徐州の戦況はどうなっているのだろうか。茶を一口すすると、わずかにぼんやりとしていた意識が明瞭になってくる。曹操不在の鄄城。急な呼び出しがかかることもなく、静かな夜だった。こんな夜は、考え事をするのにちょうどいい。指で軽く眉間を揉むと、
徐州に兵を入れ、彭城に向けて南下する。桂花が得ている情報は、そこまでだった。緒戦は、何事もなく順調に進むはずだ。徐州全土に兵を行き渡らせる余裕など、劉備にあるはずがない。関羽、張飛に精鋭を預け、要所で曹操軍を食い止める。相手方の大まかな戦略は、そうなってくると桂花は読んでいた。
机に拡げた絵図を睨む。東に劉備。北に袁紹。そして、南には孫堅が勢力を構えている。孫堅に関しては、二日前に間者からの報告が上がってきたばかりだった。軍を催し、出陣の準備を整えている。狙いは、考えるまでもなく豫州なのだろう。豫州南部には、既に孫堅の娘が楔を打ち込んでいる。それだけに、橋頭堡は出来上がっていると言ってよかった。加えて、揚州制圧に出かけている、孫策の行動も気がかりになってくる。
孫堅が仕掛けてくれば、迎撃に出る必要がある。豫州は自領でこそないが、中心人物である陳珪は曹操に対しかなり協力的である。それに、かの地は自分たちの故郷でもあるのだ。長く帰っていないが、思い出は多くある。曹操に連れ出され、馬の背中に揺られた日々。今でも、あの頃のことは鮮烈に記憶されている。
絵図の北方。袁家の領土である冀州を、桂花は指でつんと叩いた。袁紹。あの女に渡りをつけたのは、ある種の賭けである。
袁紹が曹操を意識しているのは、わかりきっていることだ。董卓の抑えていた洛陽を脱した時。それに対抗しようと連合軍を結成した時。袁紹が大きな動きを見せる時、常に曹操からの働きかけが存在していたのである。
曹と袁。二つの家が結束することがあれば、天下への道が一気に開けてくる。袁紹の配下たちも、曹操には好意的な姿勢を見せている。あとは、へそ曲がりな君主が、どれだけ気持ちを素直に出せるかだ。そして、曹操にしてもそれは同じなのである。
袁紹への働きかけ。もし裏目に出たとしても、それでいいと桂花は割り切っていた。周囲に敵が増えただけ、曹操が平静さを取り戻すきっかけとなるに違いないからだ。徐州にだけに向けられた意識も、苦境に陥れば柔軟に変化せざるを得なくなるのではないか。田豊からの返書はまだ届いていないが、できるのは結果を待つことだけなのである。
徐州を焼きたいのなら、焼けばいい。だが、その先に目指すべき覇者の座はあるのか。曹操の道を正したい。そんな、大それた思いがあるわけではなかった。主君に仕える軍師として、相応しい振る舞いではないという自覚もある。
自分と曹操との勝負。どこかに、そう感じている部分があるのかもしれない。大人しくしているばかりが忠義ではない。たまには、昔のように手を噛んでやるのもいいのではないか。自分たちは、そうやってここまで進んできた、という思いもある。だから、曹操からどのように思われようと、桂花は己のやりたいようにやるだけだった。
「程昱さまがお見えです。お通ししても、よろしいでしょうか」
侍女からの声がかかる。珍しい時間の来訪だと思いつつ、桂花はすぐに通すように伝えた。
「ほうほう。遅くまで頑張っているのですねえ、桂花ちゃんは」
「どうしたのよ、
風の表情から、読み取れることはあまりなかった。いつものように飄々としていて、掴みどころがない。曹操も、そうした部分を信頼して、風に留守居役を任せているのである。
眠たげだった風の右眼。まぶたが少しだけ持ち上がり、翡翠色の瞳がこちらを見つめている。
やはり、自分に知らせたいなにかがあるのか。桂花はちょっとだけ身構えて、風が言葉を発するのを待っていた。
