天衣ドルマスター 作:りりーまるれーん
10月も半ばを過ぎ、ようやく近頃涼しくなってきた。遅ればせながら秋がやってきたらしい。温暖化だ、異常気象だというが、個人的な感想としては夏と冬が長くなり、春と秋が極めて短くなったという印象だ。
「八一先生、ここが?」
繋いだ手の主から声がかかる。紅葉のように華奢な手指。艶やかな黒髪。赤みがかった瞳。天が与えたもうた完璧な造形美。オレが買い取った少女、夜叉神天衣が目の前の建物を指さして聞いてくる。ここが目的地なのかと。
それに頷く俺。彼女が指さす先には木造二階建ての古くて地味な店があった。周囲はネオンや看板でビカビカと飾り立てられた店ばかりなのでかえって目立つかもしれない。ディープ大阪・京橋の商店街を抜けた先にあるこの店が本日の目的地。
『ゴキゲンの湯』と書かれた暖簾を潜る。玄関正面の番台には一人の少女が座っていた。この店の主人の娘、飛鳥ちゃん。目が隠れるほど長い前髪と巨乳が特徴の女子高生だ。俺とは以前からの知り合いでもある。
こんばんはと声をかければ、ぽかんと口を開けて硬直。たっぷり五秒は経ってから再起動した飛鳥ちゃんはわたわたした反応を返してきた。飛鳥ちゃんとは以前からの知り合いだが、最後にあってから数年経つ。随分と久しぶりだ。
忘れられてしまったのかと改めて自己紹介をしてみれば覚えているとのことだった。単に驚いていただけらしい。何に驚いたのかは知らないが。不思議に思っていると、なぜか彼女から咎められるかのように手の甲を抓られた。解せぬ。
まあ、ひとまず挨拶が済んだのであれば問題ない。飛鳥ちゃんに父親の居所を聞けば予想通り二階にいるとのことだった。番台を務める飛鳥ちゃんに自分と彼女の分の料金を支払って二階へ上がらせてもらう。本来であれば一階の銭湯でひとっ風呂浴びてから二階へ、というのが正しい作法なのだろうが、まずは目的を優先させてもらう。
なぜか顔を真っ赤にしてしまった飛鳥ちゃんを尻目に二階への階段を上がる。階段を上るに連れ、漏れ聞こえてくるピアノの音色。そして扉を潜れば──
「へぇ……」
彼女の感嘆のため息。それは目の前に広がる光景に対してのものだ。
赤煉瓦の壁に、並ぶ黒革のソファー。間接照明で柔らかく照らされた空間。極めつけは生ピアノによるジャズミュージック。だがここはジャズバーでもなければ高級クラブでもない。その証拠が木目調のローテーブルの上に鎮座した将棋盤だ。正直これがなければ誰もここが将棋道場だなんて思わないと思う。
これも道場主のセンスの良さがゆえのものだが……いや、銭湯に併設された将棋道場をこのようなオシャレ空間にしてしまうのははたしてセンスが良いのだろうか? どちらかといえばむしろ……深く考えるとドツボにはまりそうなので、さっさと目的の人物を捕まえてしまおう。
「
ピアノの音色に混じって駒が盤を叩く音が響く異様な空間を通り抜け、道場の隅に設置されたピアノのところへ。まさに今そのピアノで音を奏でている黒いスーツを着た男性に声をかけた。
「……八一か」
ピアノを弾く手を止め、うっそりとこちらを振り返ったその男性こそ俺の目当ての人物。『捌きの巨匠』──生石充玉将だ。生石さんはA級在位十三期、タイトル獲得七期を誇る超トッププロの一人であり、関西という枠を飛び越え全世界の将棋ファンの半数に崇め奉られる存在だ。そしてそれこそが、今日ここに来た目的でもある。
「どうした急に。随分久しぶりだろ」
「そうですね。前にあったのが竜王になる前ですから……かれこれ3年近く経ちますか。すっかりご無沙汰してしまってすいません。竜王になってからあれこれ忙しくて」
「構わんさ。俺も護摩業で長期に外出したりでいないことも多かったからな。まあせっかく来たんだ。座れよ。軽く捌いてやる」
生石さんは俺がここに来た理由を詮索することなく、まずは一局と練習将棋に誘ってくれた。それは俺からすると願ったり叶ったりで。望外の展開に気合いが入る。竜王二期は伊達じゃない。軽く捌いてやるなんて油断しているとその喉笛食い破るぞ!
