曹操の噂をすれば、曹操がやって来る。近頃、そんな与太話が巷では囁かれているらしい。確かに、渡り鳥のような男であるのに違いはない、と
不機嫌を隠そうともしない
あの三人はまさしく一心同体と言っていい存在であり、付け入る隙など微塵もありはしない。そこに、妬けてしまうと感じるのはおかしいことなのだろうか。自分が変わり者であるという自覚はある。しかしそれでも、曹操は構わず愛を注いでくれているのだ。そこに不満があるわけではない。だが、常に今以上のものを求めたくなるのが、人というものなのではないのか。
欲望の根源には、なにか寂しさに近しいものがあるのかもしれなかった。その強さが人並み外れているせいで、曹操は日々誰かと夜を共にしようとするのか。そして変わり者である自分は、そのお溢れに預かろうとしているのか。一度湧いた情念ほど、厄介なものはない。蒼空を見上げながら、風はそう思った。
「おや、あれは?」
声には出していないものの、これも噂の範疇に入ってしまったのであろうか。前方から歩いてくる男を見つめながら、ぼんやりと風は考えていた。曹操が右手を上げた。どうやら、今は珍しく一人でいるらしい。
「散歩でもしていたのか、風」
「ご主君さまがそう思われたのであれば、そうなのかもしれません。とはいえ、風は風で暇ではありませんのでー」
「ははっ、なんだそれは? 忙しくなければ、少し話でもと思ったのだが」
「むう。でしたら、今をもって風は退屈を持て余すことにいたしましょう。そこに、ちょうどいい木陰もあることですし」
気まぐれな主君に、気まぐれな軍師である自分。ともすれば、釣り合いが取れているとも感じられる。
曹操に手を取られ、木のそばまで歩いた。優しく、穏やかに包み込まれている。この曹操が戦場においては兵卒を死地に向かわせ、自身をも苛烈に擦り潰そうとしているのだ。ある種の激情を備えた者でなければ、世の中は変化させられない。だが、それでもと風は思わずにはいられないのである。気づけば、握り返す手に力が入ってしまっていた。軍師たる自分が、考えていいことではない。羞恥から顔を少し背けてしまう。曹操は気にもかけず、木に向かって歩き続けていた。
「膝を借りてもいいかな、風」
「んっ……。風のものでよろしければ、いくらでも。他の皆さんのお膝ほど、心地よくはないかと存じますが」
曹操に請われて、木陰に腰を下ろした。
こうした経験は、ほとんどないと言っていい。鼻血を吹いて失神した
「どうですか、
「ああ、悪くない。それに、こうしていると風の顔をよく眺めることができる」
真名で呼んでみたのは、曹操がそうしてほしいのではないか、と感じていたからだった。
返事と一緒に、曹操の手が顔に伸びてくる。顎の輪郭を撫でられると、ちょっとくすぐったさがやって来るのだ。お返しに、曹操の頬を両手で覆い尽くした。温かい。かすかに剃り残した髭が、手のひらに触れている。
「悪くないというのは、なんだか心外な評され方ですねえ。そこはこう、もう少し風の気持ちに忖度してくださってもよろしいのではないのでしょうか。たとえば、もうおまえ以外の膝では眠りたくない、とかー?」
「ははっ。調子がでてきたのではないか、風?」
「むう……。笑って誤魔化すのは、一刀さんのよくないところなのですよ。んっ……。ほら、またそうやって」
曹操の指が、今度は髪に触れてくる。くすぐったい。だが、その中に確かな愛情を感じてしまい、風はちょっと赤面してしまう。
「きれいな髪だ。それに、こうしているだけで不思議と安心できてしまう」
「お疲れでしたら、このままお昼寝をしてくださっても風は構いませんが。ただし、起きた時に涎を垂らされていても、怒らないでくださいねえ?」
「むう。それは、出来れば勘弁してもらいたいが」
「ふふふー。でしたら、こうして先にー」
互いに馬鹿を言い合い、穏やかな時間だけが流れていく。いっそ、このまま時が止まってくれたっていい。そのくらいの幸せが、この空間にはあるのだと思う。
白昼堂々、曹操の唇を自分から奪った。子供の駄々のようにしつこく舌を絡ませ、唾液を送り込む。こうして先に汚してしまえば、後のことなどどうでもよくなるのではないか。勝手な理屈だが、今はそれでよかった。差し込んだ舌を甘く吸い合い、惜しげもなく音を立てた。
「ははっ。もっと飲ませてくれるか、風?」
「いいですよお。あむっ、くちゅっ、ふふっ」
曹操は身体ではなく、今日は髪に触れていたい気分なのかもしれない。髪先を愛撫されているだけだというのに、どうしてこんなにも心地よくなってしまうのか。身体以上に、心同士が引き合っているからこれほどまでに感じてしまうのではないのか。出来れば、そうであって欲しい。強く願って、風はさらに唾液を曹操に飲ませようとした。
そんなやり取りが、しばらく続いた。
やがて眠ってしまった曹操の顔に視線を落としたまま、風はひとつ欠伸を吐いた。天下までの道のりは長い。性急なだけでは、どこかで息切れをしてしまうことだろう。今だけは、休むことを考えるべきだった。
「まずは一休み、一休み」
眼を瞑ると、すぐに眠気が襲ってきた。
この大波には、誰も抗えまい。しばし争乱のことを忘れ、風は夢の中へと旅立つのだった。