水面に静寂が拡がっている。
微動だにしない糸。手にした竿には、なんの当たりもない。時折聞こえてくるのは、隣で退屈そうに竿をしゃくっている華雄の舌打ちだけだった。
揺るぎのない水面をじっと見つめて、
地道に内政を充実させてきた効果もあり、孫家の威光は荊州に根差すようになっている。劉表がそれなりに上手く治めていた土地であったために、当初は反発する住民や豪族たちが少なからず存在していたのだ。それを
「おい、孫堅」
「なんだ、華雄?」
ひときわ大きな舌打ちをしながら、華雄が餌のついた釣り糸を引き上げている。
これ以上は、もうやっていられるか。顔には、そうはっきりと書いてある。
「おまえ、少しも釣る気がないのではないか? もういい。こんな茶番に付き合うくらいなら、ひとりで武器を振っていた方がずっとましだ」
「ハッ、堪え性のない奴め。
「ええい、やかましいぞ。だったら、おまえは日が暮れるまでそうしているがいい、孫堅。私は、好きなようにさせてもらう」
立ち上がり、華雄は竿の代わりに大柄な戦斧を手に持った。小さな池だ。そばで華雄が一振りしただけでも、静かだった水面が揺れに揺れている。その池の姿が、まるで今の漢のように孫堅には思えていた。
「曹操は、どうあっても徐州と戦をすると聞いた。不思議な雰囲気を持っていたが、ああした男でも親の仇を必死に憎むものなのだな」
「情というのは、そんなものだ。あの時オレが黄祖と相討っていなければ、雪蓮たちは血眼になって奴を殺そうとしていたのかもしれん。ハハッ、もっとも奴は死に、オレは運悪く生き延びた。人の生など、ちょっとした噛み合わせでなにもかも変わるものよ」
「命の恩人を眼の前に、よくそのような言が吐けたものだ。それでこそ、江東の狂虎だと言ってやるべきなのか、私は?」
「よせよ、似合わねえ。だが、これは孫家にとってはまたとない好機とも言えよう。曹操の意識が東にへばりついている機に、軍を北上させることができるのだからな」
「ふむ。辺りには、ちょうどいい獲物が転がっているというわけか」
一度身体で交わっただけに、よくわかる。
達観とは程遠いところで、曹操という男は生きている。細かい事情など知ったことではない。ただ、情に突き動かされ、徐州全土を血で染め上げようとしている曹操のことを、炎蓮は嫌いになれなかった。
「そして上手く事が運べば、曹操との戦で疲弊した徐州まで奪い取れるかもしれない。炎蓮さまは、そこまでお考えなのではありませんか?」
「ああ、
悪態をつかれて、紫苑が笑っている。
優雅さを表現したかのような香のかおり。武辺一辺倒の華雄とは、正反対の性格を持つ女だった。
劉表麾下として随一の将軍だった紫苑の帰順が統治に与えた影響は、やはり小さくはなかった。孫家に反発していた勢力は急速に力を失い、そのいくらかを吸収するまでに至っている。それに、文武の両道に通じた紫苑のような存在は、孫家において希少なのである。
勢力が拡大するにつれて、野良犬のように敵に噛みついているだけでは、領土を失うことになる。分官の育成というのは、常に課題にしておくべきだった。
「うふふっ、これは失言でしたかしら。ですが、徐州を落ち延びられた陶謙殿の行方を、追っておられるのでしょう? それは、つまりそういうことなのではありませんか」
「ククッ。あの年寄りには、今少し使い道があろう。そのためにも、雪蓮の奴のケツをぶっ叩いてやらねえとな。ひとつに成りきれん揚州など、抑えるべき場所だけ抑えてしまえばどうとでもなる」
徐州を客将である劉備に奪われ、旧主である陶謙は居場所を失ったのだという。曹操の敵意を強く受けている陶謙の身柄は、確保するなら急ぐべきだった。揚州の足場さえ固まれば、北にある徐州の動向すら窺えるようになる。その時、陶謙を手中にしていれば自分たちに大義名分が立つ。
