喚声が遠く聞こえている。愛馬の手綱を操り、
戦場に目を凝らす。呂布軍の騎馬が、星の率いる一軍に襲いかかっている。鋭いだけでなく、柔軟さを感じさせる動きだった。反撃を試みようとして、
一気呵成の勢いを見せる星の部隊。ぶつかる。そう思った瞬間だった。
「あっ」
不意に、声が洩れてしまう。
直前まで一個になっていた呂布軍の騎馬が割れ、二つの筋となって真っ直ぐに駈けていく。
惚れ惚れするような動きだった。故郷に残してきた自分直属の騎馬隊と同等、もしくはそれ以上のことを呂布軍の騎馬はやってのけているのだ。これだけ鮮烈な戦をしていても、
駈け抜けた先。深紅の呂旗が、乱れなく再びひとつとなっていく。その動きに、星の部隊は反応しきれていない。後背からあの勢いで突かれてしまえば、立て直すことは難しくなる。率いているのがたとえ星であっても、それは同じだった。
「よっ、
「ふふん、当たり前でしょう? あの子は、戦の流れを肌で感じられるのよ。ボクたちだって、恋の力に何度助けられたことか。ああいうのを、まさしく天才って言うんでしょうね」
「なるほどなあ。にしても、あいつにおかしな野心がなくて、幸いだよ。もし恋がそんな奴だったら、この国はもっと乱れていたに違いないだろ?」
「大食らいではあるけど、権力なんかにはこれっぽっちも興味がない。そうでなきゃ、
穏やかなほほえみ。心の底から恋を信頼しているから、詠はそんな冗談を言えるのだろう。
馬を降り。手綱を引いて歩いていく。
曹操のいる本陣は、目と鼻の先にある。付近まで来ると、それまで和やかに話していた詠の表情が、次第に引き締まっていった。
「どうだ、一刀殿の様子は?」
「別に。普段と、ほとんど変わらないわよ」
素っ気なく詠が返す。
同じなはずがあるものか。密かに、翠は心の中で思った。
曹操の背中が見えてくる。自分の足取りに重さを感じるのが、翠は不思議だった。峻厳な雰囲気を纏っていても、笑顔を絶やさないのが曹操という人だった。その曹操から、近頃ぱったりと笑みが消えてしまっている。契機となったのは、父親の死なのだろう。
出かかった声が、喉に詰まる。自分が曹操と同じ立場に置かれれば、周囲に怒気を撒き散らし、もっと遮二無二
「一刀殿」
「翠か。部隊の仕上がりの方は、順調にいっているか?」
「ああ。そっちは、任せておいてくれ。呂布軍にも負けないような騎馬を、仕上げてみせるさ」
「いい心がけだな。徐州との戦、中心となってくるのは劉備たちとの闘いだろう。危地となった時、徐州の者どもが頼れるのは、かの軍勢だけなのだ」
「だけど、ほんとにいいのかよ、一刀殿? 関羽たちと闘うことになったら、その……」
抑揚のない曹操の声が響く。
遠く徐州の地で、
「誰だろうと、邪魔立てする者は潰す。そして徐州を焼き尽くし、最後に陶謙の首を捩じ切るだけだ。戦が嫌なら、おまえは
「そんな悲しくなるようなこと、言わないでくれよ。あたしは、曹操軍の将なんだ。だから、どこまでも闘ってみせるよ、一刀殿」
「ならば、これ以上申すことはあるまい。下がれ、翠」
今の曹操に、慰めの言葉を投げかけても無意味だった。
こんな状況にあって、いい言葉が浮かんでこない自分がもどかしい。そんな思いを抱えて、翠はその場を後にした。
手持ち無沙汰にしていたところで、栄華に声をかけられた。
「
「お気遣いありがとうございます、翠さん。ですが、叔父さまの仇討ちに抜かりがあってはいけませんもの。わたくしだって、頑張らなくては」
「そっか。一刀殿だけじゃなく、栄華たちにとっても、今度の戦は仇討ちになるんだよな」
「はい。ですが、お兄さまがここまで本気になられるとは、わたくしも思っていませんでしたの。叔父さまとは、ずっと疎遠になさっていましたから。でも、その分募るなにかがあったのかもしれませんわね。それが、良くないきっかけから吹き出してしまったのでしょう」
栄華にも、いろいろと思うところがあるはずだった。だが、そんな雑念を振り切って、曹家の親族として戦に臨もうとしているのだ。
「これからも、変わらずお兄さまと一緒にいてあげてくださいまし、翠さん。わたくしの口から言えるのは、それだけなのです。激情さえ消え去れば、きっといつものようなお兄さまに戻られるはずなんです。ですから、どうか」
健気な訴えだった。それだけ、自分は周囲から迷っているように見られていたのか。
佩いた剣の柄に触れる。振り返れば、今まで迷ってばかりだったようにも思えてくる。母のことがわからなくなり、家を飛び出した。そこから曹操と出会い、ついには麾下となったのだ。この人の切り開く次代が見たい。そう感じたから、自分は全てを捧げたいと思ったのではないのか。
今度ばかりは、もう迷うまい。翠は、そう心に誓った。
「心配かけてごめんな、栄華。だけど、あたしは一刀殿といるって決めたんだ。へっ……。こうなったら、死んだって離れてやるもんか。とことん、付き合うぜ」
自分の返事に安堵したのか、栄華は胸に手を当てて息を吐いた。
ちょっと照れくさくなって、鼻を擦る。つんとしたものを感じたのは、きっと寒さのせいだと翠は顔を上に向けた。
†
腕の中にいる
明かりに灯された廊下を歩く。夜になってから誰かの訪問を受けるというのも、最近では当たり前のことになっていた。
「すまぬな、軍師殿。こんな夜更けに、相手をしてもらって」