「ふむ。なんと言いますか、桂花ちゃんにはお城を抜けることをおすすめしたいと思いまして。それも、なるべく今すぐに」
「なっ……。城を抜けろ、ですって?」
予想を遥かに越える不穏な内容に、目眩がしそうになる。
かと言って、風が冗談でこんな話をしに来るはずがない。その口調は冷え冷えとしていて、かなり真面目なものだった。
「訊きたいことが山ほどあるのはわかります。ですが、なるべくお急ぎを。先に
「気に食わないわね。それで、あなたはどうするつもりなのよ、風」
会話の流れから考えて、どうやら風自身はこの城に残るつもりのようである。
変事。それも、かなりの大事が起きるのではないか。それでも城に残るということは、風はそれに関与しているのか。他にも、上がっていない名前がある。
「むむむ。さすがに今は、食わず嫌いをしている場合ではないのですよ、桂花ちゃん。明日になれば、こうやってお話をしている余裕もなくなってしまうことでしょう。桂花ちゃんひとりだけならまだしも、お子さまがいることを考えますと」
「そっ……。本気なのね、風。あいつに、なにか伝えたい事は?」
「おおっ。風としたことが、そこまで考えが及んでいなかったのですよ。んんー、そうですねえ」
口に人さし指を当て、風が伝言を考えはじめている。
自分とは違ったかたちで、曹操の行動に対抗しようとしている勢力がいるようだった。だが、兵力の乏しい呂布軍だけでは、やれることなど知れている。だとすれば、その背後にはもっと大きな誰かが存在していて当然なのである。
「細々としたことを考えるのは面倒ですので、ここはひとつだけ。あの方には、こちらのことはお任せください、と伝えておいてもらえれば」
「ほんと、勝手なんだから。私にも、ちょっとは相談しなさいよね」
「おおう。その言葉、そっくりそのまま桂花ちゃんにお返ししてもー? あっ、そうだ。もうひとつだけ、伝言を追加してもよろしいでしょうか」
袁紹に対する働きかけのことを、風は言っているのだろうか。
ぼんやりとした口調からは、全てを計ることなどできなかった。ただ、風が曹操のために動いていることだけは、桂花にも容易に理解できる。
「恋ちゃんのこと、できれば叱らないであげてください。風の口から言えるのは、それだけなのですよ」
「確かに、任されたわ。しばらく寂しくなるわね、風」
「はい、それはもう。さっ、早く行っちゃってください、桂花ちゃん」
急かされるように、桂花は母と息子を伴って街を出た。
暗闇の中。原野に、いくつかの灯りが見えている。沙和と流琉は、それぞれ百人の兵を連れているようだった。難しい判断ではあるが、
「流琉。母さまと昂のこと、頼んだわよ」
「承知いたしました、桂花さん。お二人の護衛、私にお任せください。冀州に着いたら、田豊さんを頼ればいいんですね?」
「ええ。田豊なら、悪いようにはしないはずよ。母さまも、向こうにいた時に面識があるようだから」
眠ったままのわが子の顔に触れ、桂花は別れを惜しんでいた。
冀州には田豊だけでなく、移り住んだ一族もいる。逃げ込んだ後の、不安はなかった。
「帰るのですね、桂花。戦場に、一刀殿のところに」
「そうね、母さま。私の闘うべき場所は、結局あいつの側にしかないみたいなのよ。だから、この子のことをお願い」
穏やかな笑み。我儘をぶつけているのに、文句ひとつ言わずに受け止めてくれている。母の大きさというものを、桂花は改めて強く実感していた。
自分もいつの日か、母のような存在になれるのだろうか。まだ、確固たる自信はなかった。それでも、歩み続けることでしか得られないなにかがあるのだろう。
夜道。沙和の先導に従い、粛々と進んでいく。この道の先のどこかで、曹操は闘っているのか。戦場の発する熱。それはまだ、遠く離れた場所にある。