そのあたりのやり方は、雷火と
「それはそうと、客人をお連れしているのです。炎蓮さまはお嫌かもしれませんが、わたくしが面会を拒絶するわけにもいきませんでしたので」
「客人だと? まさかとは思うが、あいつらじゃねえだろうな……」
嫌な予感というのは往々にして的中するものである。
紫苑が苦笑いを浮かべている。場の雰囲気を察してか、華雄は戦斧をかついで移動する素振りすら見せつつある。
耳につく笑い声が、背後から聞こえている。厳かだった水辺の空気が、一気に張り替えられていくようだった。
「あそこで
「おい、よさないか。だいたい、私になにが出来るというのだ。それにあやつらをここに連れ込んだのは、黄忠なのだぞ? だったら、なにも私に同席させずとも……」
炎蓮に腕をつかまれて、華雄が心底嫌そうに声を上げている。
美羽。全権を譲渡されてから預かった、袁術の真名である。先々のことを考えて美羽を生かしたつもりだったが、甘かったように思う。少々の波風を立ててでも、非情な決断を下すべきだった。それとも、復帰したてで勘が鈍っていたいただけなのか。とは言え、過去の決定を今更覆すわけにもいかなかった。だから、あの場にいた華雄くらい道連れにしても構わないはずだ、と炎蓮は思っている。
二つの足音が近づいて来る。
華雄の腕を握る手に力が籠もる。逃してやる気など、炎蓮には少しもなかった。
「おうおう。皆の者、息災そうじゃの。しかし、わらわが見舞いに来たからといって、そこまで恐縮せずともよいのじゃぞ? ほれ、もそっと楽にせよ」
「うふふ。さっすがお嬢さま。自分のお立場を理解していない傍若無人っぷり、毎度のことながら素敵です」
「うははっ! そうじゃろう、
そう言って、尊大な態度のまま美羽は蜂蜜の入った小瓶を差し出した。
はじめは田舎暮らしに意気消沈していた美羽だったが、今では状況をそれなりに享受するようになっているらしい。下手な動きを見せないのは見張る側としては楽なのだが、妙に懐かれてしまったせいでこうして月に何度か相手をする羽目になっているのだ。
「ほれ、もっと嬉しそうにして見せぬか、炎蓮。このわらわが手づから用意してやったというのに、無愛想にされたのでは甲斐がないであろう」
「おい、七乃。てめえ、お守り役としてもっとちゃんとだな」
「ええー? これでも私、炎蓮さんのお言葉にちゃーんと従って、お嬢さまをお支えしているつもりなんですよ? それとも、私たちの行動になにか問題でもありましたか?」
「チッ……。どこまでも食えねえ女だな、貴様は」
「うふふっ。お褒めの言葉、ありがたく頂戴しておきますね。でもでも、お嬢さまの撰定になる蜂蜜、ほんとに美味しいと思いませんか?」
「ああ……? ったく、しょうがねえからそれだけは認めてやる」
実際、舌の肥えた美羽の持ってくる蜂蜜には、外れはなかった。
持ってくるのがいつも少量なのは、美羽なりに気を利かせて品質の良い物を選んでいるせいなのだろう。城中でもそこそこの評判となっているのだから、物自体の否定は炎蓮もできなかった。
「うむ、そうじゃろうそうじゃろう。炎蓮がどうしてもと懇願するのであれば、蜂蜜を運んでくる回数を増やしてやらんこともないのじゃぞ?」
「ううっ……。お嬢さまのお優しさに、この七乃涙が零れてしまいそうです」
ひたすら上機嫌なまま、美羽が勝手に話を進めようとしている。
これ以上、毎月の面倒事を増やすわけにはいかなかった。それだけは、断固阻止してみせる。まるで戦場に赴く前のように気持ちを奮い立たせ、炎蓮は小さな暴君と対峙するのだった。