戦場の空気がふるえている。なにかがおかしい。直感的に、曹操は馬上で立ち上がっていた。
この波はどこからやって来ているのか。見渡していても、すぐには判然としなかった。
軍勢が反転した先では、
「どこまでも、俺に抗おうとする気なのだな、あの子は」
呟きの中、思い出されるのは、別れ際に見た諸葛亮の悲しげな眼差しだった。後悔はしていない。いつか、諸葛亮は敵となって自分の前に現れるのではないか。そんな予感を、曹操はずっと抱えていたからだ。
そうなった時には、正面から叩き潰せばいい。闇討ちなどという手法は、取るべきものではないと考えていた。
「先に谷へ向かっていた兵の戻りが遅い。
「わかってる。さっき、
久しぶりに味わう戦陣の熱気に、詠はいくらかあてられているようだった。
軍師としての経験がある詠に、文官だけの仕事をさせておくのは勿体ない。これから先、同時に軍を動かすようになってくれば、それぞれの方面に軍師は必要になってくる。その一端を、詠にも担わせるべきではないのか。その考えには、桂花たちも賛成なようだった。
焦れたように弾かれる指。
いい傾向ではない。心の張り具合は、常に一定であるべきなのである。だったら、そういう自分自身の心はどうなのだ。どこからかそんな声がしたような気がして、曹操はちょっと表情を険しくした。
近くにいた
「なぜでしょうか。わたくし、先ほどから嫌な感じがしてなりませんの。お兄さまも、そうなのでしょう?」
「ほう。さすがに、栄華も武人の端くれということか」
「まったく、冗談を言っている場合ではありませんのに。諸葛亮さんは、わたくしたちの想像を越えた策を打ってきているのかもしれません。それを承知で動かれたのは、お兄さまではありませんか」
劉備の軍師となった諸葛亮が、どのような策を講じてくるのか。飛び込んでみなければ、その全貌は見えてこないものなのである。
彭城の戦線は、初日からここまで膠着状態となりつつある。ならば、あえて相手の策に乗ってやり、覆してみせれば戦況は一気に自分たちのものとなるのか。
栄華の中にある、不安の種の正体はなんなのか。柳琳の向かっていた先から使番が駆け込んできたのは、その時だった。
「申し上げます。楽進さまの部隊は急襲を受け、かなり乱されている御様子。そちらの救援にあたるのでしばらく戻れない、と曹純さまからの言伝を預かっております」
「なんですって? それで、相手の旗は」
矢継ぎ早に、詠が伝令に質問をぶつけている。
凪が統率を乱され、柳琳が援護をしなければならないような相手。そんなものが、いったいどこから湧いて出てきたのか。詠の顔には、焦りがはっきりと表れてしまっている。
「はっ。わが軍を襲っております敵は、呂の一字を掲げておりました。それも、血をぶちまけたような真っ赤な呂旗です」
「赤い、呂旗……。嘘でしょ、そんな、そんなことって……?」
伝令のもたらした報告が、詠の心を乱しに乱している。青ざめていく表情。そこには、痛々しさすらあるくらいだった。
「ン……。そうか、深紅の呂旗がな。苦労、さがってよい」
受け入れがたい事実だが、相手がその旗を使っているのならば、楽進隊の苦戦にも納得がいく。全体への指示も、早急に出し直さなければならなかった。
「くっ……! どうして、一刀殿はそんなに平然としていられるのよ!? 深紅の呂旗が、
「深紅の呂旗を使う軍勢が、俺の麾下に攻撃を加えている。現実は、それ以上でも以下でもないのだよ。落ち込むことくらい、あとでも出来る。ここは戦場なのだぞ、詠」
嫌な湿り気のある風が肌に触れる。脅威は、すぐそこまで迫っているということなのか。
にわかに、雲行きが怪しくなっている。動揺が後方にまで伝われば、劉備軍はここぞとばかりに押し込んでくるに違いない。深紅の呂旗。それは、かつて董卓軍を象徴するものでもあったのだ。
