。対抗するには、自分たちはいかにも小さすぎた。
「おお。そなたは、諸葛亮ではないか。悪いが、劉備さまは呼び出しを受けている最中でな。夜になるまで、まずお戻りにはなられまい」
「お久しぶりです、関羽さん。劉備さんも、苦労なさっているようですね。でしたら、代わりに私の話を聞いていただけませんか?」
「うむ、よかろう。だが、存じているかもしれぬが、われらもなにかと立て込んでいてな。なるべく、手短に頼む」
「はい、それはもう。私の用件も、まさしく徐州が抱えておられる問題に関してのことですので」
「ほう? まあ、座ってくれ。陣所ゆえ、水くらいしか出せるものもないが」
諸葛亮の小さな身体。そこから、覚悟を持った闘気に近しいものが発せられているように愛紗は感じていた。曹操となにかしらの因縁があることは知っている。陳珪が手もとに置いてかわいがっているのだから、才知があるのは間違いないのだろう。その助言を受けて曹操軍との共闘を決めたことが、もはや懐かしく思えてしまうくらいだった。
用意された水を一口含んでから、諸葛亮が話しはじめた。
「いまの体制のまま曹操軍を迎えたのでは、徐州は確実に滅びます。陶謙さまには人望がなく、豪族の方々もばらばらに動いておられます。これでは、戦になりません」
「むむむ……。それは百も承知なのだが、やるしかあるまい。黙って、曹操殿の殺戮を見ているわけにはいかんのだ」
「はい。ですので、まずはまともな指揮官を立てることが肝要でしょう。それには、劉備さまがうってつけなのではありませんか? 私の調査したところ、あの方には民衆からの人気があり、関羽さんたちのような力のある麾下もいらっしゃいます。動くのであれば、いましかありません」
「諸葛亮。そなたは、姉上が陶謙さまの地位を奪うべきだと言っているのか? だとすれば、無理な話だ。恩を仇で返すような真似を、あの方がお許しになるとは思えん」
「だとしても、説得するまでです。自身の信条と、民の命。そのどちらかを取れと言われれば、答えは明白なのではありませんか? 私は、劉備さんに賭けたいと思って、ここまで来たんです。人道から外れた行いをしようとしている曹操さまを、このまま放っておくわけにはいかない。あの御方の才は、そんな闘いに使っていいものではありません」
「むっ……。そなたにも、なにやら事情があるようだな。しかし、曹操殿を止めたいという気持ちを持っているのは、私だって同じだ。あの御仁には、天下を支えるだけの力がある。その力で、世の輝きをかき消させるわけにはいかないのだ」
「でしたら、関羽さん」
「劉備さまには、私からも話すつもりだ。力を貸してくれるな、諸葛亮?」
悲壮感すらある諸葛亮の言葉。そこには、曹操への思いが確かにあるようだった。
自分たちに残された時間は、そう長くはない。体制を変えるのなら、急ぐべきだった。桃香が軍権を握ることになれば、現状よりもずっとましな戦をすることができるようになる。青州黄巾軍との闘いにより、劉備軍の力は徐州全体に知れ渡っている。その反響は予想以上と言っていいものだったが、桃香が上に立てばそれが活きることになるはずだった。
「
「こちらこそ、よろしく頼む。わが真名は愛紗だ、朱里」
「はい、愛紗さん。頑張りましょう、この国の未来のために」
かすかに生まれた希望。朱里の小さな肩に手を置きながら、愛紗は再び闘志を燃やしていた。