はっきりとしているわけではないが、心にぽつんと穴が開いてしまっている。そんな感覚が抜け切らないでいる自身のことを、
豪奢な宮殿。力の象徴としては、十分なものだった。それでも、どこかつまらない。簡素な池。いつからか、散歩に出たときには決まってここに立ち寄るようになっている。水面。ゆっくりと覗き見る。そこに映る自分の表情は、いかにも冴えないものだった。
「こちらにおいででしたか、麗羽さま」
「あら。わたくしになにか用事でもあるんですの、
つま先で蹴った小石。静かだった水面に、波紋が拡がっていく。
しかめっ面をしていた自分は、もうそこにはいない。髪先を指でいじりながら、麗羽は真直の声がする方に振り向いた。
実際のところ、真直の用件などわかりきっていた。曹操が、なりふり構わず徐州を攻める。その時、袁家は立場をどうしていくべきなのか。ただ静観しているのも、ひとつの手ではある。しかし、本当にそれでいいのか。あの男のことを思うと、いつも以上に心が揺らいでしまう。それは、自分に迷いがあるからではないのか、と麗羽は思わずにはいられなかった。
「軍を動かすのであれば、もう時がありません、麗羽さま。曹操殿は、明日にでも徐州との戦を開始されるはず。先日諸葛亮が言っていたように、われら袁家にとってこれはまたとない好機。勢力の伸長がお望みであれば、参陣しない手はないでしょう」
真直が、わざとらしく畳み掛けてくる。
徐州を守るためには、袁家の協力が欠かせない。そう語った諸葛亮という娘の顔が、悲壮に満ちていたことはよく覚えている。
諸葛亮の話しぶりでは、援軍のあては他にもいくつかあるらしい。それでも、自分が出ていけば間違いなく盟主として仰がれるに違いない。それに、徐州の劉備と挟撃を行えば、曹操相手でも勝算はかなり大きくなる。家の躍進を目指すのであれば、確かにこれほどの機会はないと言ってよかった。
「小癪ですわね。わたくしを試しているつもりですの、真直さん?」
「まさか、そのような意図など少しも。ただ、ここでじっとしていても、道が開けることはありません。麗羽さまのお心のままに、われら臣下は励みます。ですから、何卒ご決断を、麗羽さま」
選ぶべき道など、とっくに見えている。真直のまっすぐな視線が、そう言っているように思えてならなかった。
曹操の徐州攻めに伴って、自分に話を持ちかけて来ているのは、なにも諸葛亮だけではなかった。真直としては、自分にもう一方からの誘いに乗ってほしいと考えているはずである。斗詩や猪々子に尋ねても、おそらく同じ答えが返ってくるのではないか、と麗羽は思っている。
怒りの感情に任せた戦など、似合わないと思った。幼少の頃から物静かで、ひとりでいると決まって遠くの方を見つめている。そんな振る舞いが眼についたのが、曹操に興味を持ったきっかけなのかもしれなかった。そんな男が、突然の横死だとはいえ、養父の死にここまで怒りを滾らせるものなのか。意外といえば、意外な話だった。
分かたれた道。それが、もう一度交わることがあるのか。
真直が静かに返答を待っている。兵を率いて出て行った時点で、後戻りは出来なくなる。事態がこじれた場合は、なし崩し的に全面的な戦になると考えるのが普通だった。それがおそろしいから、自分は今日まで態度を決められずにいたのか。もう一度水面を見つめる。勇気など、案外そのあたりに転がっているものだと思えた。
「ああもう、わかりましたわ! やればいいんでしょう、やれば!?」
半ば叫ぶように、声を上げていた。
結果がどうなろうと、知ったことではない。曹操の気持ちがどこにあろうと、知ったことではない。自分は、袁紹本初なのである。その思いを、ただ相手にぶつけてみればいい。やるべきことなど、それだけだった。
「ええっと……。本当によろしいのでしょうか、そのような破れかぶれな決め方をなさっても。私だって、なにもそこまでは」
「あなたねえ……。わたくしがやると言っているのですから、それでいいのです。ほら、さっさと軍議を招集しに行ってきなさいな、真直」
「は、はいっ、麗羽さまっ! すぐに、皆を呼びに行って参ります!」
胸の奥底に、熱いものが生じている。こんな感覚を得るのは、いつ以来なのだろうか。そんなことを考えつつ、麗羽は少し笑みを洩らしている。
†
招集に応じ、臣下が足早に参集して来る。中でも
「お待ちしておりました、麗羽さま。私も文ちゃんも、準備万端です。ですから、なんなりと役目をお申し付けください」
「姫のためなら、たとえ火の中水の中ってね。やっ、この場合、アニキのことも入れておいてあげたほうがよかったりして? なあ、斗詩はどう思うー?」
「も、もう、あんまり余計なことは言わないの。せっかく、麗羽さまがやる気になってくださったんだから」
二人の砕けた内容の会話が耳に入ってくる。
今は、そのくらいのことで怒る気にはならなかった。咳払いをひとつしてから、武官たちに視線をやる。斗詩と猪々子を筆頭に、ほとんどが若い面々になっている。冀州に籠もっている傍ら、軍の編成には力を入れてきた。古くから在籍しているだけの老人たちを排除していき、名実ともに統制の効く状態に持っていく。それが出来ているから、曹操は軍勢を自由に動かせているのだろう。悔しいが、参考になる部分は小さからずあったのだ。
あの男に出来て、自分に出来ないはずがない。そんな嫉妬にも似た感情が、原動力となったように思う。名門とはいえ、変えるべき部分は変えていく。その変化が滞った時、家は滅びていくのではないか。乱世は淘汰を生み、やがて勝ち抜いた英雄を王者とする。そして、その座を目指して足掻き続けているのが、曹操だった。
「斗詩。すぐに、騎馬を五千用意なさい。先行するのは、それだけで十分です」
「承知いたしました、麗羽さま。でしたら、後詰の軍は文ちゃんに?」
「ええ、そのつもりですわ。後続といっても、あまりのんびりやって来られても意味がありませんわね。ですから猪々子には、足の早い兵を一万ほど見繕ってもらいましょうか。今回の戦、わたくしあまり時間をかけようとは思っていませんの。あとは、真直?」
とにかく、曹操に追いつかなければなにもはじまらない。先行する五千の騎馬に混じり、麗羽は駈けに駈ける腹積もりでいた。
「はい。兵糧はなるべく軽くして、行軍速度を重視していきましょう。青州の役人には、それとなく話をつけてありますから。道中の食事くらいであれば、それで事足りると思います」
「ふうん。真直さんも、やる時はやりますのね。わたくし、感心いたしましたわ」
「うっ……。お褒めいただき、光栄です。ですが、これは私ひとりの発案ではなく……」
「あら、そうですの? でも、わたくしが評価すると言っているのですから、あなたはそれをありがたく受け取っておけばいいのです」
腹のあたりを軽く押さえながら、真直が照れくさそうに笑っている。裏で手を回しているのは、かつて曹操たっての願いで救ってやった荀彧なのだろう。真直を伝手に調略をかけて来ただけでは飽き足らず、細事にまで干渉してくるとは、横柄なことこの上ない。それでも、頼るべき相手を間違わなかったのは、褒めてやってもいいのではないか、と麗羽は率直に思う。
「待っていなさい、曹操さん。このわたくしが、あなたの情けないお顔を見に行ってあげようというのです。だから、今回ばかりは覚悟しておきなさいな」
また少し、胸が締め付けられるような感覚に襲われた。
活気に溢れる臣下たちの声。それだけが、今は頼もしかった。