早暁。山裾から滲み出る霧が、軍勢を覆い隠してくれているようだった。物見の兵の帰りを待ちつつ、次なる闘いに向けて
ここが、きっと勝負どころになってくる。曹操軍の戦意を挫き、徐州から手を退かせる。そのためにも、この作戦を成功させる必要があると朱里は話していた。
糧道確保のために、どうやら曹操は本隊を移動させるつもりでいるらしい。襲われやすい開けた原野を避け、山あいの谷間に輜重を通す。周囲の制圧が完了し、堅陣を敷かれてしまうとこちらからは仕掛けにくくなる。とはいえ、曹操軍の動きは
夏侯惇や馬超の前線部隊を防いだところで、決め手に欠けるのが実情なのだ。原野でのぶつかり合いでなければ、大軍はその力の全てを発揮することができなくなる。伸びた軍勢を各個叩いていけば、自分たちにも勝機はあるはずだった。
それに、朱里の狙い通りに調略が進んでいれば、兗州内部はかなり乱れることになる。鍵になってくるのは、やはり張邈の動きなのか。
名声のある張邈が反曹操を声高に叫べば、同調する者が少なからず出てくるに違いない。国許危うし。そうなった時、曹操がどのような判断をくだすのか。まともに考えれば、領土防衛のために急ぎ軍勢を引き上げるはずである。それで、ひとまずこの戦は終りを迎えるのか。
それだけではまだ足りない、と愛紗は思った。
戦況の悪化によって一旦追い返しただけでは、曹操はいつか再興した軍を差し向けてくるのだろう。
そうなった時、今回のような奇策はおそらく通じなくなる。自分たちの望みは、曹操との和解だった。その目的を達成するためには、なにが必要になってくるのか。たぶん、最後にぶつけるべきなのは心なのだろう。研ぎ澄ました刃にも、斬れないものは確かにある。人の心というやつは、それだけ厄介なものだと言っていい。
「関羽さま。曹操軍が通過していく様子を見て参りました。まもなく、谷の入り口に差し掛かるとこでしょう」
「ああ、よく戻ってくれた。それで、曹操殿の所在は掴めたか。戦闘が長引けば、奇襲は奇襲でなくなってしまう。小勢のわれらは、その前に決着をつけねばならん」
「軍勢の後方に、一段と大きな軍旗が見られました。不確かですが、そこに曹操がいるのかもしれません」
「わかった。あとは、私の方で判断するとしよう。おまえは少し休んでいるといい。しかし、戦の時は近いぞ」
物見の兵を労い、愛紗は青龍偃月刀握る手に力を込めた。
どこか、曹操に誘われているような感じがする。だが、ここで怖気づくわけにはいかなかった。曹操軍とはじめにぶつかる本隊を率いているのは、
「申し上げます。劉備さまの部隊が、こちらに到着されました」
「報告ご苦労。われらも、これより移動を開始する。ただし、気取られないよう静かにな」
朝霧に紛れ、関羽は部隊を動かした。従う兵は三千。全てが騎馬であり、軽い具足を身に着けている。
物見の数を倍に増やし、戦場の動向を探る。曹操軍が谷の入り口を半分ほど通り過ぎたところで、桃香は攻撃を仕掛けたようだった。側には、朱里もついている。なればこそ、無用な心配はするまい、と愛紗は心に決めていた。
「どうかご無事でいてください、桃香さま。私も、直に参ります」
相手が無防備な脇腹を晒すまでは、待つしかない。
気持ちが逸る。抑え込もうとするほど、それは大きくなっていくのか。麾下の兵は、静かに出動の時に備えている。いまはただ、耐えるだけだった。
†
桃香の率いる一万二千が、相手の殿軍に斬りかかった。上申を受けた愛紗は、部隊をさらに前進させていた。
曹操軍に、いくらか動揺は与えられたのか。そこから先の展開は、まだ詳細不明のままなのである。軍勢の後方に、曹操がいる。ならば、その周囲を固めているのは、選び抜かれた精鋭に違いなかった。蹴散らすとまではいかなくとも、どこか一角だけでも崩れてくれていれば。そう願いながら、愛紗は馬を駈けさせている。
「見えた。物見の話していたのは、あの旗か」
『曹』の一字の旗。どこからでも見て取れるくらい、大きかった。