超トッププロには勝てなかったよ…………
ギャラリーは総立ちで巨匠に喝采を贈る。最前列で見ていた彼女も目を丸くしていた。俺がここまで鮮やかにやられるのを見るのは初めてだろうから。
それは想像を絶する、魔法のような将棋だった。居飛車に構える俺に対して、後手番を握った生石さんは自身最強の戦法を用いた。角道を開ける攻撃的な振り飛車──『ゴキゲン中飛車』である。
それに対して俺は先手居飛車側の現時点で最善手とされている『超速▲3七銀』で応じた。その狙い通りに生石さんの飛車を押さえ込むことには成功はしたのだが、巨匠の本領はそこからだった。
必勝形を築き上げたと安堵する俺に対して生石さんはノータイムで飛車をぶった切ってみせたのだ。そこから先に角も。飛車角は大駒とされ、言うまでもなく攻守の中核である。俺は圧倒的に駒得したのにも関わらず、その駒得を生かせる場は巡ってくることなく。生石さんは残る小駒だけで、しかも短手数で俺の玉を寄せきってしまった。
俺たち居飛車党とは全く異なる大局観で将棋を指す人種。それが振り飛車党だ。将棋界を真っ二つにわけるこの両陣営。とはいえプロ棋士は圧倒的に居飛車党が多い。それは居飛車の方が優位と考える者がプロを目指すような人間には多いからだが、それに対して生石さんは純粋な振り飛車党として真っ向から立ち向かう存在。
そして実際にA級棋士・タイトルホルダーとして棋界の頂点に立っている。まさに『振り飛車党総裁』と讃えられるにふさわしい存在だろう。ちなみにアマチュアの世界では本来守備的な戦法である振り飛車党はむしろ多く、その唯一無二の頂点である生石さんに対する人気は絶大なものがある。実際振り飛車党と思われる周囲のギャラリーは大盛り上がりだし。
「ありがとうございました。それにしても生石さんが練習将棋を指してくれるなんて珍しいですね」
生石さんは誰とも研究会をしない孤高の棋士として通っている。それがこんなふうに練習将棋を指してくれるのは珍しい。目的を果たすためお礼がてら探りを入れてみる。
「まあたまにはな。幸か不幸か当面お前と公式戦で当たることもない。それに竜王の力ってやつも見てみたかったしな」
長年トップの座につく生石さんと、竜王位こそ得たもののその他ではまだ駆け出し棋士に過ぎない俺との間で手合いがつくことはそうそう無い。昨季の順位戦でも元の順位の低さが祟って昇級を逃してしまい今期もC2級の俺とA級の生石さんの間には深い溝が横たわっているのだ。
「生石さんが竜王戦に上がってきてくれてたら公式戦で俺の実力をお見せできたんですけどね」
「抜かせ。たった今俺の捌きを喰らって簡単に吹っ飛ばされたくせに」
俺の軽口に乗ってくれる生石さん。なんとなく良い雰囲気になってきた。これは今しかないのでは。ということで言ってみた。「振り飛車を教えてください」って。そして──
「は? どうして俺が、お前さんに振り飛車を教えてやらなきゃならないんだ?」
まあそう甘くはないよね。
とにかく今の俺には振り飛車が必要なのだ。ここは食い下がるしかない。俺からは居飛車側の最新戦法を伝えることもできるし、ぜひ研究パートナーにと訴えれば、「俺の捌きを喰らって簡単に吹っ飛ばされた奴がか?」と先と同じ事を繰り返される。けれど先の軽口とは比較にならないほどその意味は大きい。思わず次の言葉を発っせない。そして更に追い打ち。
「しかも八一。お前また
「……はい」
そう。それこそが核心だった。先日始まった竜王戦。挑戦者はA級序列第四位、山刀伐尽八段。その第一局。序盤から終盤まで一度も攻められないまま寄せきられてしまった。竜王、フルボッコである。
「一度も勝ててないんじゃないのか?」
「……はい」
何を隠そう俺のプロデビュー戦の相手が山刀伐さんだった。そこでひどい負け方をした俺は人間スプリンクラーと化したままフルマラソンの1.5倍近い距離を走ることとなった。深い心の傷を負ったのだ。それからも山刀伐さんとは何度か対局しているが一度も勝てていない。
その間に山刀伐さんはA級へ昇格しトッププロの仲間入りを果たし、今回、竜王位挑戦者として登場した。彼にとってタイトル挑戦はこれで二度目である。
「情けねぇ……山刀伐なんてお前、俺たちの世代じゃめちゃめちゃ弱かったんだぜ?」
山刀伐さんと生石さんは同い年だ。奨励会の在籍期間も被っている。が、プロ入りは生石さんの方が早く、実績でもかなり差がついている。だからかあるいは東西の対抗意識からか、生石さんは山刀伐さんに厳しい。竜王があんなのに負けるなとか言ってくる。
「……竜王戦に出てきたのは生石さんじゃなくて山刀伐さんなんですけどね」
「俺が直接対決であいつに負けたわけじゃねぇ」
それはそうなのだが。1組のランキング戦では生石さんが上。その後の決勝トーナメントでは二人は別の山で、対局していない。
「もしかしてあれか。突然振り飛車を教えてくれなんて押しかけてきたのはあいつ対策か?」
「…………」
That’s Right!
