帰ってきた
結果の出ることのない議論を、日々延々と続けているのである。相手が出方を明確に決めてしまったのだから、もう交渉でどうにか出来る段階ではなくなっているのだ。
雲霞の如き黄巾軍。それを打ち払った曹操軍の力は、徐州でも知られている。かつての脅威に対しても、陶謙は利を追うようなやり方しかできなかった。あの時、正面から堂々と自分たちの軍を派遣していれば、陶謙に対するいまの評価は多少違っていたのかもしれない、と
桃香の帰りを待ちきれずに、
確固とした立場を持たない劉備軍は、野営で過ごすことが多くなっていた。城中に滞在していれば、自分や
夜風の音。陣幕の揺らめき。手を擦り合わせながら、桃香が視線を向けてくる。話があることくらいお見通しだと、その眼が言っているかのようだった。
朱里が提言してきたように、体制を整えるならば迅速に動くべきだった。腹をくくり、桃香の顔を見る。優しげなほほえみ。そのあたたかさだけが、いまは救いだった。
「桃香さま。豫州の陳珪殿のところにいた、諸葛亮を覚えておいでですか」
「うん、もちろん。あの時は急いでいたから無理だったけど、もう少しお話してみたかったと思うよ。……あの子も、きっと曹操さんのことが気になってるんだろうな」
「仰せの通りだと思います。その諸葛亮ですが、桃香さまにお伝えしたいことがあり、本日こちらに到着いたしました。先程までは起きて待っていたのですが、さすがに限界そうでしたので、私の一存で今夜はもう寝るようにと」
「えっ。諸葛亮ちゃんが、ここに来ているの? うん、そっか……。それで、愛紗ちゃんが代わりに伝言を?」
「はい。急ぎの案件ですので、まずは私の口からお聞きください。朝になったら、どうかあの子ともお会いくださいませ」
「わかったよ、愛紗ちゃん。それじゃ、心して聞かないとね。少し、座ろっか」
桃香の対面に腰掛ける。
優しげな雰囲気の中に、ちょっと緊張感のようなものが漂っている。動乱の気配ある徐州への来訪。その意味が決して小さくないことを、桃香がはっきりと理解しているからだった。
膝の上でこぶしを握り込み、愛紗が言った。
「いまの状態のまま闘えば、徐州は確実に悲惨な結末を迎える。それが、諸葛亮の出した結論です。このことは、桃香さまもお感じになられているのではありませんか」
「そう、なのかもしれないね。だけど、私たちは逃げ出すわけにはいかないんだ。お父さんをあんな風に失って、一刀さんが辛いのはわかるよ。それでも、徐州すべてに武器を向けるのは間違ってる。そんなことをしていたら、いつまで経っても乱世なんて終わらないんだ」
「同意します、桃香さま。徐州はあの方の軍を迎え撃つためにも、一体となる必要があるのです。陶謙さまでは、その考えは実現できません。ですから、桃香さま」
語気が自然と強まっていく。
自分の言葉の意味を、桃香はわかっているはずだ。かたく結ばれた唇。それが、噛み締められているようだった。現実として、ほかにいい手段は思い当たらない。同様の考えを抱いているからこそ、桃香はすぐに言い返せないでいるのか。
風がまた、陣幕を揺らしている。促されるように、桃香が口を開いた。
「辛いね、愛紗ちゃん。だけど、いまの困難を乗り越えられなきゃ、世界はもっと辛くなっていくだけなのかな」
「そんなことにはなりません。桃香さまが立ち、あの方の凶刃をお止めになる。私の青龍偃月刀も、力の限り振るってご覧に入れます。ですから、きっと大丈夫」
「強いんだね、愛紗ちゃんは。私には、戦場に出て闘う力なんてない。だから、いつも愛紗ちゃんや鈴々ちゃんに、無理をさせてしまっている」
「桃香さまが思っておられるほど、私は強くありませんよ。あなたという柱があるから、私は覚悟を持って闘える。鈴々だって、きっとそうです」
「えへへ、そうなのかな? だったら、私がまずは頑張らないといけないね。うん。覚悟、覚悟か……」
