もう何合打ち合っているのだろうか。
殿軍の方は、いつまで持ちこたえることができるのか。騎馬の攻撃によって散らばった旗本に参集をかけながら、曹操は少し後方に意識を向けていた。星が戦線を離れているだけあって、負担のほとんどを
自分たちの乱れを察知して、劉備軍は確実に勢いを増している。そちらとまともにぶつかるためにも、早急に呂布軍を退ける必要性があるのか。
張遼が一騎討ちに興じている今、騎馬隊に先ほどまでのような動きの鋭さはない。呂布軍は個人がかなりの力を有しているが、如何せん数が少なかった。勢いが止まっところを押し包むように囲んでやれば、最後には逃げるしかなくなる、と曹操は読んでいた。
強引に討とうとしたところで、自軍に無為な消耗が拡がるだけだ。それに、張遼の言葉が心のどこかに引っかかっている。
戦の邪魔立てをされたのだ。自分では、強く怒りが湧いて出てくるものだと信じ込んでいた。それなのに、この不思議な感覚はなんなのか。悲しみ。いや、そうではない。もっと掴みにくく、言い表し難いもの。そんな思いが、胸の近くで幾重にも渦を巻いているのか。
「星。そのまま、張遼を引き付けておけ」
「御意にままに。くくっ、どうしたのだ張遼よ。少し、疲れが見えてきているのではないか?」
言いながら、星が素早く槍を突き出した。
まともな相手であれば、とっくに串刺しになっている。そんな攻撃を容易く受け流しているのだから、張遼はやはり図抜けた武人だと言えるのだろう。
「阿呆抜かせ。その言葉、そっくりそのままあんたに返したるで、趙雲」
「ちっ。しかしまあ、やんちゃをするには、ちと歳を食いすぎているのではないか? いい加減落ち着いたらどうなのだ、お主も」
「へへっ、たいそうな余裕かましてくれるやないか。つっても、こうなったらしゃあないか……」
張遼が舌打ちをする。
自身の置かれている状況に、気づかないような女ではない。退き際の見極め。良将の采配というのは、案外そういう時に発揮されるものなのではないかと曹操は肌身で感じている。
「近いうちに、また会うこともあるやろう。ほんならまたな、曹操」
渾身の一振りで星から距離を取り、張遼は騎馬隊を連れて去っていった。
残された土煙。しばらく見つめていた星が、馬首を返してそばに寄ってくる。疲労はしているものの、まだ闘える。言葉を介す必要などはない。星は、すぐにでも秋蘭の援護に向かおうと言いたがっている。
「供をしてもらうぞ、星。まずは劉備軍を押し返す。一息つくのは、それからでも遅くはあるまい」
「ええ、参りましょう。しかし、主のそのようなお顔、なんだか久方ぶりに見たような気がしてなりませんな」
昂揚。長く、忘れかけていたものだった。それを、自分は取り戻しつつあると星は言いたいのか。
星が、無遠慮に肩口を叩いてくる。じわりと痛む傷口。それでも、手のあたたかさがちょっと心地良いとさえ思えてくる。
道を閉ざしていた冬。明けた今、この戦で全てを終わらせるつもりだった。
呂布軍の参戦は、なにを意味しているのか。兗州に残してきた
†
騎兵の群れ。先頭を駈ける
馬蹄の跳ね上げた泥水が、頬を汚す。不快だが、馬を止めている余裕はなかった。
「麗羽さま、ほんとに休憩しなくても平気なんですか?」
「わたくしがいいと言っているのですから、黙って馬を走らせなさいな、
「も、もちろんです。でしたら、もう少しがんばりましょう、麗羽さま」
先行させている斥候から、曹操が戦を始めたという報告を受けている。
徐州軍はこの数ヶ月でやれるかぎりの備えをしてきたようであり、緒戦で崩されるような事態には陥っていないようだ。これならば、到着を間に合わせることができる。その一心でここまで駈けてきただけあって、麗羽は半ば執念で手綱を握り続けていた。
「待っていなさい、曹操さん。すぐに、わたくしが参りますわよ」
馬上で、何度そう呟いたことだろうか。
曹操の姿はまだ見えてこない。なのに、これまでよりもずっと近くに感じられている気がしていた。人というのは、心の持ち方ひとつで景色を変えられる生き物なのだと聞いたことがある。曹操に逢いたい。逢って、思いの丈をぶつけたい。衝動のように感情が溢れてくる。善し悪しなど知ったことではない。ただ、確かに今、自分は強く生を実感することができているのだ。
「斥候からの報告です、麗羽さま。このまま西に十里ほど進むと、戦場に出られるみたいですよ」
「それで、戦況はどうなっているのです。数日前には、拮抗しているという話を聞いたばかりでしたわね」
「はい。報告によりますと、曹操さんの軍が少し押されているみたいです。詳しいことはわかりませんけど、劉備さんと闘っているところに、呂布さんの軍が押しかけてきたようでして」
「呂布さん、ですって? あの野良犬は、曹操さんが飼っていたはずではありませんの」
「ええっと、とにかく報告終わりです! 急ぎましょう、姫!」
強引に質問を終わらせにかかる斗詩を尻目に、麗羽は過去を思い返していた。
呂布の名を聞かされれば、嫌でも思い出すことがある。董卓軍との闘い。もっと言えば、虎牢関での攻防戦だった。
あの頃の自分には、どこか思い上がるような節があったのかもしれない。あるいは曹操の援助を受け、連合軍はうまく回っているように錯覚していたのか。
虎牢関から軍勢を退却させたのは、間違いだった。たとえ突破が難しくとも、包囲を続けていれば呂布を一箇所に留めることができたのである。そのまま、戦意のある孫堅に別口から洛陽を攻めさせていれば、違う結果が出ていた可能性もあったのではないか。
結局、自分は攻囲をやめさせてしまったのである。曹操との間に壁ができあがってしまったのも、それからだった。どうして、董卓は都を完膚なきまでに焼けたのか。その気持ちは、今でもわからないままだった。
「どういたしましょう、麗羽さま。このまま、どちらかに加勢することだって可能だとは思いますが」
「いいえ、斗詩。それでは、なにも変えられない。この戦、どちらかが勝ってはいけないように、わたくしには思えるのです」
「うーん、でしたらそれって……?」
「間に割って入るしかありませんわね。全軍に、戦闘態勢を取らせなさい」
「ふふっ、了解です。どなたに似たのか、無茶をなされるようになりましたね、麗羽さまも」
「お黙りなさい。さあ、参りますわよ、斗詩」
馬上で感じる風。戦場に近づくにつれて、重みが加わっていくようだった。
前方に、『曹』と『劉』の旗が揺れている。ぶつかっている部分だけならば、わずかに劉備軍が勢いで勝っているのか。呂布軍の姿はどこにもない。山あいで闘っているのか、それとも曹操軍に押し返されたのか。細かな戦局は不明だったが、やることはひとつだった。
「姫、私のそばを離れないでくださいね」
「期待していますわよ、斗詩。両方の戦意を、削いで見せなさい」
袁家伝来の軍旗が、戦場に躍っている。戦鎚を担いだ斗詩が前に出て、一騎を弾き飛ばす。
両軍の足が止まった。自分の狙いが伝われば、劉備は軍勢を引き上げるはずだ。成功するという確証はない。だが、やらなければなにも変わらない。変えることなど、できるはずがない。
どこにいる、曹操。闘気の渦の中、麗羽は男の名を胸中で呼んでいる。