天衣ドルマスター 作:りりーまるれーん
時間がじりじりとしか進まない。俺の心境を反映してかいつになく時間が過ぎるのが遅く感じた。気持ちの上ではすぐにでも彼女のところへ駆けつけたかったが、解説者がステージを放り出すわけにはいかない。この時ばかりはこの仕事を受けたことを後悔した。
予選第一回戦で彼女に勝利した雛鶴あいというアマチュアは驚いたことに彼女と同い年の少女だった。その少女は先ほど行われたブロック決勝で女流帝位──祭神雷を一刀両断にして本戦進出を決め、彼女を倒したその実力がフロックでないことを証明した。
奨励会員に女流タイトルホルダーと有力候補を立て続けに葬ったことで雛鶴アマへの注目度は爆上がり、一躍大会のヒロインとなった。必然的に少女の対局に触れる時間も増え、その将棋のスタイルを確認することができた。
一言で言えば終盤特化型。センスや大局観ではなく圧倒的な読みの力で将棋をやってる。実際、彼女との対局でも序盤に光るところはなかった。定跡はよく勉強しているようだがそれだけ。中盤のねじり合いについてもそう。
けれど終盤戦、駒のぶつかり合いを積極的に激化させ盤面を混沌とさせると細い攻めを成立させ、一気に寄せきってしまった。複雑化させた盤面を読み切り相手を斬り捨てる。そんな将棋だった。
よくもこんな才能が出てきたものだ。彼女と当たるまでまったくノーマークだった。言い訳がましくなるが、彼女と当たる可能性のあるチャレンジマッチから上がってくる選手についてその最終局の棋譜はさらっとだが確認していたのだ。
けれど雛鶴アマのその棋譜は今日の将棋の出来映えとは全く異なっていた。対局相手がチャレンジマッチを免除してもらえないレベルの女流だったということもあって、劇的な逆転というわけでもなく、特に見るところのない棋譜だったのだ。終盤での見落としも多かったし。
けれど今日の結果から考えるとチャレンジマッチでは猫を被っていたということなのだろう。散見された見落としも読めていなかったのではなく敢えて見逃した。一斉予選で当たる相手を警戒させないために。
最年少でのチャレンジマッチ突破だというのに、平凡な棋力に見えていたからか、それとも同い年の奨励会初段がいたからか、雛鶴アマの事前注目度はあまり高くなかった。本人の希望通りに。こうしてみると幼くして随分と策士だ。あるいはこの大会によほど期せるものがあっただろう。
すべての対局が終わり本戦へ進む十二名が出揃った。そして本日最後のイベントである本戦組み合わせの抽選も今ようやく終わった。まだ壇上の選手たちに対する祝福の言葉は続いているが俺は周囲に断って一足先に抜けさせてもらった。
出場者控え室に急ぐ。そこで彼女が待っているはずだ。その扉の前に辿り着くやいなや開け放った。中ではまだそれなりの出場者たちがたむろしていた。ここにいるのは皆本戦出場を果たせなかった人たち。顔見知りの女流棋士たちがお互いに慰め合ったり、感想戦で意見を出し合ったりしているらしい。けれどそんな有象無象はどうてもよくて。目当ての姿を探して左右へと視線を走らせる。
──いた。
壁際に一人ひっそりと立っていた彼女。凜とした表情を保っていたが、俺が控え室に入ってきたことに気づくと一瞬目蓋を震わせ、そして表情を取り繕うとそっと視線を逸らした。その姿に俺は胸が締め付けられる様な思いだった。
俺が仕事で拘束されていたため、この控え室で待っているしかなかった彼女はどれほど辛い気持ちでいたのだろうか。予選突破候補最右翼と目されていたところが蓋を開ければまさかの初戦敗退。
才能と若さ。それを端的に体現していたのが彼女だ。もともと周囲から大いに嫉妬される立場。それが一敗地に塗れる。となれば羨望はそのまま侮りや嘲りへと変わりかねない。おそらく対局が終わってから今まで針のむしろだったのではないだろうか。それは同じく有力候補だった祭神が早々に会場から姿を消したことからも分かる。
彼女の前に立つまで何も言葉が見つからなかった。周囲に他人がいる状況ではどんな言葉をかけてもよくない、というのは言い訳だろうか。結局俺に出来るのはぽんぽんと頭を撫でるだけだった。彼女はやや俯いて表情を隠し、されるがままになっていた。