自分に対する叛乱だとすれば、どこまでの規模のものなのか。そして、その先のことが頭に浮かぶから、詠は心を取り乱しているのか。
「お兄さま。どうやら、こちらにも軍勢が迫っているようですわ。旗は紺碧の張旗。言いたくはありませんが、この普通ではない速さです。率いているのは、おそらく」
栄華の端正な顔が歪んでいる。詠と一緒で、どうしてだという思いが強いためなのだろう。
迷っている時間はなかった。誰だろうと、向かって来るのなら闘う以外の道はない。剣を抜き、曹操は叫んだ。
「詠を連れてさがっていろ、栄華。相手の狙いは、間違いなく俺だけだ。だから、余計な人間は、近くにいない方がいい」
「嫌です、お兄さま。わたくしにだって、できることくらい」
「邪魔だと言っているのがわからないのか。おまえたちがいたところで、大して役には立たん。これは命令なのだ、栄華。まさか、それを聞けないとは言ってくれるなよ」
馬蹄が地面を叩く音。騎馬の集団が、段々と近づいてきているようだった。
わがままを聞いてなどいられない。それに、命を捨てるつもりなど少しもなかった。
「……わかりましたわ、お兄さま。ですから、必ずやご無事で」
「それでいい。戻ってくるまでに、詠に気合いを入れておいてやることだ」
護衛の兵に囲まれて、二人が離脱していった。
息をつく間もなく、果敢に向かってくる旗が見える。紺碧の張旗。間違いなく、張遼軍のものだった。
盾を持った旗本を集め、円陣を組む。とにかく、騎馬の勢いを止めることが先決だった。
「来るか、張遼」
闘気を含んだ風。吹き抜けたかと思うと、兵が次々と薙ぎ倒されていく。
少数であっても、その突破力は圧倒的と言っていい。調練の行き届いた騎兵を手足のように操り、張遼が駈けてくる。気後れだけはしてなるものか。闘気で身体を満たし、曹操は馬を疾走らせた。
「あはははっ! さっすが、ええ覚悟しとるやないか、曹操」
初太刀。勢いのままに振り下ろされる偃月刀を、なんとか受け止める。
張遼は、ひどくおかしそうに笑っていた。斬り結ぶ。これほどまでの相手と打ち合うのは、虎牢関での戦さ以来だった。
あの時は呂布が相手であり、味方には関羽がいた。今ではその関羽に後方から迫られ、前方ではおそらく呂布が暴れている。なにもかもが、遠い過去のことのように思えていた。
「何のつもりだ、張遼。おまえと遊んでいる暇など、俺にはないのだよ」
「おっと。それはすまんかったな、曹操。せやけど、あんたが無茶しようとしてるせいで、心を痛めるもんがいる。それだけは、忘れんことやな」
偃月刀の速度が増す。
全てを防ぎ切ることなど、出来はしなかった。斬られた箇所から痛みが生じている。だが、どれも軽症ばかりであり、戦意を失うには程遠いものだった。
どこまで、自分は耐えられるのか。そして、張遼は本当に殺す気で向かってきているのか。生まれる雑念ごと斬り捨てるつもりで、剣を振るった。そして、それに応えるかのように、張遼の攻撃も激しくなっていく。
逆襲の目は、どこに転がっているのか。ここからは、ほとんど運任せと言うほかない。
「趙雲推参。まだ生きておられますな、主」
叫び。星の声なのか。
確かめている余裕はない。張遼の繰り出す一撃をかわし、曹操は気迫で打ち込んでいた。
張遼の守りが、かすかに揺らいでいる。自分がやれるのは、ここまでなのか。それでも、気持ちは幾分か軽くなっていた。
「へへっ。やるやないの、曹操。やっぱりウチ、あんたのことはどうやったって嫌いになれんわ。そんで、次はそっちが相手してくれるんか、趙雲?」
「指揮を放り投げてまで、こうして来てやったのだ。多少の怪我では帰してやれぬゆえ、覚悟するといい、張遼よ」
得物を向け合い、二人が睨み合っている。
したたり落ちる汗。腕で拭い、曹操は剣を構え直していた。苦しいが、まだ全てが終わったわけではない。
どうすれば、現状を斬り抜けられるのか。そのことだけを、曹操は考えていた。