別に初顔合わせでひどい負け方をしたからといって山刀伐さんに苦手意識を持っているわけじゃない。だからこそ事態はより深刻と言うべきか。山刀伐さんは研究巧者として知られている。そして山刀伐さんは俺のことを研究し尽くしていた。先の竜王戦第一局でも弱点を狙い撃ちにされたのだ。
このままでは失冠の危機である。それ即ち彼女との暮らしにも影響が出ると言うことだ。主に金銭面で。それだけではない。タイトルという冠を失えばただの未成年の俺。彼女を手元に置く上での社会的信用も減じかねない。なんとしてもそれだけは防がないとならない。そのためには山刀伐さんの研究を打ち破る新たな戦法が必要だった。
それが振り飛車だ。それも単なる付け焼き刃ではダメだ。振り飛車の極意である捌きの『感覚』とともに身につける必要がある。そのためにここ、振り飛車党総裁のもとを訪れたのだ。
俺の魂胆が分かり、生石さんは頭をがりがりと掻いている。間が開いたことでふと視線を彼女へ向けると呆れた顔をしている。「振り飛車は不利飛車」「振り飛車党なんて指運に任せて適当に指してるだけの将棋の発展に取り残された憐れな連中」などという俺の過去の発言を知っているからだろう。当然それをこの場で口に出さないだけの常識を彼女は持っている。
偉いぞという気持ちを込めて彼女の頭を撫でた。人前で恥ずかしいからだろうか。いつもは素直に撫でられてくれる彼女もこの場では抵抗してくる。ははは。こやつめ。抵抗を無視してより撫で繰り回す。
「ん? そっちのお嬢さんは? 噂のお前の弟子か?」
俺たちのスキンシップを見咎めた生石さんが聞いてくる。それに頷き彼女の背を押す。
「初めまして生石先生。九頭竜門下、夜叉神天衣。小学一年生です。研修会B2です」
「ほう……あい、か。良い名前だ。世界の半分は愛でできている……」
「もう半分は?」
「振り飛車に決まってるだろ」
居飛車はどこに行ったんだよ。
「それにしても小一でB2級か。随分有望なんだな。八一、女流棋士にはしないのか?」
「まだなんとも。クラスはともかく対局数がまったく足りませんし」
まだ彼女が研修会に入って2ヶ月ちょっと。対局数は20局に過ぎない。その20局すべてに勝利したことで女流2級を得られるB2クラスまで来たものの、もう一つの条件である通算対局数が28局足りない。そのことを生石さんに伝えると逆に驚かれてしまった。
「この子は振り飛車は指すのか?」
「ええ。どちらかと言えば居飛車中心ですけど振り飛車も指しますよ」
例えば彼女が対ピンクパンサー戦や研修会入会試験で披露した後手番角頭歩なんかも振り飛車だ。研修会の駒落ち将棋で困らない程度には振り飛車も指しこなせる。それに彼女の序盤戦術の才は圧倒的だ。オールラウンダーの素質が彼女にはある。
俺の言葉に生石さんは頷くと、彼女にここで振り飛車の勉強をしてみないかと誘った。おおい!? 何で俺との研究会は一蹴したくせに天衣は自分から誘う!? そう憤って問い質すと、俺が振り飛車を指したって『いろいろ上手くいっていないんだな』としか思われないが、彼女のように可愛い女の子が振り飛車を指せば振り飛車の普及に繋がるとのこと。
俺とはギブアンドテイクは成立しないが彼女となら成り立つとまで言われた。師匠の面目とはいったい。ともかく彼女は承諾し、そのおこぼれとして俺にも稽古をつけてもらえることとなった。おまけにゴキゲンの湯のバイトもしながらという条件つきだけどね……
早速今日から生石さんに指導してもらい、将棋で疲れた体を癒やしに一階に向かう。銭湯に将棋道場というのはこれはこれで合理的なのかもしれん。番台に座る飛鳥ちゃんに一声かけてそのまま更衣室につながる暖簾をくぐろうとして──
「や、八一くん……!」
「ん? なに? 飛鳥ちゃん?」
なぜか飛鳥ちゃんに呼び止められた。振り向くとなにやら必死そうな顔だ。飛鳥ちゃんが何を言わんとしているのか。聞いてみるとどうやら俺と彼女がいっしょに男湯に入ろうとしたことに驚いたらしい。なるほど。とはいえ彼女を一人で女湯に入らせていいものか……
「や、八一くん……もしかして……い、いつもは天衣ちゃんと……いっしょに……お、お風呂入ってるの?」
肯定すると随分驚かれた。でも小一で誰かと、例えば父親といっしょにお風呂に入るのとか普通じゃない? いや。彼女が普段お風呂でしている行為は普通じゃないにしても。それにいつも彼女を洗うのは俺がしているから、いざ一人で入らせてちゃんとできるのか不安でもある。
そう伝えると、飛鳥ちゃんは自分が彼女に付き添ってくれると申し出てくれた。まあさすがに公衆浴場で彼女といたせるわけではないし、よく考えると他の男どもに彼女の裸体を見せるのは面白くない気もする。なので飛鳥ちゃんの言葉に甘えることとした。彼女はどこか不満げだったが。
こうして実に久しぶりに一人のお風呂タイムを満喫したのだった。