さあ帰ろう。そう思っていたところ、突如として部屋の入り口辺りが騒がしくなった。どうやら本戦進出組が戻ってきたらしい。その中にはあの雛鶴アマの姿も見える。向こうもこちらに気づいたのかこちらへとことこと歩み寄ってきた。
「こんにちは。九頭竜先生。ご無沙汰しています。本日は解説役お疲れ様でございました」
綺麗なお辞儀をすると雛鶴アマは笑顔でそう言った。いやはやなんとも。年齢に似つかわしくない丁寧な態度もそうだが、彼女と先ほど対局したばかりだというのに、その師匠にたいしてこうも堂々と笑顔で接することができるとは。たいした度胸だ。
ただ今の挨拶で俺にはそれ以上に気になることがあった。だから一言健闘を讃え、予選突破の祝福を述べた後で聞いてみた。
「ご無沙汰? 君とは今日が初対面じゃなかったかな?」
──ぎしり。空間が音を立てて軋んだような気がした。
俺の発言を契機に空気が一変した。冷たく重いものに。その原因は俺の目の前にいる一人の女子小学生。年端のいかない少女がとてつもない重圧を放っていた。周囲も瞬時に気づいたのか部屋中が静まりかえった。
「そうですか。もしかしてとは思っていましたがやっぱり──綺麗さっぱり忘れていたのですね……」
「それはどういう……」
さっきの鈴を転がすような声と同じはずなのにどろりと重く感じる。俺の背筋に冷たいものが走った。こちらを見つめるその小学生の大きな瞳が……さっきから一度も瞬きをしていない。そのことに気づいてしまったのだ。それどころか──
「九頭竜先生とあいは以前に一度お会いしているのです。先生が竜王になった4年前の竜王戦で」
さすがにそんな前のことは覚えていない。それ以前に過去の記憶を探れるような状況ではなかった。この怪しげな光を宿した大きな瞳は、この部屋に入った瞬間からずっと俺を……俺と背後の天衣だけを捉え続けていたのだから。怖ぇよッ! 彼女は気丈なことになんら引くことなく睨み返していたが。
俺は悟っていた。俺と彼女が、この少女の『絶対に許さないリスト』第一位と第二位に記されていることに。この少女は俺たちの心と尊厳を蹂躙し尽くして、それでも飽き足らないほどに憎んでいることを。
あまりに不穏な空気を察したのかギャラリーは巻き込まれては堪らんといつの間にか俺たちを遠巻きにしていた。というか反対側の壁に貼り付いていた。まあ会話が聞き取られなさそうなのはいいのだが──だれか助けてよッ(切実)
どうしてここまで恨まれているのかが分からなかった。続きの話を聞くまでは。
少女の話によると──
初めて会ったのは俺が竜王になったあの日。その決戦の場となったのが少女の生家である『旅館ひな鶴』だった。三勝三敗。フルセットで迎えた最終局。その最終盤で相手玉の即詰みを発見した挑戦者の俺は極度の緊張に襲われていた。
それは次の手を指すこともできなくなるほどのもので。俺は一旦その場を中座してトイレに駆け込んだのだが一向に落ち着くことができず、どころか吐き気・眩暈・平衡感覚を失うと不調のオンパレードに陥っていた。
そしてトイレからの帰路の途中でとうとううずくまり動けなくなり、このまま時間切れで負けることも覚悟したその時、救いの手を差し伸べてくれたのが旅館の子、この雛鶴アマだった。彼女が差し出した一杯の水を飲んだ俺は魔法のように回復し、その後対局室へ戻り勝負を決めた。
問題はその水を貰ったとき。俺は雛鶴アマに対してお礼としてタイトルを獲れたらどんな願いもきくと言い放っていたらしい。これは仕方ない。もし将棋の神様が『名人にしてやるからウンコ食え』って言ったら迷わず食える俺だ。そんなことも言うだろう。
問題だったのは彼女の願いが弟子にしてくれというものだったことだ。そしてタイトル獲得に浮かれていた俺が綺麗さっぱり忘れていたこと。
「いくら待っていても何の連絡もなくて。だから何度もこちらからお手紙を出したんですけど──」
身に覚えがない。というか私生活についてものぐさな俺は郵便物についても放置してポストに溜まるに任せていた。彼女を買いとってからは彼女が管理をしてくれているが。彼女を横目に見れば、すっと視線を逸らされた。どうやら彼女が勝手に処分していたらしい。その間にもJSの怒りの独白は続く。
「それでも一向にお返事がない。だから最終手段として直接大阪に行ったんです。そしたら九頭竜先生はそっちの子といちゃいちゃいちゃいちゃいちゃいちゃ……」