桃香の軍勢は、多数を一度に相手にしないように気をつけながら、攻勢を保っている。谷間を通過した兵士は、原野に展開するまでまだ時間がかかるはずだ。
仕掛けるのなら、今しかない。曹操の旗目掛けて、愛紗は手勢を疾走らせていた。
具足で身を固めた兵士の姿が見える。突っ込みながら、横に倒していた青龍偃月刀を一気に振り払った。五人瞬時に斬り捨てていた。このまま、騎馬を一度突っ切らせて撹乱を狙う。その腹積もりで、愛紗は馬の尻を石突きで叩いた。
「さすがに、守りは甘くないようだな。だが、この程度でわれらの勢いを止められるものか」
曹操の旗は、まだ遠くに感じられている。
反転してくる兵が多くなれば、自分たちは立ち所に不利となる。急がなければ。騎馬隊を小さくまとめ、自分が槍の穂先となるようなかたちになった。これならば、突き通せる。風を斬るような羽音。感じたのは、その時だった。
矢。あわやというところで、愛紗は身をかわしていた。命中していれば、致命傷は避けられなかった。そのくらい、射手は精度のいい射撃をしてきている。
「そこまでだ、関羽よ。わが殿を、あまり見くびらないことだな。そちらの軍師が立てた作戦なのだろうが、奇襲をかけてくることは読めていたぞ」
「夏侯淵。そうか、なにか嫌な感じがするとは思っていたが、誘い込まれたのはこちらの方か」
乗馬を巧みに操りながら、夏侯淵は次なる一矢を番えている。
口惜しさが拡がっていく。隠し通せるようなものではなかったが、曹操は朱里の存在にやはり気づいているらしい。糧道の変更は、自分たちを釣り上げるための陽動だったのだ。桃香のことが頭をよぎる。戦場の雰囲気は、まだ互角のままである。桃香の部隊が崩されていれば、自分たちにはもっと圧力がかけられているはずだった。しばらく、こうやって粘っているしかない。戦の流れを変えないためにも、それが重要になってくる。
交戦してしまった以上、簡単に後退することはできなかった。騎馬だけで構成されている自分たちだけなら、離脱はそう難しいものではない。しかし、別の方面では桃香が闘いを続けている。朱里も、曹操軍の動きの変化には勘づいているはずだ。となると、自分たちがやるべきことは、夏侯淵らの足止めとなってくる。
「武器を捨て、投降すればお主の身柄は保証しよう。関羽雲長は殿きってのお気に入りだ。私も、斯様な場所で討ち取るのは忍びないと思っている」
「ちっ。その言葉の割には、容赦のない攻撃を加えてくるではないか。ならば、こちらも加減はしてやれんぞ、夏侯淵」
距離のある闘いでは、どう足掻こうと夏侯淵には敵わない。
ここは、ある程度の被害を許容しつつ、前に出るしかないと愛紗は考えた。弓兵の狙いが、こちらに向いている。騎馬を斜め前に駈けさせて、斉射の中をかい潜った。
練度では負けていない。むしろ、突進力であればこちらの方が上なのか。原野が土煙で覆われる。夏侯淵の放つ矢を打ち払い、愛紗はさらに前へと進んだ。
「曹操殿は
「言ってくれる。だが、お主を通してやる道理がないのは、こちらも同じでな。歯向かうのなら、死んでもらうのみだ」
一進一退の攻防が続く。時間が経てば経つほど、曹操軍は使える兵が増えていく。そして、援軍の見込みのない自分たちは、確実に押し込まれることになる。
「桃香さまは、まだ諦めておられない。それとも、朱里にはなにか秘めている策があるのか」
黒髪が宙になびく。一瞬、凄まじい風を感じたような気分に愛紗はなっていた。
なんとなく。ほんとうになんとなくだったが、戦場の風向きが変わりつつあるように思えていた。闘いを続ける夏侯淵の側に、伝令らしき兵が駈け寄っている。内容こそ聞き取れなかったが、ちょっと素振りが慌てていることくらい遠目にも判別できる。
なにかがあった。予感が、確信に転じた瞬間だった。
「どういうわけか知らぬが、曹操軍は浮足立っている。この機を逃すな、者ども攻め続けろ」
原野。勇壮な叫びが、響き渡っていた。
息を吹き返した青龍偃月刀。鮮血を巻き上げ、咆哮を上げている。