「申し訳ございません。桃香さまに、ご本意でないことを無理強いしたくはないのですが、今回ばかりは何卒ご容赦を」
「いいんだよ、そんな風に思わなくたって。ねっ……。愛紗ちゃんは、一刀さんのことが好き?」
「なっ……!? そ、それはいま答えなくてはならないことなのですか!?」
「ええー? 私は、すごく大事なことだと思ってるよ? 誰かを思う気持ちがあるほど、人は力を発揮できるんだもん。だから、どうなのかなって」
唐突な質問だった。だが、桃香の言っていることは間違いではなかった。たぶん相手が曹操だから、自分は桃香のやり方にそぐわないような進言をしてでも、事態を解決したいと思えているのではないか。そしておそらく、桃香にもその気持ちは存在しているのだろう。
張り詰めていた心。急激に揺れていく。こうやって不意を打ってくるところにも、また敵わないと思わせられるのだ。
「愛紗ちゃんが言わないんだったら、先に言っちゃうね? 私は、一刀さんのことが好き。大好きな人のためだから、全部を賭けて闘えるんだ。徐州を
「やっぱり、あなたには敵いません。けれども、私もあの方を好きでいたい。もう一度、優しいお声で真名を呼んでいただきたいのです。その気持ちに、偽りなんてありません。そのためならば、私は」
「そっか。うん、そうだよね。安心したよ、愛紗ちゃんが私と同じ気持ちでいてくれて」
「私も嬉しく思います。……ひとつ、お聞かせ願えますでしょうか、桃香さま」
「なにかな、愛紗ちゃん?」
ついに、公にしてしまったという思いがある。それでも、気分はひどく晴れやかだった。
桃香と同じ男を好きになった。そのことが、ちょっと誇らしくすら思えてくる。その上で、自分たちの行くべき道について質問しておくべきことがあった。
「徐州の奪取が叶えば、それは桃香さまにとって大きな力となりましょう。ご自身の天下。それを欲されるのであれば、利用しない手などありません。そのあたりのことを、如何お考えなのでしょうか」
たぶん、返ってくる答えは決まっている。それを知って質問を投げかけているのだから、自分はある意味不忠者なのかもしれない、と愛紗は思っている。
数拍の間だけ考え、桃香が言った。
「私にもっと大きくなって欲しくて、命をかけて闘ってくれている人がいる。死んでいった人たちだって、少なくはないの。その人たちに報いるためにも、私は天下への思いを捨てるわけにはいかないんだと思う。だけど、そこに拘っているばかりじゃ、変えられないことだってあるんだ。戦のない世の中。私に託された願いの叶え方は、ひとつじゃないはずだよ。だから、いまは精一杯、一刀さんと闘おう。闘って、私たちの思いをぶつけよう。それじゃ、だめかな?」
「いいえ、そのようなこと。私も、桃香さまのお考えに賛同いたします。鈴々や、みなもきっと納得してくれましょう」
「ほんとに? だったら、一安心だよ」
力が抜けたように、桃香が机に突っ伏した。
凛々しさなどどこにもない。しかし、それが桃香のいい部分なのだと愛紗には思えてくる。周囲に安堵をもたらし、やさしさで包み込むような器量。それが好きで、自分たちは桃香を
少しだけ持ち上がった顔が、こちらを真っ直ぐに見つめている。その表情がまるで小動物のようで、愛紗は保護欲を掻き立てられて仕方がなかった。義姉であり、主君であり、さらにはよき友人でもあると言うべきなのか。不敬な感情ではあるが、桃香は笑って受け入れてくれるに違いなかった。
「あはは……。なんだか、いろいろ考えてるうちにお腹が空いてきちゃったのかも?」
「ふふっ。これは、気が利きませんでしたね。すぐになにか用意いたしますゆえ、少々お待ちを」
「はーい。お願いするね、愛紗ちゃん」
桃香の間延びした声。
心地よく思いながら、愛紗は小走りに駈けて行った。