どうやら彼女とべたついているところを見られていたらしい。ピクニックにでも行ったタイミングにかち合ったのだろうか。ともかくこれが怒りの原因らしい。小学生が単身金沢から大阪まで乗り込んでくるなんて一大決心だっただろう。それほど俺に思いを持っていてくれたということだ。それがいざ行ってみれば自分と同じ年頃の女子といちゃついていたときたら……
雛鶴アマの怒りのほども察っせるというものだ。俺は何とか話題を逸らそうと試みた。
「えっと……今日の対局は見事だったね。まさかその年であれほど指せるとは──だれかいい師匠についたのかな?」
さすがに独学とは思えない。きっといい師匠を見つけたのだろう。だからもういいよね、というわけではないが。そんなように誘導して。けれど──
「はい! 絶対その子に負けたくなかったので。九頭竜先生以上の人を探したんです。それで結局日本一の先生にお願いしました」
日本一? そりゃまた大きくでたな。
思わぬ返事に興味をそそられているとにわかに部屋の外が騒がしくなった。そちらへ視線を向ける。ややあって扉が開くと一人の中年男性が入ってきた。後には将棋連盟の職員も付き添っている。その中年男性、特に特徴もない平凡な容姿だ。けれどその人は──
「め、名人。今日はどうしてこのようなところに? あ、いえ名人にお越しいただけるのは大変光栄なのですがっ」
けれどその人は俺たち将棋指しにとっては神にも等しい人だった。タイトル獲得合計99期。竜王以外のすべてのタイトルの永世資格保持者。そして残りの竜王位についてもあと一期で永世位となる。前人未踏の将棋の天才。最強の将棋指し。現名人。
「いえ。お構いなく。今日は弟子を迎えに来ただけですので」
「名人にお弟子さんですか!? そんな話は。しかもそのお弟子さんをここに迎えに来るってッ!?」
そしてその名人は俺たちの側に立つとこう声をかけた。「雛鶴さん、迎えに来たよ」と。驚愕している俺たちやギャラリーをよそに雛鶴アマはぴょんと名人に飛びついた。
「ししょう! 今日は奥さんじゃなくししょうが迎えに来てくれたんですねっ」
「妻も娘たちも手が離せなくてね。僕が一番暇だったんだよ」
名人は今日は頑張ったそうだねとひとしきり雛鶴アマの頭を撫でて労うと、俺に向き直った。
「やあ竜王。こうして実際に会うのは初めてかな。今日は僕の弟子が世話になったようで、ありがとう」
「い、いえ……世話だなんて。とんでもない。僕は解説役を務めただけですので」
まったく状況についていけない。なぜこの場に名人が現れる。それに名人は並外れた対局数を抱えている多忙さを理由に弟子取りを一切拒んでいたはずでは。ともかくもその疑問だけを口にすると苦笑ながらかえってきたのは。
「小学生の身で金沢から東京まで単身乗り込んできた熱意に心動かされてね。この子は絶対負けたくない相手がいるからなんとしても最強の棋士に師匠になってほしいんだと言っていたけれど、それだけでここまで思い切れるものなのかと」
サンダーバードで大阪に乗り込んだ後は、北陸新幹線で東京へ突撃したらしい。とんでもない行動力だ。ほとほと呆れているところに名人はそれに、と言葉を継いだ。
「私は常々女性と対局してみたいと思っていたのですよ。もうすぐ訪れるであろう女性がプロ棋士になる時代を待つつもりでしたが、いっそ自分で育ててみるのもいいかと」
女性? プロ?
突然出てきた言葉に理解が追いつかない。けれど目を白黒させている俺に構わず名人は続けた。自分がやってきたことは過去他の男性がやってきたことの繰り返しでしかないと。誰かが引いてくれたレールの上を高速で駆け抜けただけに過ぎない。
そうではなく、未踏の大地を様々な困難に打ち勝ちながら一歩ずつ歩んだものの将棋はきっと誰よりも強いと思う。だからこそ対局してみたいのだと。聞いていてこの人かっけえなと素直に思ってしまった。
名人は天衣に対して君にも期待しているよと声をかけると、雛鶴アマの手を引いて去って行った。彼女と雛鶴アマは名人をそっちのけで最後まで視線をばちばちやり合わせていたが。君たち名人のあの発言を聞いて感動したりしないのかね、まったく。
しかし名人の元ネタになった人、
プロ歴35年でタイトル99期って平均すると常に2~3冠持ってたわけでとんでもないっすね。
さすがに現棋聖もそこまではいかないかな。