「いいのよ、星。しばらく、この子も寝てくれそうにないんだもの。私にとっても、いい退屈しのぎになるわ」
「ほう。軍師殿も、ここに来て随分母親らしくなったようですな。そのこと、主もさぞお喜びでしょう」
「ちっ……。茶化すんだったら、今すぐ帰ってもらえないかしら?」
「おっと、これは失敬。しかし、あまりにも母親ぶりが板についていたゆえ、ふといらぬことを口走ってしまったのだ」
そう言って、星がからからと笑う。
現状、細事を曹操と直に相談しにくい雰囲気がなんとなく出来つつある。それが回り回って、自分のところに来ているのだ。会話の中で必要なことがあれば、まとめておいて会議の場で提案する。曹操も気づいてはいるのだろうが、そのことでなにか言われたりはしていない。たぶん、自分が間に入ることで物事が上手く進むのなら、それでいいと考えているのだろう。
星はほんとうに世間話をしたかっただけのようで、手酌をしながらいつものようにメンマを旨そうにつまんでいる。途中、昂を抱かせろとせがまれたのだが、酔っぱらいに任せるのが嫌で突き放した。子供を持つようになったら、この星であっても酒を控えるようになるのだろうか。そんなことを考えながら、桂花は白湯をすすっていた。
「今度の戦のことだけど」
「うむ。なにかな、軍師殿?」
自分の声色の変化に、星は気づいたのだと思う。
赤くなった顔が、まじまじとこちらを見つめている。腕の中の昂は、少し前に眠ってしまっていた。
「なんとなくではあるんだけど、あまりいい予感がしていないのよ。だから、あいつにもしなにかあった場合は、任せるわよ。
「くくっ。なにかと思えば、これはまあ……。よかろう、任された。主の御身は、この趙雲がしかとお守りする。それゆえ、心配は無用だ、桂花よ」
「ったく、こんな時は茶化さないんだから。私の方でも、打てる手は打っておくつもりよ。……って、聞きなさいよね!?」
「ああ、これは相すまぬ。どうにも、このメンマが早く私に食われたがっていてな。それで、つい夢中になってしまっていた。しかしほれ、あまり煩くするとご子息が起きてしまうのではないか? 先程、ようやく寝ついたばかりだというのに」
「あっ……。ご、ごめんね、昂? ほら、ゆっくり寝んねしましょうね」
どこまでも、食えない女だと思った。
それから好きなだけ飲み食いし、星は館を後にした。あんな女を頼りにしたのは、間違いなのではないのか。空になった酒瓶を見ていると、そんな風に思えてきて仕方がない。
寝所で眠る準備をしていると、侍女から
「申し訳ない、桂花殿。急ぎの要件でなければ、明日にするところなのですが」
「いいのよ。あなたが直接来るほどのことなんだから、かなり重要な案件なんでしょう?」
衣を一枚上に着て、桂花は紅波を部屋に迎えた。
徐州で、なにか変事でも起きたのかもしれない。曹操の調略もあって、あの土地では劉備軍の評判がかなり高くなっている。曹操軍の侵略を前にして、陶謙を担いでいることを不安に思う豪族がいてもおかしくはなかった。あるいは、劉備が行動を起こしでもしたのか。
「徐州の主権を、劉備が奪ったようです。陶謙は追放され、体制は大きく変わろうとしている様子」
「ふうん。動いてきたわね、劉備。それで、あいつにはもう知らせたの?」
「はい。相手が劉備となっても、殿のお気持ちは変わりないようでした。陶謙は、行方がつかめ次第捕らえるつもりです。直々に処断なされれば、殿も少しはお気持ちが晴れましょう」
あの劉備が動いてきた。お人好しだという評判だが、見えるものは見えているのかもしれない。この変事は、自分たちにも大きな影響を与えることになる。陶謙のままでは生まれなかった結束が、劉備を旗頭とすることで生まれる可能性も少なくはないのだ。徐州がひとつになってしまえば、確実に脅威となってくる。その事実を、曹操はどこまで認識できているのか。
ぼんやりとだが、頭の裏側になにか引っかかるようなものを桂花は感じていた。その正体こそわからないが、徐州攻めは曹操にとって間違いなく大きな転機となる。そこで天命が途切れないとも限らない。だからこそ、越えた先には大きな道があるのではないのか、と桂花は思うのである。
「紅波」
「なんでしょうか、桂花殿?」
「冀州の田豊に、言伝をお願い。ただし、このことは内密によ。忠義深いあなたは、嫌がるでしょうけどね」
復活した孫堅が、南部より勢力を拡げ続けている。その状況の中、劉備が東に立ったのである。
位置だけで考えれば、自分たちは力のある勢力に囲まれていることになる。徐州攻めだけに力を入れた時、孫堅がどう動いてくるのか。豫州北部への本格的な侵攻は、覚悟しておくべきなのではないのか。
漢に生まれた複数の大きなうねり。それはやがて、ひとつになろうとしていくのだろう。その時、中心に立つべきなのは曹操なのである。超然としているようでいて、どこまでも人間なのがあの男なのだ。激情のひとつやふたつ、抱えているのが人の証なのではないか。
存分にやればいいとは思わない。しかし、制止するようなものでもない、と桂花はどこかで感じていた。
「おかしな勘ぐりなんて不要よ。私は、曹操に仕える軍師でしかないのだから」
「それもまた、違いましょう。桂花殿のお顔を拝見いたしていれば、拙者にもそのくらいわかります」
心の内の見透かされるのは、あまり好きではない。
苛立ちを抑え込むように長く息を吐き、桂花は言葉を続けるのだった。